
1989年に放送開始した伝説のアマチュアバンドオーディション番組「三宅裕司のいかすバンド天国」(以下、イカ天)で一世を風靡し、翌年のメジャーデビューシングル『さよなら人類』が約60万枚を売り上げる大ヒット。“日本のビートルズ”とも称されたバンド「たま」が当時巻き起こした“たま現象”とは何だったのか、元たまのギターボーカル・知久寿焼氏が当時の熱気を振り返る。
イカ天応募は「一度長蛇の列を経験してみたかった」
――「たま」のメジャーデビュー&名曲『さよなら人類』の発売から35年が経ちました。
知久寿焼(以下、同) もうバンドは解散しちゃってるからね。とくにどうってものはないですね。
――還暦を迎えた現在もソロで精力的に活動していますが、元たまと言われるのは抵抗が……?
それは事実だから大丈夫です。ただ、あんまりたまのことばっか聞かないで、とはなるけど(笑)。
――今回はたま時代の話題ですみません。イカ天で彗星のごとく現れた印象のあるたまですが、その時点ですでに結成6年。ライブシーンではかなり人気があったそうですね。
吉祥寺の「曼荼羅」や「MANDA-LA2」ってライブハウスを拠点でずっとやっていて、そこはいっぱいになってましたね。でも売れるのは無理だろうと自分たちでも思ってました。
――それでもイカ天に応募。
イカ天ってバンドやってる人はみんな気になるわけですよ。
それで友達の笹山(テルオ)さんのバンド(THE WEED)が出演したら、イカ天キングにはなれなかったけど完奏できて(※)、その次のライブが長蛇の列だったって話を聞いたんです。
(※出演者の演奏の映像に対し、審査員全員が赤ランプを押すと映像は強制終了。赤ランプが2つ押されるとワイプとなり、3分間ワイプとならなければ完奏となる。その週のチャンピオン「イカ天キング」が審査員によって選ばれ、イカ天キングが5週勝ち抜くことで「グランドイカ天キング」となる。たまは3代目グランドイカ天キングとなった)
メンバーとの飲み会で「一回、長蛇の列を経験してみたいよなー」って話にはなるものの、意見はまとまらずって感じで。
――メンバー間で出る派と出ない派で割れていたそうですね。
当時は僕が宣伝と事務作業をやってて。自分んちの電話番号を載せたチラシに自分らのバンドのイメージイラストを描いて、知り合いの印刷屋さんに余った安い紙に印刷してもらってライブハウスに置いてた。
でもイカ天だったら音も演奏してる様子もそのまま見てもらえる。宣伝をやってる身としてはこんなにいいものないじゃんって。
――でも乗り気じゃないメンバーもいたと。
僕らは全員怖がり。番組に送ったデモ音源が却下されたらすごく傷つくから、踏み出せなかったんですよね。
そんな僕らにしびれを切らした当時の女性マネージャーが勝手にデモテープを送って、出演することになったんです。
ストレス限界でラジオで放送禁止用語
――そして、初登場で『らんちう』、2週目で『さよなら人類』を披露するなどお茶の間の度肝を抜き、あれよあれよと「グランドイカ天キング」に。大フィーバーだったかと思いますが、当時を振り返るとどんな毎日でしたか?
おもしろかったですよ。スケジュールはものすごく大変だったけど、毎日ウキウキしてました。
――相当モテたのでは?
