
球界だけでなく、日本をも揺るがした2004年の球界再編問題。結果として2リーグ12球団制は維持され、今日のプロ野球の隆盛につながっているが、その功労者で、当時選手会長だった古田敦也の努力と心労は尋常なものではなかった。
オーナーたちの横暴に立ちあがった古田
「合併? 合併って何や? 身売りやないんか」
2004年6月13日、「近鉄とオリックスの本社が球団合併交渉を始めている」という日本経済新聞のスクープを目にしたときの古田敦也の驚きであった。
過去、南海ホークスや阪急ブレーブスがそれぞれ球団を売却した事例は記憶に新しいが、なぜ買収ではなくて合併を狙ったのか。
買収の場合は30億円という加盟料が必要であったが、合併ならば無償で済む。いわば経営的な発想である。しかし、合併は12球団のうちの一つが消滅することを意味する。ここでの球団減は、2リーグ制から1リーグ制へ移行する流れを意味していた。
当時は1試合1億円と言われた巨人戦の放映権料を目当てにパ・リーグのオーナーもリーグの統合に積極的であり、取り分を考えて8球団までに減少させるべきだと主張するオーナーもいた。
しかし、球団が一つ消滅すれば、その時点で70人ほどの支配下選手が仕事を失う。古田は事態を飲み込むと、選手会長として即座に動いた。NPBに説明を求めたのである。
「仮に8球団という話になると、3分の1の人間が首を切られるわけですから、それを『しょうがないですね』と言っていたら、労働組合の意義がないので、これは看過できない。
もう一つは、1リーグになったら、本当にこのプロ野球が繁栄するのかというところに疑問があったんです。
減少させるなら、せめて1年間くらいはその動きを凍結させてファンの方にも説明する義務がある。それなのに親会社の都合で『もう赤字が多いからやめます。うちは無くなるけど、今度は違うチームを応援してね』と言われても、それはファンも納得できないし、そんなことやっていたら、球界なんて終わってしまいますよ」
古田が立ち上がったのは、組合として選手を守るという大義、そして球界の未来を見据えての知見だった。
あれから21年経った今振り返ると、どちらも真っ当な見識である。しかし、当時、経営者側はすでに球団減少と1リーグ制に向けて敷いたレールの上を走り出していた。
古田が当初、選手会として声を上げても「これは経営判断だから」とオミットされ、選手が蚊帳の外に置かれている間に既成事実がどんどん作られていった。
2004年6月30日には、500億円ほどの現預金を保有しているというIT企業ライブドアのホリエモンこと堀江貴文社長が、近鉄球団買収に名乗りをあげた。
しかし渡邉恒雄・巨人軍オーナーは「合併はもう決着済みで、僕の知らない人とは会えない」と却下し、近鉄もまた交渉にさえ応じなかった。そしてオーナー会議は粛々と開催されていった。
近鉄ファンからすれば、いたたまれない気持ちであった。もう赤字で合併しかないと言われていたところに、それならば買いたいという救世主のような人物が現れ、バファローズは残せると思ったのも束の間、それがにべもなく拒否されてしまったのだ。
流れを変えた「たかが選手が」発言
7月7日のオーナー会議後の記者会見では渡邉オーナーが「オリックス・近鉄の合併の承認」、そして堤義明西武オーナーが「パ・リーグが合併で4チームとなってセントラルと1リーグの中で試合をするようお願いした」とそれぞれに発表。もはやこの流れは止められないのではないかと思われた。
古田は囲み取材で「オーナー側と会いたい」と素直に漏らした。プロ野球の最高決定機関がオーナー会議である以上、親会社からの出向で来ている決定権のない球団代表クラスとの対話では埒が明かない。
しかし、この言葉を記者から伝え聞いた渡邉オーナーは「無礼なことを言うな。たかが選手が」と吠えた。
この発言は一斉に報じられて、世論の猛反発を受けた。最初は対岸の火事とばかりに無関心だったオリックスと近鉄以外のファンも、この球界再編問題をめぐって、愛する選手が経営者たちに手駒のように粗末に扱われていることにようやく気がついた。「古田頑張れ!」という機運が一気に醸成されていったのだ。
