
今では競技にかかわらず当たり前となった代理人交渉制度。アスリートとして当然の権利であるが、およそ20年前の球界ではそれが認められていなかった。
日本球界だけがガラパゴス状態
サッカー日本代表の中田英寿の顧問弁護士をしていた山崎卓也は中田から、FIFA(国際サッカー連盟)のエージェント(選手代理人)の資格試験を受けてみたら? と勧められた。1998年のことだった。
FIFAは1996年から代理人のライセンス制度を導入しており、エージェントはクラブとの契約交渉を中心とする選手の代理業務のプロである。
当時、日本でもエージェントの存在は、海外から来る外国人選手には一般的な存在であったし、中田のように海外に移籍する選手にとっても不可欠であるため、その存在が注目されつつある時期であった。
中田の意図を汲んだ山崎はFIFAのエージェントライセンスの試験を受験し、1999年にエージェント資格を得る。以降、プロサッカー選手の代理人として海外移籍などグローバルな仕事を遂行していく。
その山崎が日本のプロ野球選手の置かれた環境の矛盾に気がつくのに時間はかからなかった。
すでに米国4大スポーツ(アメフト、野球、バスケット、アイスホッケー)の選手たちは代理人制度を利用し、自分たちの権利保護に努めている。日本のJリーグでも、1993年の発足時から制度上認められていた。
しかし、サッカー以上にプロスポーツとしての歴史のある野球界には一切、これが認知されていなかった。
選手は徒手空拳での交渉を強いられていた。NPBはそれでいながら、外国人選手には許容しており、それもまた合理性を欠いていた。
「これはおかしい。メジャーリーグやサッカーの世界では、当たり前のように代理人がついてお金の話を選手個人がしないで済む環境になっている。プロアスリートは交渉のプロではない。そこは代理人に任せてトレーニングに集中してパフォーマンスを上げて行くというのが世界の趨勢なのに」(山崎)
日弁連(日本弁護士連合会)のスポーツ法研究部会で研究を続けていた山崎が古田敦也(当時ヤクルト)と初めて出会ったのは1999年の7月であった。
5代目の選手会長に就いていた古田もまた問題意識を共有していた。古田自身、1993年の契約交渉に代理人の同席を望んだが、これを拒絶されている。
しかし、代理人を拒む法的な根拠は実は野球協約上にも存在していなかった。要はただオーナーが嫌がっているというだけであった。
このままでは日本球界だけがガラパゴスになる。古田は山崎に選手会の顧問弁護士の依頼をする。山崎は快諾し、盟友の石渡進介とともにこの任に就いた。
そこから全選手に自分の携帯番号を教え、データベースを作り、契約や移籍についてなどあらゆる相談に無期限で応じた。
古田と山崎は、一般的にまだ認知度の低いプロ野球の選手会と代理人制度についての理解を得るために、社会に向けてアピールしていこうと話し合った。
山崎が提案したのが、シンポジウムであった。議論の場を設けて、世界標準とプロ野球の発展についてファンにも思考と理解を深めてもらうのである。
99年の12月2日にそれは開催された。タイトルは「プロ野球の明日のために」と銘打たれた。
特筆すべきことだが、このとき、古田は主に有識者等によって構成されたパネラーの一人に野茂英雄を呼んでいた。
当時の野茂はメジャー通算5年目でミルウォーキー・ブルワーズでチーム最多の12勝をあげていた。MLBでは新人王、そして一回目のノーヒットノーラン(コロラド・ロッキーズ戦)をすでに成し遂げていた。
ソウル五輪でバッテリーを組んだ古田の依頼ということで、マスコミをシャットアウトするという条件で野茂はシンポジウムに登壇した。
その語りの内容は圧倒的であった。
メジャーリーグベースボール選手会の剛腕事務局長マービン・ミラーの闘いによって勝ち取った幾多の成果の根底には「選手とオーナーは対等の関係」であるという思想が徹底的に根付いている。
かつてはメジャーリーガーたちもタニマチ・スポンサーの顔色を窺い、プレーをしていた時代があった。戦後直後にはオーナーやコミッショナーへの覚えをめでたくするために所属する選手組織の情報を経営者側に漏らして金時計を受け取ったリップ・ソウエルという投手(パイレーツ)がいた。