まぁ太ってた小学生時代に比べればね。走るより転がしたほうが速いんじゃないかってくらい太ってたから(笑)。
――家バレもしていて、女性ファンがよく来ちゃったらしいですね。起きたら女子高生が知久さんの枕元に立っていた、なんて伝説もありますが。
それは本当なんですけど、ギリギリ不法侵入じゃないと思うんだよね。僕は当時、大家さんの敷地にある四畳半くらいの一間の離れに住んでて、その部屋の掃き出し窓が隣の家との間にある、人も通らないようなほっそ~い路地に面してたの。
で、ある日その窓を網戸にして頭を向けて寝てたら「知久さん、知久さん」って声が聞こえてきて。起きたらその路地から制服を着た女子高生がこちらを覗いてたっていう。
――怖すぎる(笑)。
でも家の中に踏み込んだわけじゃないからね。もしかしたら網戸は開けられてたかもしれないけど。
その子とは何十年後かに高円寺の飲み屋で会ったよ。「ごめんなさい。私、昔知久さんの家に行っちゃったことあるんですよ。覚えてます?」って。覚えてるに決まってるでしょ(笑)。
――そんな熱狂ぶりに、いくら最初はウキウキだったとはいえ、辟易したりはなかったんですか?
まぁ取材対応だったり撮影だったり、音楽以外のところでしんどかった部分はありますよ。インタビューは何回も同じこと言わなきゃいけないし、新聞記者の面倒くさそうに話を聞く感じも苦手で。
こっちは一生懸命説明してるのに結局記事に全然反映されない。最初から記者が知ってる情報だけで書かれたりすると、俺たちは何のために時間をつぶして取材を受けてんだろって気持ちになりましたね。
――ストレスも溜まりますね。
とくに(パーカッションの)石川(浩司)さんが溜まってたみたいで、それが爆発したのがあるラジオの公開収録。
あの人は怒られるのが大の苦手で、5秒沈黙すると放送事故になるラジオなんかだと2秒も黙ってられないくらい気が小さいんですよ。僕への質問だって僕が数秒のんびり考えてると、石川さんが代わりに答えちゃうくらい。
そのくせにその日はもうストレスが限界だったみたいで、自己紹介のときに「×××リーノ石川で~す」って言っちゃって。
――めちゃくちゃ差別用語!
「おー旦那、ついに言っちまったか」と他のメンバーもそれに乗っかってラジオはめちゃくちゃ。次のゲストで控えてらした河内家菊水丸さんにも「ひどいですね」と呆れられました。菊水丸さんとは仲良くなりたかったんだけどな。
「当時はビックリするくらいもらってたけど…」
――イカ天に出たことでイロモノ扱いされることも多かったのでは?
その自覚は当然ありましたよ。だって石川さんと一緒にやってて、イロモノじゃないは無理があるでしょ(笑)。
――確かに(笑)。
まぁ、僕らメンバーはそれぞれコミカルなものが好きっていうのは共通してあったから、別に問題なかった。コミックソングを歌うわけじゃないけど、コミックソングもそれはそれでおもしろいなって思ってましたし。
――「カブキロックス」とか?
あれはコミックソングじゃないですね。安易な何かです(笑)。
――イロモノに見られながらも「たま」の演奏技術は非常に高かった。
それは勘違い。たまは4人全員がシンガーソングライターの集まりだから、歌の流れの中で息を合わせるのが上手かったってだけですよ。
ロックバンドの人たちはドラムとベースのリズムの上に上物(ギターやボーカルなど)を乗っけるから、そういう人たちから見れば、ちょっと特殊に映ったのかもしれないね。
――下世話な話ですが、人気者になってかなり儲かったんじゃないですか?
それ以前に比べたらビックリするくらいもらってたね。でも、当時同じ事務所に所属してたバンドも、どうやらみんな搾取されてたみたい。
――当時の事務所はPCMですよね。
そうそう。僕らみたいなバンドをいっぱい抱えて大当たりした事務所。儲かったお金で伊豆に温泉付きのでっかいスタジオを作ったりして。
お金は必要以上にあると、それに支配されちゃうからさ。
――含蓄のある言葉です。改めて「たま」時代を振り返って。
まぁ楽しかったですよ。たまがなければ、今こうしてのんびり歌って暮らせてませんから。
――後編では知久さんの現在の活動とたま復活の可能性について聞きます。
(後編に続く)
取材・文/武松佑季
撮影/二瓶彩