「たかが選手」発言があった2日後の7月10日、選手会は臨時総会を招集し、「近鉄とオリックスの合併の凍結」の要求とストライキを行う可能性について決議した。古田はこう考えていた。
「1リーグ制になることのメリットが見えない。セ・パ交えての新しい対戦カードが新鮮に思われるのは最初だけで、あとは結局、消化試合が増える。
実はこの頃、巨人戦の視聴率はすでに9%を切ることも度々あった。それにもかかわらず、特にパ・リーグの経営者たちはあいかわらずその神通力に頼ろうとしていた。
7月31日、古田は「朝まで生テレビ!激論!日本のプロ野球が滅亡する!?」(テレビ朝日)にパネラーとして出演する。同じステージには渡邉オーナーの盟友である政治評論家の三宅久之が睨みを利かせ、「ナベちゃんから手紙を預かってきた」と、1リーグ制推進派の強力な代弁者としての役割を果たしていた。
下手をすればただのポジショントークに消費されてしまう可能性もあったが、古田は選手会長として意見発信できる媒体にはどこへでも出ようと決意していた。
司会の田原総一朗から、「これ、選手はどこまで抵抗できますか。ストライキは?」と問われると「やる可能性あります」と答え、寺崎貴司アナウンサーから「実際にはいまの勢いは止められないですよね?」と詰められれば、「いや、そんなことない。止めるつもりです」と毅然と返した。
古田は最悪の事態に備えて、スト権の確立に向けて動き出していた。
「もちろん、ストライキなんて最初は一切考えていなかったんですが、僕らがシミュレーションしたらこれは3カ月くらいの戦いになることがわかった。現実的なことを言いますと、交渉が全然進まないんですよ。
オーナー側からしたら交渉のアリバイ作りをやっているだけなんです。
早い段階で止めるためにはどうすべきか。ストは労働組合に認められた権利。ならばそれを最後の切り札として交渉に臨むという考えに達しました」
「ハナから根來さんには期待していなかった」
ストをするためには、組合員による投票でスト権を確立しなくてはならない。古田は12球団の各選手会長に意義を伝え、自球団の主力である選手会長とはあまり接点のない二軍の選手たちには、松原徹事務局長が足を運んで何度も説明を繰り返した。
7月27日から8月8日にかけてセ・パ両リーグの全選手を対象にスト権投票が無記名で実施されると、752人中661人の投票で賛成は648票、反対7票、その他6票であった。実に98%がストに賛成したのである。8月12日、選手会はスト権を確立した。
この頃、一枚のマル秘文書の存在が明らかになっていた。発信者は根來泰周コミッショナー(元東京高等検察庁検事長)で、送信先は各球団のオーナーたちであった。
内容は坂井の章でも触れたが、要約して再度記すと、「選手会なるものが、ストライキを企てているが、その場合は球団はストによって発生した損失のすべてを、選手会に求めることができる」というもの。
選手会がガバナンス違反をしているとの主張だが、これは事実ではない。
つまりこれは、デマを基にした扇動であった。東京高検検事長というキャリアを持ち、本来であれば、プロ野球の縮小化を憂いて事態を裁くべき立場にあるコミッショナーによる組合潰しの恫喝文書であった。
古田もこの根來文書のことは、知っていた。しかし、怒りとは違う感情が彼を覆っていた。
「正直なこと言いますと、ハナから根來さんには期待してなかったんです。コミッショナーの選定を誰がやっているかと言えば、要は渡邉恒雄さんのお友達が呼ばれて『はい、来年からこの人がコミッショナーです』と言われて決まるんだよと、いろんなオーナーから僕らも聞かされていたんです。
ただ、根來さんは法曹界の方なのでね。法で認められた権利であるストライキを『潰せ』ってオーナーを焚つけているということを文書で知ったときは、まあひどい話だなと思いました。それでも嘆いている暇もなかったのですから」
オーナー側の主張は当初から矛盾だらけだった。「経営難だから」と、言いながら8月には、明大の150キロ右腕・一場靖弘に対する巨人の金銭授受問題が発覚し、その後、横浜、阪神も同様の問題が露見した。
4球団のオーナーが辞任という前代未聞の不祥事となったが、これも氷山の一角で裏金は無尽蔵にあるのかという批判がなされた。