ジャッキー・ロビンソンが黒人選手として初めてメジャーリーグに入ろうとしたときも入団反対のストを打とうとした選手たちがいた。そしてロビンソンがメジャーに加入してからも経営者たちは、黒人を監督にすることを頑として拒み続け、選手たちもそれに追随していた。
これらの行状はすべて、人間の尊厳を保つ以前に選手側が権利のほとんどを抑えられて、オーナー側に支配されていたことから、起こりえたものである。
貧すれば鈍すの言葉通り、1960年代、メジャーリーガーの最低年俸は6千ドル(1ドル=360円の固定相場制時代で216万円)、年俸が10万ドルを超えていたのは、テッド・ウイリアムス、スタン・ミュージアル、ジョー・ディマジオ、ウイリー・メイズ、ミッキー・マントルの5人だけであった。
それが30年後、野茂が渡米した1995年には、前年度から発生した選手会によるストライキが開幕直前まで続いていた。
オーナー側は、シーズンを強行開催するために一部の「代替選手」と契約を交わしていたが、選手会側はこの代替選手契約に関して明確にNOを突きつけていた。
ドジャースでは、マイク・ブッシュという三塁手がこの代替選手として契約していたが、ストライキが終わるとドジャース選手会はこのスト破りに加担したブッシュの存在を認めず、和解をするまで誰のキャッチボールの相手をせず、選手用サロンにも入室させなかったという。
他方、野茂に関しては、契約をする以前から、実務のアドバイスや練習場の提供などをしてくれたという。ことほど左様に米国の選手会は、オーナーに媚びを売って裏切る奴は許さないが、仲間となれば、一枚岩となって全員の権利を主張して守ってくれるのだ。
古田の訴えを当初メディアは否定期に報道
対して日本はどうか。野茂が近鉄に複数年契約と代理人交渉制度を希望するもこれを拒否され、心ならずも球団を出されて、メジャーに挑戦すると言ったとき、選手会としては海外移籍をするのであれば、今ではなくNPBと交渉して制度を変えてから行くべきではないかという考えであった。ポスティング制度もまだ無い時代であった。
それでも岡田彰布会長は野茂の相談に乗ろうとしていた。1995年1月17日に大阪市内のホテルで午後7時に野茂と代理人の団野村、選手会の松原徹事務局長と4人の会合が決まっていた。岡田は、16日に所要で四国に来ており、約束した当日に空路で大阪に戻る予定であった。
ところが、まさにこの日の午前5時46分。激しい揺れが関西を襲った。阪神淡路大震災であった。岡田が乗る予定であった便は決行し、連絡も取れず、野茂との会見は流れてしまった。
それからほぼ半月が経過した2月8日、野茂はロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。
個々では応援した人もいたが、近鉄経営者のみならず、球界OBなどからもバッシングを受けた野茂は「日本球界の秩序を乱した」「メジャーでは通用しない」などの誹謗に一人耐えながら、年俸980万円で海を渡り、パイオニアとなった。
その野茂が貴重なオフに選手会主催のシンポジウムに出席をし、「日本の選手会もあり方を変えなければならない」と語っていた。
「選手会は困っている選手一人一人の問題に手を差し伸べなければならない」
「何かを打破するには、選手全員が一致団結して行動しなければいけないのではないか」
会場にいた事務局長の松原徹は、渡米前の野茂に対する選手会の対応を知っているからこそ、自省を込めて「今こそあのときの分までがんばれ」と言われているような気持ちになったという。
野茂は恨み言ひとつ言わないが、当時の選手会幹部選手を含むシンポジウムの参加者たちは、あの時、選手会はもっと精力的にサポートすべきではなかったのかと思わずにはいられなかった。
山崎は、野茂の本質を突いたスピーチの数々に古田が大きな影響を受けていたことを感じていた。以降、オフにも関わらず、古田は会長としてのリーダーシップを遺憾なく発揮し、代理人制度の導入に向けて邁進していく。
