2005年、宮本慎也はイラついていた。ストライキで12球団制を守った翌年、誰もが選手会長を避けた中で、彼だけが一歩を踏み出した。
1リーグ制の危機は去っても…
2005年シーズン、宮本慎也はイラついていた。この前年、古田敦也率いるプロ野球選手会は、一方的に通達された近鉄とオリックスの合併に対して抗議し、日本プロ野球界初のストライキを完遂させていた。
すでに、コミッショナーやオーナー側は、この合併を端緒とする1リーグ制8球団という球団減のシナリオを描いており、流れはもはや止められないと言われた中でのスト決行であった。
しかし、世論はこれに圧倒的な支持を示した。結果、近鉄を残すことはできなかったが、楽天の参入によって2リーグ制は堅持され、パイの縮小は避けられた。
「しかし……」と宮本は思っていた。
「重要なのはここからではないのか」
同じチームの後輩として宮本は古田の苦労を目の当たりにしていた。ストライキも、古田自らが率先してというよりも磯部公一ら当該球団近鉄の強硬な選手たちの熱意に押されて決行した。
現役の選手としてヤクルトの扇の要の役割を果たしながら、シーズン中にスト権を獲得し、矢面に立って差配したのである。
宮本自身も球団減を前提とした合併には大きな不信感があった。
「シンプルな話ですけど、まず職場としての球団がなくなれば、プロになれる選手の数も減っていくじゃないですか。
経営者側は、縮小することでむしろ発展するという詭弁を弄していましたが、競技人口も減るから、野球と言う競技自体が衰退していくのは目に見えていました。僕はデメリットしかないと思っていました」
2004年は選手会の蜂起によって12球団2リーグ制を死守したが、これはいわば防戦であり、ここから選手の待遇改善に本格的に着手していかないといけない。
「まだまだ決して良いとは言えない環境にあった中では次の舵取りが大切で、やり方を間違えるとせっかく支持してくれたファンを敵に回す恐れもあると思ったんです。『結局、ファンのためと言いながら、ただお前らの権利を取りにいってるだけじゃないか』と言われたらそれまでじゃないですか」
ストライキを支持したファンの熱量が大きかった分、次に掲げる要求が、ファン不在の選手のエゴに過ぎないと判断されれば、そのバックラッシュは大きなダメージとなる。
ストライキの成功の背景にあったのは、「プロ野球は市民の公共財であり、単に赤字になったという企業側の都合だけで安易に球団を消滅させて良いものではない」という大義であった。
それゆえに職域を侵される当事者である選手たちが立ち上がることに反対するファンはほとんどいなかった。しかし、これから、FA取得期間の短縮など、選手会が取り組むべき課題は、突き詰めていけばこの大義と相反する可能性もある。
曰く「プロ野球界という公的な職場に就職したのだから、そこで満足すべきであり、育ててもらったチームからの移籍を早急に考えるのは、それまで応援してくれたファンに対する裏切りではないか」という言説も根強くある。
重要な次の一手を間違えては、せっかく培われた選手会に対する理解がオセロゲームよろしく反転してしまう。そんな状況の中、この年に任期が切れる古田の後任がまだ決まっていなかった。
選手の権利獲得のため宮本が選手会長に名乗り
「2006年から古田さんはヤクルトの選手兼任監督になる。いったい誰がその後を引っ張っていくのか」
高橋由伸、小久保裕紀の名前もあがっていたが、ストライキまでして止めた1リーグ制への移行は、読売主導の動きでもあった。
後継者としてオファーを受けていた宮本も一度は断っていた。現役であれば、何の見返りも無い無報酬の選手会会長の仕事をするよりも、プレーに集中したいと考えるのは至極当然の感情である。
しかし、宮本のイライラは、公憤に変わっていく。
「せっかく選手会の地位が上がってきたのに、次の会長を決めるにあたって、皆が皆『俺、嫌だよ』というのはすごく良くないと思っていたんですよ。
俺しかいないだろうというんじゃなくて、周り見たら、あ、俺がやらなきゃしょうがないなという思いになっていったんです。選手会はここからは権利獲得に本腰を入れないといけないというのは、分かっていたので」