近鉄本社とオリックス本社は8月10日に合併契約書に調印する。既成事実が積み重ねられていく中、古田率いる選手会はこの流れを止めるために同月27日にカウンターとして、合併差し止めを求める仮処分申請を東京地裁に出した。
選手会は、「野球協約の中で定められている特別委員会でこの問題を話し合い、議決をしない限り、NPBは合併を承認してはならない」と主張した。
合併は一部オーナーの経営問題ではなく、球団潰しによって解雇される選手は増え、その地位を侵害する行為である。だからこそ、選手と球団の間で権利改善などを協議する特別委員会を招集して、選手と話し合って議決すべき大きな事案であると訴えた。
9月3日、東京地裁はこれを却下した。土田昭彦裁判官は「合併についての承認は特別委員会の議決事項には当たらない」と判断したのである。
一見、完敗に見えるが、ここで選手会は重要な決定を引き出している。抗告後の東京高裁(同年9月8日、原田和徳裁判長)において裁判所は「選手会は日本プロ野球組織との団体交渉の主体になりうる」と認定したのである。
国会での議論にも発展
裁判所が、選手会が団体交渉権を持つことを明確に認めたことは大きかった。
更に決定文の最後に「これまでの(NPBの)労働組合との交渉は誠実なものとは言えない。万一、誠実交渉義務を尽くさない場合には不当労働行為の責任を負う可能性があり、野球の権威に対する国民の信頼を失う」「コミッショナーは著名な法律家であり、裁判所が団体交渉権を認める判断をすれば、9日からの交渉においてこれを尊重することが期待される」と記されていた。
NPBは、選手会が都労委から資格認定を受けていたにも関わらず、長年に渡って労組と認めようとして来なかった。
言葉の使い方にしても「労使交渉」を「事務折衝」と言い換えたり、正面から向き合おうとせず、「ストをすれば違法行為になるので損害賠償を求められる」と言うデマも、そもそも労組として認めていないというブラフからきている。
しかし、この裁判所の決定は選手会を団体交渉権のある労働組合として認めたばかりではなく、これまでのNPBの不誠実な態度まで指摘した。
根來コミッショナーが検察官時代から政治的な動きをする人であることを裁判官は知っていたのか、そのプライドをくすぐる期待と同時に痛烈な皮肉になっている。
経営者側は、労組に対してきちんと交渉に応じる義務がある。出来なければ、誠実交渉義務違反、すなわち不当労働行為になる。NPBの姿勢、そして根來文書が否定されたことは極めて大きな意義があった。そしてストライキに向けての権利を確認することができたのである。
9月に入り、古田は、9月9日・10日の大阪、16日・17日の東京と二度にわたってNPB側と交渉に当たった。それまでにストをするならば、週末に試合がある土日に行うということを選手会として公に宣言していた。
該当する11日、12日、18日、19日、25日、26日を決行予定日と目しており、折衝日はその前の木金の曜日に設定していた。
1回目の大阪での交渉ではNPB側は一転して、態度が軟化していた。「誠実に交渉する義務がある」という裁判所の判決が、明らかに追い風になっていた。
ここでNPB側は、「現行の新規加盟料・参加料を撤廃して、預かり保証金など環境を整え、新規参入球団の加盟促進を積極的に検討する」ことに合意したが、球団数については「来季セ6以上、パ5以上」を確約するに留まった。
前述の司法判断の影響もあって、それまでのすべてが却下されていた交渉に比べれば、各段の進歩であり、結果的にスト突入期限の20分前に暫定合意で回避されたが、古田は握手を求めてきた西武の瀬戸山隆三選手関係委員長の右手は握らずに会場をあとにした。
選手会の顧問弁護士である山崎卓也は、11球団になってしまったらその段階で負けだと思っていた。
一度減ってしまったところからまた増やすことは現実的ではなく、10球団、8球団と減少していくのは目に見えていた。そうなればプロ野球界はじり貧になる。
そうなる前に今、実際に新規参入をしたいという企業が出て来ている以上は、それを認めて12球団堅持を確約させることが重要と考えていた。
