
彼らの音楽を聞いたことがない人でも、その独特なメイクでひと目わかるロックバンドのキッス。今やロック界の伝説となっている彼らを一躍スターにした1枚のライヴ・アルバムがあったことをご存知だろうか。
レコードデビューまで道のり
のちに「キッス」を結成することになるポール・スタンレーとジーン・シモンズ。2人はもともと「ウィキッド・レスター」というバンドのメンバーだった。
1970年に結成されたウィキッド・レスターは、翌年にデモテープを聴いたエピック・レコードからアルバムを発売しようと持ち掛けられ、1年近くをレコーディングに費やしてアルバムを完成させた。
ところが、ようやく完成したアルバムに対するエピックの反応は非常に渋く、アルバムを出すという話はなかったことにされてしまう。
結成から2年余り。その活動内容はたった2回のライヴと、お蔵入りになってしまったアルバム制作のみだった。ほとんど人前で歌っていないからファンもいないし、先の見えない状況に痺れを切らしてメンバーも抜けていった。
ポールとジーンは、自分たちのバンドに必要なのは印象的なイメージと、明確な音楽の方向性だと分析。新たなメンバーを探して再スタートを図る。
1973年1月、リード・ギターのエース・フレイリーとドラムのピーター・クリスを加えた彼らは、バンド名を「キッス」に改めた。
デヴィッド・ボウイやT・レックスを筆頭に、派手な化粧や衣装が印象的なグラムロックが全盛だったこの時代。彼らも白塗りや様々な衣装を試しながら、自分たちに合ったイメージを模索していく。
そして、自分たちに女性のようなメイクは似合わないという結論に至った彼らは、お馴染みのキッス・メイクに辿り着くのだった。
初ライヴでは、たったの3人しか観客がいなかったという彼らのステージも、奇抜な格好や派手なパフォーマンス、そして実力に裏打ちされたパワフルな演奏により、次第に高い評価を集めていった。
こうしてキッスは1年足らずで新興レーベルのカサブランカ・レコードと契約を交わし、翌年2月には1stアルバム『地獄からの使者~キッス・ファースト (原題/KISS)』をリリースする。「ウィキッド・レスター」時代に苦汁をなめたポールとジーンの2人にとっては、念願のレコード・デビューとなった。
マネージャーのクレジットカードで生きながらえる日々
結成からデビューまでは順調に来ていたキッス。しかし、ここからが本当の苦難の日々の始まりとなった。
アルバムの内容に自信のあったメンバーとレーベルは、大々的にプロモーション・ツアーを展開したが、アルバムの売れ行きは一向に伸びず、全米チャート87位という結果に終ってしまう。
続く2ndアルバムと3rdアルバムもセールス的には振るわず、彼らはマネージャーのクレジットカードで、かろうじて生きながらえるという日々を過ごすのだった。
加えて、所属するカサブランカ・レコードも破産寸前にまで追い込まれていた。絶対に売れるはずだと確信して100万枚以上もプレスした、ジョニー・カーソンというコメディアンの2枚組レコードが全く売れず、莫大な負債を抱えてしまったのだ。
売れないバンドと破産寸前のレーベル。窮地に追い込まれた両者に一筋の光明が差したのは、1975年春のこと。
4月にシングルカットされた『ロックン・ロール・オール・ナイト』が、デトロイトのラジオ局で火がついて、連日かかっているという情報が入ってきた。
かねてからライヴ・アルバムを出したいと考えていたメンバーとレーベルは、ここで勝負に出ることにした。
予定していたツアーをキャンセルして、急遽デトロイトでのコンサートを開催し、それをライヴ・アルバムにすることを決めたのだ。
彼らの目指すライヴ・アルバムには、大観衆による熱狂が必要不可欠であり、デトロイトでならそれを得られるかもしれなかった。
そして1975年5月16日。1万人以上を収容できるデトロイトのコボ・ホールには、大勢の観客が詰めかけ、ステージにキッスが現れると、それまでメンバーが経験したことがないほどの歓声が上がった。
キッスの2枚組ライヴ・アルバム『地獄の狂獣 キッス・ライヴ(原題/Alive!)』は、9月にリリースされると瞬く間に売り上げを伸ばし、全米チャート9位まで上昇。そこから110週にもわたってチャートインし続けた。
キッスは遂に人気バンドとしての地位を確立し、カサブランカ・レコードも経営を立て直すことに成功。その後、キッスは4作連続でプラチナディスクを獲得するという、驚異的な快進撃を展開していったのである。
文/TAP the POP
参考文献
『ポール・スタンレー自伝 モンスター 仮面の告白』(シンコーミュージック)
『KISS AND MAKE‐UP―ジーン・シモンズ自伝』(シンコーミュージック)