年が明け、2000年になると古田は、キャンプ前から積極的に選手が契約更改や移籍において法律のプロを雇う事の正当性をコメント発信していった。しかし、メディアは総じて好意的に伝えたわけではなかった。
2000年1月28日のスポーツニッポンは「法的手段辞さず 選手会・古田会長(ヤクルト)代理人強行!!」という見出しを打った。強行という言葉に横紙破り的なニュアンスを感じてしまう。本文は、機構(NPB)側にウエイトを置いた筆致で以下のように伝えている。
「代理人交渉を拒否し続けるには根拠が希薄という事情に加え、選手会は態度を硬化させる一方。時代のすう勢もあり、機構内部ではこれ以上拒み続けることは不可能との認識が一般的だ。既にコミッショナー事務局では代理人制導入後はこれまで以上の厳格な野球協約が必要との認識に立ち、文言の整備を水面下で続けている。2001年オフをメドに野球協約の改定を目指すが、選手会側が今オフの代理人交渉を強行すれば、機構側が押し切られる可能性も否定できない」
伝えるメディアの空気もまた保守的であった。
「代理人制導入後はこれまで以上の厳格な野球協約が必要との認識に立ち、文言の整備を水面下で続けている」とは、法的に選手の代理人制度は問題無いが、ならば導入後に立法して縛ればよいという考えに他ならず、明らかに選手管理の強化を意味しているが、批判的な視点を入れずにそのまま報じている。
山崎は、世界のプロアスリートの間では当たり前となっている代理人を交えたフェアな交渉が日本の野球界ではなぜここまで否定されるのか、不思議で仕方なかった。
当時の巨人軍オーナー・渡辺恒雄読売新聞会長に至ってはことあるごとに「代理人など連れて来た選手はクビにする」とまで公言していた。現在では度し難い暴言として炎上必至であるが、当時はメディアも面白がって焚きつけ、それが普通にスポーツ紙面などで流通していた。
露見したNPBの不当労働行為
古田の献身は実り、2000年オフに日本人選手に関する代理人制度は導入された。しかし、NPBからは、
・代理人は弁護士法の規定による弁護士に限る。
・一人の代理人が複数の選手と契約することは認められない。
という条件が付けられた。このような縛りはJリーグなどでは、考えられないものである。特に一人の代理人は一人の選手しかクライアントに出来ないというのは、日本は広告代理店でさえ同業多社を抱えていることを考えると明らかに合理性を欠くが、この制限は2024年9月に、公正取引委員会から独占禁止法違反のおそれがあると指摘されるまで、選手に一方的に押しつけられ続けていた。
選手が要求を出す、それを機械的にNPBが却下する、そういった不毛なやりとりが続いていた。粛々と時間ばかりが経過していく中、業を煮やした古田は東京都労働委員会にかけあった。2002年のことであった。
都労委はさっそく審議を行い、NPB側の問題が露見した。労働組合の要求に誠実に向き合わない、弁護士の同席を認めないのは、明らかな不当労働行為であった。
このあたり大きな矛盾であるが、各球団の親会社は日本を代表する大企業であり、社内コンプライアンスには力を入れている。特に読売や中日は新聞社という言論機関であり、社会正義について健筆をふるった記者たちが、大勢フロントに入っている。
組合活動の何たるかは熟知しているはずであり、労働法上の問題も知らないはずがない。それがなぜか、球界における選手会との交渉となれば、長年に渡って見て見ぬふりをしてきたと言える。
経営者サイドは、ことここに至っても意地のように選手会を労働組合として認めようとしなかった。
選手会は親睦団体ではなく1985年に労組認定を受けているにも関わらず、団体交渉、労使交渉という言葉を避けて、折衝、懇親などのソフトなワードに置き換えていた。
都労委の仲介によってNPBはようやく腰を上げた。
古田は何度かの話し合いの結果、2004年3月に選手会との同意書を書面で結ばせることに成功する。月に一度の事務折衝を行うことなど労使交渉の基本的ルールが明文化されたのである。
そしてこのような労働組合であることを前提とした書面の存在こそが、くしくもこの年に球界を揺るがした再編問題とそれに対する解決策となるストライキを支えるベースにもなったのである。
(後編に続く)
文/木村元彦