すでに8月の段階で、当時の民主党議員の協力もあって、国会で「60億円の加盟金は高過ぎる。これは独占禁止法に触れるのではないか」との質問が行われ、これに対して公正取引委員会が「60億円が合理的といえるだけの根拠がNPBから示される必要がある」との答弁を引き出していた。
これで加盟金は、半額の30億になり、またその内、25億円はデポジット扱いで加盟から抜けたら返却されるという制度に変わった。実質、5億円で参加できることになり、加盟のハードルが一気に低くなったのである。
そして9月15日にはホリエモンのライブドアに続いて三木谷浩史の楽天グループが球界参入を公表した。
選手会の背中を押した中日・落合監督
NPBと二度目の交渉となる9月16日、17日の東京での協議・交渉委員会は、一転して最初から対決ムードが漂っていた。
一度目の交渉の後に古田が「近鉄を残せる可能性があるというようなことなので、この2日間はストは決行できないと判断しました」というコメントを記者に話したことが、合併はもう決定済みの事項と考えるNPBのオーナー側を刺激したのである。
古田は謝罪と撤回を求められたが、選手会長として、合併を止めたいと切に願っている近鉄の選手やファンがいる中で早々に方針を切り替えるわけにはいかなかった。
NPB側は冒頭、清武英利・巨人球団代表が「根來コミッショナーからの手紙を預かっている」としてそれを読み上げた。
根來は今回の混乱を憂いて辞任の覚悟をしているという文面であった。
「ストが起きたら自分は辞めるとまで言われている、ここまでコミッショナーは苦しんでいる、君たちは何も感じていないのか」という牽制であった。
しかし、選手たちの気持ちには何も響かなかった。実際、根來はその後もコミッショナーを続け、任期が切れたあとも2008年4月にようやく退いた。
逆に古田は「球団を減らして1リーグ制にすることが本当に発展的で未来に展望があるというならば、その典拠となる具体的な数字を出してほしい」とシミュレーションを要求した。しかし、最後まで具体的な数字は出て来なかった。
選手会は引き続き、近鉄・オリックス合併の1年間凍結を求めたが、覆すことはできなかった。議論はやがて、合併を止めることができないのならば、最低限のラインとして12球団を保持するために、新規参入を緩和促進すべきであるという方向に流れていった。
NPBも新規参入を審査することはやぶさかではないと流れになり、ようやく同じ方向に向き始めたかのように思われた。
しかし、最終的に決裂したのは、和解案の文書であった。NPBが出してきた文言は「2005年以降、新規参入の申請に向けて審査する」という趣旨のものであった。
古田は控室に持ち帰り、選手たちと討議したが、審査の時期が翌年「以降」であることと、あまりに曖昧な言い回しに対し、到底これを認めるわけにはいかないという結論に達した。
このときセ・リーグの首位を走っていた中日からは井端弘和がチームの選手会長として来ていたが、「落合監督からは、『もううちの優勝はどうでもいいから、行くところまで行け』と預かって来ています」と事務局長の松原徹に語っている。
落合は井端に「優勝はまたすりゃあいいから、お前はこの仕事を引くな」と念を押してさえいた。
2015年に58歳の若さで没した松原は事務局長として選手に関わる理不尽に対しては真剣に怒るが、その一方で、ファン目線で「球団側が悪い」「NPBが悪い」という単純な図式になってしまう闘争も嫌い「ベースボールファミリーとして交渉相手をただ悪者にしてもいけないんだ」と常々言っていた。
そんな松原はリスクを負った井端の覚悟が嬉しかった。
そしてこの流れの中で奮い立っていたのは、日本人だけではなかった。北海道日本ハムファイターズの外国人選手、カルロス・ミラバルもまた「俺も皆と一緒になって闘いたい。俺も選手会に加入させてくれ」と名乗り出てきたのである。
外国人の場合はその地位が複雑で、万が一、損害賠償請求がされて迷惑をかけてはいけないということで、気持ちはありがたく受け止めながらも、この局面では辞退をお願いするしかなかった。
「ストをやるべき」巻き起こる機運
