
かつて「進め!電波少年」のヒッチハイク企画で一世を風靡したお笑いコンビ「猿岩石」。
ボケの有吉弘行、ツッコミの森脇和成のコンビは1990年代後半、日本中に社会現象を巻き起こした。
有吉とはアクセルとブレーキの関係だった
――現在は舞台役者として活動中の森脇さんですが、あの伝説的企画「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」から何年になりますか?
森脇(以下、同) あれが1996年だったので、もう19年になりますね。95年に太田プロダクションの新人オーディションに合格してデビューしたので、芸人2年目でした。
――まさに人生を変える企画でしたね。
あの日のオーディションでは、香港のイベントでコントをすると言われていたので、2泊3日ぶんの荷物しか持っていなかったんですよ。そしたらいきなりカメラが回っていて、『ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断しろ』って言われて…。
――やらせなしのガチンコだったんですね!その時の心境はいかがでしたか。
もう…何も言葉が出なかったですね。何もわからないまま、突然車に乗せられて会場であの企画を聞かされたので。
今思えば、あの旅は賢くお金を使って進んでいくようなものじゃ撮れ高はなかっただろうし、番組的にはお金がなくなってからが面白い、というのは確かにわかるんですけど…。
お金もないし宿もない、旅中の100日以上は野宿だったので、夜中に寝るときも常に危険と隣り合わせで、正直“死ぬかもしれない”と本気で思いました。
誰も助けてくれないし、とにかく過酷でした。いやー、あれは本当に本当にキツかった!
――番組でも、あまりの過酷さに涙するシーンもありましたね。
それはもちろんありましたよ。事故が起こればこの企画は終わるな、なんて思って車の前に飛び出そうか、なんて考えたりもしました。
でも、『相方より先にギブアップはしたくない』って気持ちだけで踏ん張ってました。正直ね、心の中では“先に有吉がギブアップしてくれないかな”って思ってました(笑)。番組側からは、『辛かったらいつでもやめていいよ、君らの代わりはいくらでもいるから』って言われていましたね。
――番組では、絶食や野宿、襲われてお金がなくなったりスタッフが殴られるなどのリアルさが満載でした。何度もお聞きしてしまいますが、台本やリハーサルも全く無しだったのでしょうか。
はい、あれは本当に台本も何もなくて、行き当たりばったりで。日本から救援物資が届いたのでワクワクして開けてみたら入っていたのは空手着で、突然街中で空手の板割りをやらされてお金を稼いだり。
あの時はとにかく無我夢中でしたね。あまりにもお金がなくて、どこかの国で有吉が出発時に着ていた毛皮のコートを売ったら、意外にも高値をつけてもらえたんですが、後で放送を見たら買い取ってくれたお店の方から『赤ちゃんのオムツのような匂いがする』と言われていたのを見たときは爆笑しました(笑)。
有吉はグイグイ行くタイプで、俺は止める役。まさにアクセルとブレーキの関係でしたね。
芸能界に復帰した本当の理由
――その後の大ブレイクを経て、突然芸能界を引退されお店を経営されていましたね。
はい、週刊誌にはホストクラブと書かれていましたが、実際にはお酒が飲めるサパークラブでした。引退前から、自分は芸人として長くは続かないだろうと思っていたので、芸人の仕事をやりながら仲間と共同経営で始めました。
――芸能界を引退されていた2015年、『しくじり先生』に出演されました。どのような経緯で出演が決まったのでしょうか。
あれはSNSを通じて、番組の方から直接オファーをいただいたんです。最初は断ったんですよ。芸能界をやめてサラリーマンをしていたし、バラエティーで上手にしゃべれる自信もなかったので。
だけどスタッフさんが本当に熱心な方々で、『台本も作り込むし、誠意を持ってやりますから』と、何度もオファーしてくださって。打ち合わせも丁寧で、過去を振り返る時系列まで細かく確認してくれて、『いい番組だな』と心から思い、お受けしました。
かなり久しぶりのテレビでしたけど、教科書のように台本が用意されていて、それを読めばいいだけだったから助かりましたね。もちろんネガティブな内容を話すことにはなるんですが、不思議と気持ちよかった。
放送後の反響もすごくて、『面白かった』『感動した』といろんな声をいただきました。
――番組出演当時は、時計を扱うお店で会社員として働いていたそうですね。
そうなんです。海外から仕入れた時計を国内の小売店に卸す営業として、5年ほど働いていましたね。会社員をしていてよかったのは、本来ならば完全に門前払いの会社でも、僕が行けば『あれ?猿岩石の…!』と、ドアを開けてもらえたこと。顔が売れていて良かったのは、そのくらいですね。
実はちょうどその頃、離婚も経験した直後で、家庭のために選んだサラリーマン生活の意味を見失っていたんです。そんなときにしくじり先生のオファーが来たから、過去を振り返るいい機会になったと思います。
――そこからなぜ、芸能界復帰を決められたのでしょうか。
『しくじり先生』の現場でスタッフの方々がすごく一生懸命働いているのを見て、『俺はこのままでいいのか?』って考えたんです。
――芸能界復帰にあたり、やはり芸人として大成功されている有吉さんの存在は大きかったのでしょうか。
いや、どうなんでしょう。全く意識しなかったわけではないですが、彼はもう2度目のブレイクを果たしていましたからね。アイツに頼ろうなんて一切思いませんでした。むしろ“過去の栄光にすがってる”と思われるのが嫌で。純粋に役者をやりたい、ただそれだけでした。
――お笑い芸人としての復帰ではなく、あえて役者の道を選んだ理由はおありでしたか。
芸人の先輩にお願いしてバラエティーに出させてもらうことはできたかもしれない。でもそれだと、役者としては意味がないんです。僕はアドリブでしゃべるのはあまり得意ではないし、面白いことも言えない。
復帰後、『踊る!さんま御殿』など、何本かバラエティーに出させてもらいましたが、爪痕は残せなかったですから。ああなることはわかっていましたが、番組を見た方からSNSにアンチコメントを書かれたり、芸人時代の先輩からは『芸能界なめんな!』と厳しく言われたりもしましたね。
当時は悔しかったですが、アンチの方には、もし評価をするなら舞台観てから言ってほしい、と思います。もしまたバラエティー番組からオファーをいただけたとしたら、芝居でちゃんと結果を出してから出たいですね。
(後編に続く)
文/佐藤ちひろ