選手会の置かれた状況が分かっている誰かがやらなくてはいけない。決意をあらたにした宮本は試合前に、神宮外苑のこぶし球場でアップをしている古田に近づくと、「僕がやります」と宣言した。
古田は一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに満足そうな表情を浮かべた。無償でありながら、責任と義務は重い。宮本は誰もが腰を引く会長職に自らが名乗りを上げた。大変なことは分かっていたので、任期は最初に3年間と決めていた。
自らに義務付けた事務折衝への出席
会長に就任するにあたり、宮本が自身に課したことがひとつあった。それは毎月行われるNPBとの事務折衝の場に必ず出席するということである。
「古田さんは頭がよかったから、折衝は代理人の弁護士さんがやって、終えてから古田さんに説明をすれば、話はそれで伝わったと思うんです。
ただ僕の場合は、そこまで頭が追いつくかどうか。そう思ったときに自分がその折衝現場にいることで、解消しようと思ったわけです。経営者側、選手会側、それぞれの考えを生で感じることで自分の中でしっかり理解していこうと考えたのです」
選手会とNPBの選手関係委員会の折衝は月に一度、試合の無い月曜日に行われていた。移動日であれば遠征先で会合がセットされることになる。
レギュラーならオフには休息を取り、身体の手入れに注力したいものであるが、宮本は3年間この会合に出続けた。当然、心身ともにストレスはかかる。
それでも皆勤したのは、宮本自身の改革ビジョンが明確にあったからである。
巨人・清武代表との定例会食
まずはドラフト制度。前年から2年間の暫定措置ということで導入されていた新ドラフトによる希望入団枠制度は、自由競争である分、契約金にコストがかかり過ぎていた。
ドラフトの改革については、構造改革協議会という委員会が立ち上げられて議論が重ねられていたが、宮本は2006年4月の経済界のインタビューで次のような発言をしている。
「この枠で選手を獲得するためには、高額な契約金が必要になります。
リーグ戦は資金的に潤沢な1、2の球団で成り立つものではありません。中小クラブに対する合理的な戦力補強を認める意味でも、希望入団枠に代わり、その年の下位球団から順番に指名していく完全ウェーバー制を導入するほうが妥当ではないかと思います。
選手会ではこのほか、強いチームは高校生を先に獲得でき、弱いチームは即戦力の社会人から獲得できるといった改革案を提案しています」「選手会では、まずは戦力の均衡から始め、長期的なプランでは世界に通用するようなチームをつくることを目標にしています」
選手会としては球団経営の観点も取り入れた上で、その年の公式戦で順位が低かった球団から順番に指名できる完全ウェーバー方式を要求し、戦力の均衡も念頭に置いていた。
そしてセットとして提案したのが、FA権取得期間の短縮である。ウェーバーで球団の負担を軽減するが、それだけであれば、入団する選手の希望が叶えられないケースもある。それについてはFAを早めることで好きな球団に行ってもらう。ウェーバーとFAをリンクさせての交渉であった。
清武代表との1対1の会食
当時、交渉相手となる選手関係委員会の委員長は、巨人の清武英利代表であった。
読売新聞社に記者として入社以来、社会部畑を渡り歩き、次長時代に山一証券の破綻をスクープしたことで知られる清武は、当時は巨人軍球団代表として強引な強化に頼らない生え抜きの選手育成に尽力し、その手腕が他球団からも評価されていた。
宮本は会長に就任後、しばらくすると清武と2か月に1度の割合で1対1で会食をするようになった。
「僕は事務折衝に何回か出たときにこのままでは、なかなか話がまとまらないと感じたんです。双方で譲歩するにしても結局、話を持ち帰って次回にまたやりましょうとなってしまう。
それなら、根回しではないですが、担当の清武さんとサシで話し合って、『次回にこれを持ってきてください、僕も選手会の意見をまとめてきます。その方が次の事務折衝がスムーズにいきやすい』と伝えて、それから対話していきました」
選手の現役寿命はあまりにも短い。宮本は改革にスピードを求めていた。清武も同意し、会食は定例化していった。食事代は徹底して割り勘であることにこだわった。