選手会は、和解案文書について、審査の時期と熱量に関する文言を修正し「球団数を2005年シーズンに向けて増やすよう最大限努力し、新規参入の申請に対して、誠意をもって審査する」と明記するように求めた。
古田の思いは、合併の凍結ができないなら、来季に向けての新規参入への努力を約束して欲しいというものであった。
すでに経営者側が、富を多く分け合うためにとにかく球団数を減らしたがっているのは分かっていた。しかし、入りたいと言う企業がいるのだ。それを好意的に審査するのか、落とすために審査するのかで、未来は大きく変わってくる。
「最大限の努力」という文言を入れる事は譲れなかったが、これは拒否された。
「楽天もライブドアも明確に落とすつもりなのだ」
ここに至って「最大限の」という文言を外すということは11球団にするという意向の宣言に等しかった。清武は選手会控室にやってきて説得に入ったが、選手たちは到底納得ができなかった。
交渉は2時間の延長を重ねて10時間が経過したが、最後まで嚙み合わず、ついに決裂する。
選手会の控室にいた石渡進介弁護士によれば、ストライキ決行の最後の流れは、巨人の高橋由伸によって発せられたという。由伸は交渉の最終局面で控え室に来て合意文書を交渉する清武の姿勢を見て感じていた。
「あれは参入させる気が無いですね」
これでは合意できない。続いて横浜の石井琢朗も賛同した。石渡は述懐する。
「あのときの由伸選手は立派でした。巨人の選手でしたが、自分の保身などまったく考えずに野球界のことを考えて率先して発言していました」
こうして翌18日、19日の2日間にわたって日本プロ野球史上初めてのストライキを行うことが決まった。古田は17日深夜の会見で涙を流しながらファンに詫びた。
山崎はこの渦中に古田と1対1で話し合った中で忘れられない記憶がある。
「『たしかにストを行うことの影響は大きい、でも、ストを回避したいという気持ちで交渉をすれば、どうしても大事な場面でそれが弱腰となって出てしまう、交渉に向かって行く姿勢としては、やはりよほどのことがない限りストをやる、という決意で行くしかないと思うんですよ』と私が言ったら、『そうやな。俺も今日、試合しながらそう思っていたんや』と言われたんです。
キャッチャーとして毎試合出てボールを受けながら、そんなことを試合中に考えていたのか、と改めて感銘を受けました」
古田はこのギリギリの局面(2004年9月14日から16日まで)で横浜との3連戦を戦っているが、スイープ(3連勝)を飾っている。
山崎は選手会のオフィシャルホームページに寄せられたファンからのメールすべてに目を通していた。そのほとんどが、「ストをやるべきだ」「延期するような弱腰じゃだめだ」というものであり、ストを決行できるだけの環境は十分整っているとの感覚を得ていた。
ただ、それでも、ストがもたらす影響の大きさを重く受け止め、最大限それを回避すべく強い覚悟と責任をもって交渉する古田の姿を見るに付け、その責任を少しでも軽減するためにできる最大限のことをしたいと考えていた。
「ストをしても選手会に損害賠償責任は発生しないんだよな?」と古田から繰り返し聞かれたことに対して、「はい、ありません。そこについては、私が責任を持ちます」と断言したのも、そうした気持ちの表れであった。
選手会の事務方もまた8月の下旬から昼夜を問わない激務の中に身を投じていた。日本では先人の誰もがまだやったことのないプロ野球のストライキである。
いざ決行となった場合、練習や、遠征先での振る舞いはどうするのか? 事務局は短時間の間に「ストライキマニュアル」という冊子を作成し、12球団の支配下全選手に配布していた。
「ストライキとは」という定義からはじまり、「目的」、「影響」「方法」「スト期間中の練習」に至るまで網羅したもので、「球団数を減らさせない」という明確な意思統一が紙面を介してあらためてなされた。
最も関心が高かったストをやった場合に選手にふりかかる「影響」については、「球団からの損害賠償は絶対にされない」と明記して選手たちの不安を払拭した。
選手会は裁判所に労働組合性を認定されており、今回のストは労働者の権利として日本の法律上認められているのである。
