
「コンプラ大丈夫?」「それ、ハラスメントですよ」こんな言葉が飛び交う現代の職場では、若者に対する漠然とした恐怖が広がっている。少子化による超・売り手市場により、年功序列のパワーバランスは逆転した。
目の前の若者とどう接するか、書籍『若者恐怖症――職場のあらたな病理』より一部を抜粋・再構成し、彼らを知るための一助になる情報をお届けする。
「一般論」と「目の前のあなた」は違う
真偽の不確かな若者言説に出会ったとき非常に簡単な解決法がある。若者に直接訊けばいいのだ。そもそも平均的な傾向を知ったとして、なぜ「目の前の人間がそうだ」と決めつける必要があるのだろう。
多くの人に当てはまる統計的一般性を知ることはむろん有用である。しかし仮に示されたデータが統計的な妥当性を満たしていようが、いや統計分析として厳密で正しいからこそ「100%」はあり得ない。
最近の若者の多くがインスタにハマっていることは目の前の若手社員が「必ず」インスタをやっていることを意味しない。若者が飲み会離れをしていたとしても、この前配属された若者が飲み会を嫌がるとは限らない。だからこそ「訊けば」いいのだ。
このand you? にはシンプルな効果がある。「目の前の相手を見ていること」が担保されるのだ。「一般論はこうだからあなたもこうだ」ではなくて「一般論はこうだけどあなたはどうなの?」と話が展開されるべきだ。
若者論の問題は、一般論や平均的な傾向を導くどうこうではない。少数のサンプルから推論を行うことでもない。目の前の人間を「どうせお前もそうだろう」と決めつけることにあるのだ。
若者論は「こんな若者しかいない」と「人それぞれだ」の両極端で揺れすぎていて、レベルの低いところでワケがわからなくなっている。まずはその「一般性」をめぐる混乱を紐解き、傾向と個体の差を認識することからだろう。
二人称の不在
訊いたらええやん。なんでそんな簡単なことができなくなるのだろう。若者も年長者も、目の前の人間を見ることができなくなっているからだ。
筆者が折に触れて紹介しているエピソードがある。講義で学生に意見を求める。手を挙げていなくても当てることもある。で、当てられた学生の初動はほぼ決まっていて、苦笑いしながら横を見る。当てた教員ではなく隣の友達を見る「横向くシンドローム」だ。
心情を察するにあまりある。人が多い講義で当てられて話すのはなかなか怖い。失敗して笑われたらどうしよう。「うっわ、アイツ喋ってるやん」とからかう不逞の輩もいる(本当にいる。小学校のノリを卒業しろと強く注意する。Z世代が多様性を尊重?)。そういうリスクをふまえて、まず横の友達にお伺いを立てるのだ。当てられたけど喋っていい?イタくない?と。
この話を歴史学者の與那覇潤氏は「第三者過剰、第二者過少」と表現する。目の前にいる「あなた」が二人称。ところが若者は、いや老若男女が、だんだんと目の前の人に対して話さなくなっている。たとえばSNSは二人称が存在しないことも多い。
「あなたに言っているんだ」と言いながら他の誰かにアピールする。目の前の人が助けを求めても先に上司やお偉いさんの顔が浮かぶ。われわれは第三者を第一に気にするようになっていて、二人称のこころがすぐ吹っ飛んでしまう。
われわれはどうやら、目の前の人間すら無視できる程度に感覚が鈍麻しつつある。
若者も怯え迷って生きている
横向くシンドロームへの若者の反応は素直というか肯定的だ。その通り怖いんです、と。
「自分の意見を言うのは怖い」
「否定されたらどうしよう。味方がいると安心する」
「匿名性を好むのも、そういうことだと思います」
否定は怖い。誰しもそうだ。でもいまの若者は余計そうなのだと思う。
とある取材を受けていたとき、ちょうど取材してくださった方が「Z世代」だった。ため息交じりに言う。
