24歳の井上陽水と22歳の忌野清志郎…アンドレ・カンドレの『カンドレ・マンドレ』がつないだ縁「若気の至りっていうのは怖いよね(笑)」
24歳の井上陽水と22歳の忌野清志郎…アンドレ・カンドレの『カンドレ・マンドレ』がつないだ縁「若気の至りっていうのは怖いよね(笑)」

この8月30日に77歳の誕生日を迎える井上陽水。日本の音楽シーンに数々のヒット曲を送り出した彼だが、井上陽水と名乗る前に名乗っていた芸名があった。

自身も「若気の至り」と話すその名だが、同時代を生きる若き忌野清志郎の感性に強く響いた。 

忌野清志郎が気が合うと思った「アンドレ・カンドレ」

1969年に「アンドレ・カンドレ」という名前で登場した井上陽水。デビュー曲は『カンドレ・マンドレ』というタイトルだった。発表されたその当時は変な芸名だったし、曲のタイトルもかなり変な感じがした。

少し前に爆発的にヒットしていた“変な歌”である、ザ・フォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』を聴いて、井上陽水は自分にもできると思ったので、『カンドレ・マンドレ』という曲を作ったと述べたことがある。

だが、上質なポップ・ミュージックだったデビュー曲も、残念ながら発表当時はまったく世の中に受け入れられなかった。

最近になって本人は「若気の至りっていうのは怖いよね(笑)」と話しているが、そのどこか普通ではないネーミングには、井上陽水という表現者が持っている美意識と恥じらいが潜んでいる。

芸名に美意識と恥じらいが潜んでいるといえば、同じ時代の「忌野清志郎」が挙げられるだろう。1982年に行われた二人の対談のなかで、「ネーミングでアーティストの面白さっていうのがわかるんですか?」という司会者の質問に、忌野清志郎がはっきり応えている。

わかる。陽水なんか、最初アンドレ・カンドレだったでしょ。で、出したレコードが「カンドレ・マンドレ」だったし、この人は気が合うだろうなって思ったもの。

忌野清志郎は二人が出会った頃の印象について、井上陽水がビートルズをコピーしながら熱心に研究していたとも語っている。

デビューから4年後の1973年3月1日。井上陽水に改名して再デビューしてから3枚目となるシングル『夢の中へ』が発売された。

同年3月公開の東宝映画『放課後』(監督/森谷司郎)の主題歌として使われたこともあって、この曲は井上陽水にとって最初のシングル・ヒットになった。

『カンドレ・マンドレ』と『夢の中へ』のタイトルに共通しているのは、「か」という音韻だった。そして『カンドレ・マンドレ』の歌詞では、「か」の音韻がワンコーラスに3回出てくる。

ところが『夢の中へ』の歌詞には「か」の音韻が、ワンコーラスになんと11回も出てくる。声に出して読めばわかるのだが、歯切れがよい「か」という音韻が積み重なっていくことで、日本語によるビート感とノリが自然に生まれている。

聴いていて歌詞がなめらかに歯切れよく聞こえるのは、天才的なシンガーのなせる技だったからだろう。

『カンドレ・マンドレ』から『夢の中へ』への進化は、忌野清志郎が言った“研究熱心なヤツ”がビートルズの曲を歌って研究し、自分のものにしたという証のようなものだったに違いない。

24歳の井上陽水と22歳の忌野清志郎の共作

そんな二人が、1973年12月1日にリリースされた井上陽水のアルバム『氷の世界』で、『帰れない二人』と『待ちぼうけ』を一緒にソングライティングしていた。 

その頃、井上陽水が住んでいたのは東京都三鷹市のアパート。お互いヒマだったので電話で「一緒に曲を作らないか」と誘ってみた。

忌野清志郎はギターを持って出かけていった。

「最近はどんな曲作ってんの?」って陽水が訊くから、「指輪をはめたい」をオレが歌ってやったわけ。陽水はじっと聴いてた。「いやー、実にいい曲だね」って感心してね。

「でも、その歌詞じゃ、だめだよ。売れないと思うよ」っていうんだ。「どんなコード進行なの?」って陽水がねばるからさ、「指輪を~」のコード進行を教えてやったよ。

それでふたりでこの曲をいじくりまわしてさ。途中まで「指輪を~」と同じコード進行で、ちょっとメロディー変えてね。最後の部分エンディングを陽水が作った。なんつうか無理矢理のエンディング、それが陽水の特長なのかもね。

イントロからワンコーラスがまとまったところで、井上陽水はその場で一番の歌詞を作ってから、「二番は清志郎が作れ」と言った。

何日か経って二番を作ってさ。それを陽水に電話送りで伝えたわけ。それが「帰れない二人」なんだよね。つまり「指輪を~」のメロディーが「帰れない~」の基本になっているのさ。

『帰れない二人』は、アルバムに先駆けて発売されるシングルの候補曲に選ばれたので、さっそくレコーディングが行われた。アレンジした星勝のセンスが加えられたことで、井上陽水を筆頭に主要なスタッフたちは全員、これをA面にするつもりになったという。

ところがレコード会社のプロデューサーだった多賀英典だけは、もう一曲の候補曲だった『心もよう』を強く推して対立する。多賀は最後まで自説を押し通して、『帰れない二人』にこだわる井上陽水とスタッフたちを一人で説得した。

『心もよう』の方が日本では売れるという多賀の判断が正解であったことは、それまでの最大のヒット曲になったことで証明された。『帰れない二人』が発売されたのは1973年9月21日、シングル盤『心もよう』のB面としてであった。

『心もよう』は前作の『夢の中へ』を超えるヒットになっただけでなく、わかりやすい遠距離恋愛をテーマにしていたので、叙情的な歌を好むリスナーにまでファン層を広げることにも成功した。

しかしながら今になってこの2曲を聴き比べると、『心もよう』が昭和という時代を感じさせるのに対して、『帰れない二人』は時空を超えて輝いている、ということに気づかされる。

井上陽水の伸びやかなヴォーカルによって、忌野清志郎が書いた二番の歌詞がいつまでも深い余韻を残すのだ。

ニューミュージックの時代が到来していた中にあって、『帰れない二人』は最先端の傑作と呼ぶにふさわしい楽曲だった。

24歳の井上陽水と22歳の忌野清志郎。

ふたりの才能が正面からぶつかり合ったことによって、それまでにない新しい音楽が誕生したといえる。

そうして作られた井上陽水のアルバム『氷の世界』は、LPレコードとして日本初のミリオンセールスに到達するという快挙を成し遂げた。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP

引用
「GOTTA!忌野清志郎」(連野城太郎著/角川文庫)
「井上陽水 FILE FROM 1969」(TOKYO FM出版)

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