
戦後、目覚ましい経済発展を遂げた日本。そのなかでも、東京オリンピックは戦後復興をアピールする絶好の機会だった。
『48時間以内に退去せよ 日本が戦争に負け、あの日、羽田で何が起きたのか』(旬報社)から一部抜粋、再構成してお届けする。※本書は「PEACE BOOKシリーズ」として、若い人にも読んでもらえるようふりがなが付いているため、本記事にもふりがながついています。
300年続いた羽田の漁業との別れ
羽田で代々海苔(のり)養殖(ようしょく)を手がけてきた石井(いしい)五六(ごろく)さんの家では、五六(ごろく)さんが七代目として家業を継(つ)いでいました。六代目石井幾右衛門として家業を継(つ)いだ父の一六さんは、海苔(のり)専門(せんもん)の共同組合である「都南(となん)羽田魚業協同組合」をつくり、初代の組合長でもありました。
1959(昭和34)年、東京都内湾(ないわん)漁業対策(たいさく)審議(しんぎ)会が設置され、以降(いこう)、東京都と漁業者の交渉(こうしょう)が始まることになります。
その頃(ころ)、五六(ごろく)さんは組合の理事で、30代でした。補償(ほしょう)交渉(こうしょう)の委員も務めていた五六(ごろく)さんは、東京都との交渉(こうしょう)の前面に立ち、話し合った内容を羽田に持ち帰って組合員の漁師たちに説明する役割(やくわり)を担(にな)いました。
漁業権(けん)を放棄(ほうき)するということは、これまで漁師として生きてきた人たちにとって、職と漁場、船などの道具のすべてを手放し、転業することを意味します。
当然、多くの漁師たちは抵抗(ていこう)し、特に年配の人ほど転業が難(むずか)しいため、反対が大きかったと、五六(ごろく)さんは当時を振(ふ)り返ります。
「難色(なんしょく)を示していたのは主に40代、50代の漁師たちで、説得するのに半年かかったね。でも私は、今やこんなに汚染(おせん)されてしまった海で海苔(のり)の養殖(ようしょく)や漁を続けるのは、もう無理だと思った。
その頃(ころ)は沖合を通る貨物船から廃油(はいゆ)が垂(た)れ流され、多摩(たま)川は真っ黒になっていた。
都の補償(ほしょう)交渉(こうしょう)は2年に及(およ)んだと、五六(ごろく)さんは話してくれました。
「海苔(のり)養殖(ようしょく)も魚を獲(と)る漁業にも、豊作と不作があります。不作の年は収入(しゅうにゅう)も減る。資本を持って海苔(のり)養殖(ようしょく)ができていた人たちはまだ良かったけれど、魚や貝を獲(と)る零細(れいさい)の漁師の中には船も持っていない、日雇(ひやと)いの人もいてね。そういう漁師は蓄(たくわ)えもなく、時化(しけ)の日が何日も続くと、明日の飯にも困(こま)って質屋通いをしている人もいた。いわば当時の羽田は、貧民窟(ひんみんくつ)(貧しい人たちが暮(く)らす所)みたいな漁村という一面もあったんだね。
漁業権(けん)放棄(ほうき)で海苔(のり)も漁業もできなくなるけれど、これを契機(けいき)に他産業に転換(てんかん)することで、この貧しい漁村が甦(よみが)るんじゃないか。羽田はきっと、経済(けいざい)的に今よりよくなる。そう考えて一生懸命(けんめい)勉強して、2年間の交渉(こうしょう)に臨(のぞ)みましたね」
最終的に組合員も納得(なっとく)してくれて、補償(ほしょう)交渉(こうしょう)がまとまりました。
世界第3位、アジアで最も混雑する国際空港に
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こうして羽田の漁師たちは漁を辞め、それぞれ町工場や商店を起業したり、海苔(のり)干(ほ)し場だった土地などを利用してアパートを建てたりし、町の風景も変わっていきました。
石井(いしい)五六(ごろく)さんは仲間と共同で転業し、当時高速道路建設などの需要(じゅよう)で先端(せんたん)産業だった、生コンクリート工場の経営に乗り出します。
そんな高度経済(けいざい)成長期、羽田空港の規模(きぼ)も拡大(かくだい)されていきます。
航空機のジェット化が急速に進展(しんてん)する中、滑走(かっそう)路をはじめ空港施設(しせつ)の規模(きぼ)拡充(かくじゅう)がおこなわれ、1964年から71年にかけて滑走(かっそう)路が三本に増えます。
続いて78年に新東京国際空港(成田空港)が開港、中華(ちゅうか)航空を除(のぞ)く国際線が成田に移転します。羽田空港は国内線空港となったかに見えましたが、その後、航空機の大型化、高速・大量輸送時代が到来(とうらい)し、成田と羽田の処理(しょり)能力が限界に達していきました。
また、騒音(そうおん)や排気(はいき)ガスなどの環境(かんきょう)問題に対応する必要にも迫(せま)られ、羽田の空港施設(しせつ)は大規模(きぼ)に沖合へ伸(の)ばすことになり、84年から2007年まで「東京国際空港沖合展開(てんかい)事業」がおこなわれました。
その後、四本目の滑走(かっそう)路となるD滑走(かっそう)路ができて、国際線地区が2010年から使われるようになりました。
つまり羽田空港は、1931年の開港時は滑走(かっそう)路が一本、面積が53ヘクタールの小ささだったのに対し、現在は沖合の埋(う)め立てが重ねられた結果、滑走(かっそう)路四本、1522ヘクタールまで拡大(かくだい)されたのです。面積は約30倍になり、その広さは東京都の渋谷(しぶや)区とほぼ同じという、何とも広大な国際空港となっています。
その結果、今では羽田はアジアで最も混雑する空港になりました。
イギリスの航空情報会社OAGが発表した、2024年の国内線・国際線を合わせた「世界の利用客の多い空港ランキング」によると、羽田は1位のアトランタ(米国)、2位のドバイ(UAE)に次ぐ第3位でした。
こうして滑走(かっそう)路や施設(しせつ)が沖合に展開(てんかい)されたことで、1945年まで約3000人が住んでいた旧羽田三町のエリア、海老取(えびとり)川からすぐ東側の土地は空港跡地(あとち)となりました。現在、官民連携(れんけい)の「羽田空港跡地(あとち)まちづくり」として、公共施設や公園への整備が進められています。
文/中島早苗 サムネイル/Shuttetstock
『48時間以内に退去せよ 日本が戦争に負け、あの日、羽田で何が起きたのか』(旬報社)
中島早苗 (著)
その翼の下には3000人の暮らしがあった。羽田の悲劇を忘れない。
敗戦直後の1945年9月、東京・羽田の住民に対してGHQ(連合国軍)から突然の命令が下る。
「48時間以内に退去せよ」。これにより先祖代々暮らしてきた故郷を人々は一瞬で失うこととなった。
かつては江戸前の漁師町として、そして現在は空の玄関口として発展を続ける羽田。
しかし、そこに強制退去の悲劇があったことはほとんど知られていない。
現地を歩き、たんねんに史実を掘り起こし、戦争のもたらす悲惨さと理不尽さを問うノンフィクション。
本文ルビ付き。