「受験期も、失敗しないナントカっていう参考書が多くて。買ったんですけど、失敗したらどうなるんだろうって。若者に失敗を許さない世の中かもしれませんね」
自分の意見を言うのが怖い、否定されたくない、匿名じゃないと書けない。それを自覚しながら(別の)若者はこうも語る。
「でもそれは上司側からすると、他責思考なのだろうなと思う」
若者とて、逡巡と葛藤そして恐怖のなかで生きているのだ。それこそ昔からそうだったはずである。思春期という概念があり(そういえばあまり聞かなくなった気がする)、コンプレックス(複雑さ)を抱え、若者は生きている。
楽しいクラスで一体感を持ちつつ多元的な価値観だの、多様性を重視して倫理性が高いだの、なに抜かしとんねんと若者も思うのじゃなかろうか。こちとらそんな崇高な思想にたどり着く前の、もっと肌身の人間関係で悩んどるっちゅうねん。
同性愛への理解があるだとか、弱者への配慮が行き届いているだとか。親友がカミングアウトしてきて、即座に笑顔で素晴らしいね! って言えへんやろ(言える方は素晴らしい)。より正確には、「言えなかったら人間失格」みたいなのは違うだろ。
それが年を重ねるということだ。熟達だ。年の功を捨てて若者こそ正しいとか言い出すのは、人間が学習できることをまるで無視した暴論であり空論だ。
コミュニケーションですべて解決?
結局ここまで述べたような問題は、コミュニケーションさえ取れれば解決できそうでもある。飲み会などインフォーマルコミュニケーションも使いながら、これからのキャリアについて話し合えれば、辞めたい気持ちがよぎっても建設的に前を向けるかもしれない。コミュニケーションのある職場はハラスメントも減る傾向がある。
でもそれは気が遠くなるくらい難しい。メディアやネットが面白おかしく尾ひれをつけてハラスメント大喜利を繰り出して、不安を煽るから。コミュニケーションを取ること自体が怖いから。
就活の面接みたいに妙にスラスラと思ってもいないことを語れることなど、われわれの日常にはほとんどない。つっかえながら、考えながら、途切れ途切れに思いを語り、相手の話を聞く。そういう不完全で面倒なコミュニケーションを重ねることでしか、わかり合えることなどないと思う。
社会に蔓延る不真面目さ
怖い気持ちを克服すべくコミュニケーションを取ろうとすることを妨げるものがある。「不真面目さ」だ。若者を例に考えよう。大学で教えていて「この講義では出席を取りません」と通達する。するとたまにこういうリアクションが返ってくる。
「そんなこと言って本当は、何回目かで抜き打ちで取ったりするんでしょう?」
ちょっと驚いて訊いてみると、高校までにそういう経験があるそうだ。いまそういうことをすると教員側が怒られるので大学ではそうそう起きないはずだが(教員への管理が厳しくなったことの証左でもある)…。課題や行事に真剣に取り組まない若者に問うと、半笑いで「本当はこんなの別にマジメにやるようなことじゃない」と返してくる。閑職のオジサンみたいな発想を既に身につけている。
ともかく、この手の話はよく聞く。「本当は」とか「実は」みたいな枕詞をともなって、常にハックや抜け道があるかのように考えているのだ(飲み会かどこかでウラ情報を得ているのかもしれない)。
ここで言う不真面目とは、目の前にいる人の言葉をそのまま信頼しようとはせず常に裏読みをして、隠された意図や目的を推測するような性向である。若者が不真面目なコミュニケーションを基軸にするのはとても危険だ。そして正直、先行世代である大人がそうさせているとしか思えない。
不真面目さが危険なのはインフルエンサーや悪徳業者の常套手段でもあるからだ。政府のメッセージや有名人の発言を常に信じず「本当は」「真の」といった文句で「あなただけは騙されてはいけない」と誘引する。