仮処分申請の判決がここで活かされた。また1日あたり300分の1の年俸がカットされるというデメリットもしっかりと記された。
その他、「ストは労務の提供を行わないことが重要なので、球団に指示された練習はしないが、自主的にトレーニングを行うのは、問題が無い」というシーズン中を配慮した説明、遠征の移動費やホテル代を球団から請求されても払う必要はないという法的根拠、「ロックアウト」(=使用者(球団)が争議行為の相手方である労働者(選手)に対して、労務の受領を集団的に拒絶し、又は事業場(練習場)から集団的に締め出す行為)をされた場合のシュミレーションなど、簡潔であるが、ポイントを押さえた事項が16ページに渡って展開されていた。選手たちは迷うことなく、マニュアルを信じてストに向かった。
この啓蒙冊子をたった二人の事務局員(松原、森)と二人の弁護士(山崎、石渡)が短期間で作り上げていた。
「あの頃は戦場と一緒でしたよ」と山崎は言った。
「上官の指示を仰いでいたら敵を倒せない」
事務方のスタッフが、議論を交わす間もないくらいに忙殺されており、連絡を取っていたら、前に進まないのでそれぞれの判断でベストの行動をしていた。
事務局のスタッフには確たる信頼関係があったので、古田、松原の決裁を仰ぐ必要が無く、ストの準備に向けてもそれぞれの裁量で動くことが出来たのである。
古田がストを決意するにあたっては、大きな反対や風当たりもあった。
「お前は球界を追放されるぞ」というような声も球界の重鎮から投げかけられた。理解者と思っていた選手会のOBからも「ストはするな」という圧力の電話がかかってきたこともある。
しかし、ふたを開けてみれば、テレゴングなどのアンケートで回答者は9割以上がこのストライキを支持した。圧倒的な世論の後押しによって空気は完全に変わった。
「おかしい、絶対あいつら、おかしい」
ストライキ当日は、全国各地で選手たち、名古屋では中日と巨人が、横浜では横浜と広島のそれぞれが呉越同舟で合同サイン会を行った。札幌では日本ハムのヒルマン監督もまたファンサービスに努めた。
2日目は選手会主催のファンイベント「みんな野球が好きなんだ」が東京・銀座のヤマハホールで行われた。選手が壇上から、「皆さん、ストライキを起してしまってすみません」と謝ると、ファンは「選手会絶対支持」と書かれたプラカードで応えた。
古田が登場すると、ひと際大きな歓声が上がった。観客は口々に「野球のために立ち上がってくれてありがとう!」と感謝の言葉を送り続けた。その後はもう、選手は何のシナリオも無い中でトークを回していった。
メディアもまた「中途半端なシーズンの終わり方は、ファンの野球熱を冷ましてしまう。不毛なストの代償は、極めて大きい」と社説で書いた読売新聞以外は概ね、好意的な論調であった。
そしてストの効果はてきめんであった。翌週23日の折衝になるとNPB側は「新規参入を考える」とついに妥結した。スタジアムでは、折衝から駆けつけて来た古田がユニフォーム姿で現れると、ヤクルトの対戦チームの間からも「古田!」「古田!」の大コールが巻き起こった。
そして新規球団参入審査の結果、11月2日に新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの新規参入が決定し、12球団制が維持された。
20年後のいまのプロ野球界のこの隆盛はどうだろう。12球団は巨人戦の放映権料に依存することなく、それぞれの経営努力による発展を遂げ、観客動員数も飛躍的に伸ばしている。
古田がかつて予想していた新しいビジネスの形態が成就している。何より、ストがなければ楽天球団は存在せず、パ・リーグの熱気は生まれていなかったはずだ。
古田は言う。
「あのときは、交渉をあきらめたらプロ野球は終わりだと思っていたんです。僕だけのダメージじゃなくて、球界全体が失望される。必死でしたね。僕は天命なんて思っていません。もっとカリカリ、ガリガリ生きていましたよ。『おかしい、絶対あいつら、おかしい』と思いながら(笑)。もうちょっと俗っぽい話ですよ、本当のこと言うとね」
俗っぽい話にまみれながら、古田はこの年、打率306、本塁打24本を記録している。
文/木村元彦