でもそう思ってしまう気持ちもわかる。地位の高い人たちが堂々とごまかした発言をする。一部マスコミの権威も失墜しつつある。就職活動だってフェアとは感じられない。社会が不真面目だから若者も不真面目になるのだ。
理解の根本に不真面目さを求めるコミュニケーションは健康的でなく、結果的に大きなコストと軋轢を招く。不真面目さには規範がないからだ。何かを頼りにしようと思っても、最後までエビデンスもデータもない。感想すらない。正解のない世界に対して、斜めに構えるだけの人生になってしまう。
新しいものを信じたところで…
価値観のアップデートという言葉をよく聞くようになった。なんか古い価値観はダメらしく、新しいのに合わせろということらしい。多様性の尊重とかパワハラをしないとか、なんとかかんとか。じゃあ過去にやってきたことは何だったんですかと言いたくなる。
新しいモノが良いのかは置いておこう。古いモノがやたらにダメだと叫ぶのだけど、それはかつて新しいモノだったんじゃないのか。いま押し付けてくるアップデートされた価値観もすぐ陳腐化するんでしょ。先述の不真面目さにも繋がる。いま信じさせられていることがいつひっくり返されるかわかったものじゃない。どうせそのうち誰かの都合で変えられてしまうのだろうと思ったら、本気で信じるのは難しい。
有力企業がダイバーシティ施策をやめると言い出したのは象徴的だった。企業の気持ちもわかる。管理職の男女や人種の比率を上げろ(変えろ)と社会から要請される。その通り努力しても、まだまだこれが足りないと無限の要求が続く。
そもそもダイバーシティとは何なのかは隅に追いやられて、特定属性の比率だけを叫ぶようになっていく。もはや多様性ではなく二様性(Aかnot Aか)である。
しかしダイバーシティは社会にとって間違いなく大事なことで、もっと全員で協力的に大切に進めていくべきだったはずだ。それをあっけなく巨大企業が放棄してしまったことには失望も怖さもある。若者はいっそう「あっ、他人の言うことを簡単に信じちゃいけないんだな」って思うだろう。
若者恐怖症ーー職場のあらたな病理
舟津 昌平
「若者がこわい」は、職場に潜むあらたな病だった。
気鋭の経営学者が読み解く“年の功”消滅社会の正体
「コンプラ大丈夫?」「それ、ハラスメントですよ」
こんな言葉が飛び交う現代の職場では、若者に対する漠然とした恐怖が広がっている。
少子化による超・売り手市場により、年功序列のパワーバランスは逆転した。新人を腫れ物扱いしたり、若手に過剰に忖度している場面に、心当たりはないだろうか。
そんな時代、上司や先輩社員は若手への適切な指導や対話ができずに悩み、ときに「どうせすぐ辞める」「関わるだけ損」などと、距離をとってしまう。こうした空気が、職場に深刻なコミュニケーション不全をもたらしている。
本書では、経営学者・舟津昌平氏が、「飲み会離れ」「早期離職」「やりがい・成長」「ハラスメント」などのキーワードを手がかりに、職場で静かに進行する“若者恐怖症”の実態を明らかにする。
データと現場の声をもとに、通説の矛盾を暴き、世代間の不信やすれ違いの背景にある社会構造を読み解いていく。
部下のマネジメントに悩む管理職はもちろん、20代・30代にも、Z世代にも読んでほしい、
すべての働くひとに向けた、職場改善の処方箋。
【目次】
はじめに 老害になりたくないあなたへ
第1章 若者恐怖症─たとえば、飲み会恐怖症
第2章 若者論の交通整理─Z世代をたらしめるもの
第3章 そして何が問題なのか─神話の喪失、竹槍と学徒動員
第4章 離職恐怖症─若者はすぐ会社を辞めるのか
第5章 やりがい恐怖症─若者は成長しないといけないのか
第6章 ハラスメント恐怖症─若者はなんでもハラスメントって言うのか
第7章 持病とつきあっていく─いっしょに恐怖を飼い慣らす