後に渡辺恒雄読売グループ会長の専横を告発する「清武の乱」を起こすことになる清武は、交渉事においても情熱的だった。ときに杯を交わしながらも宮本は冷静に人物を見ていた。
熱血漢で「野球界のために」という部分では、多くの部分を譲ってくれる。ただ、やはり、最終的な落としどころとしては、ジャイアンツに得をさせたいという気持ちは垣間見えた。そこを突こうとすると、途端に清武は機嫌が悪くなった。
守ろうとした選手の肖像権
宮本は要求をただ掲げるだけではなく、前に進むためには選手も痛みを共有しようという姿勢を貫いた。
2005年末の選手会総会では、年俸1億円以上の選手の減額制限を、これまでの30%から40%に引き上げることを承認している。経営者側からの減額要求は50%だったが、これを40%として早めに妥結させ、スピーディに他の事案を審議して行こうという意志の表れであった。
特筆すべきは、選手の肖像権に関する闘いであった。これまで選手の肖像権は一括して球団に管理されていた。統一契約書の第16条(写真と出演)にはこうある。
「球団が指示する場合、選手は写真、映画、テレビジョンに撮影されることを承諾する。なお、選手はこのような写真出演等にかんする肖像権、著作権等のすべてが球団に属し、また球団が宣伝目的のためにいかなる方法でそれらを利用しても、異議を申し立てないことを承諾する」
この統一契約書の条文自体、米国メジャーリーグの規約を輸入して参考にしたものであるが、その米国では、ニューヨーク・メッツの選手が起こした肖像権訴訟で球団が使用できる「宣伝目的」の意味が明確にされるなどにより選手の権利が広く認められている。
曰く、「宣伝とは、試合の告知ポスターなどを意味しており、グッズなどの商品化は含まない」というものであった。
そこでメジャーでは、この商品化における肖像権を選手会の管理として、大きな財源とした。MLPBA(メジャーリーグベースボール選手会)を世界最強の労働組合に育て上げた剛腕選手会事務局長マービン・ミラーの功績である。
ところが、日本では1951年に制定された統一契約書の解釈が曖昧なまま、肖像権がすべてにおいて選手の手から離れてしまっていた。
選手の肖像権奪還のために証言台に立つ
極めて象徴的な事件が2000年に起きた。NPBがこの年の4月から3年間、ゲームに関する選手肖像権を3億円でコナミに独占させる契約を結んでしまったのである。
選手会に正式な報告が入ったのは、なんと契約が結ばれて半年以上が経過した後、独占契約の期間がスタートしてからだった。選手には知らされておらず、当然、その実入りは低い。
NPBが20%の手数料を取り、そこからさらに分配の割合を球団に一方的に決められて、その割合は「球団6」で「選手4」であったという。何より一社に独占させてしまったことから、自由競争が出来なくなる。これは野球ファンに対する背信とも言えた。
選手会は、少なくともゲームに使用されるような名前や肖像などに関する権利は自分たちに帰属させることをNPB側に主張する。チームロゴやユニフォームについては球団側のラインセンスとして、互いにすみ分けをするという提案である。何度も話し合いがセットされたが、受け入れられなかった。
宮本の見事な法廷での口頭弁論
ここに至り、重大な事柄を今後も一方的に決められ続けることに対して不信感を持った選手会は訴訟に踏み切った。
2002年8月にプロ野球ゲームソフトのライセンスに関して、2005年6月には球団が管理しているプロ野球カードの肖像権についてそれぞれ訴えを起こしたのである。
野球カードについては、選手に分配すらしていなかった球団もあると言われている。その後、選手会はコナミと和解。NPBとコナミの契約切れに伴い、訴訟相手は球団となった。
原告は会長の宮本を筆頭に選手会に属する巨人・高橋由伸ら選手34人、被告は所属球団にそれぞれ変わった。宮本慎也はヤクルトを、高橋由伸、上原浩治は巨人を、井端弘和は中日を、今岡誠は阪神を、松坂大輔は西武を、小笠原道大は日本ハムを訴えるという図式である。
先述した米国での司法判断、そして日本で明記された統一契約書16条の条文の中身を吟味すると、球団は「宣伝目的」であればいかようにでも使用できるという意味はあくまでも球団の宣伝に関するもので、選手の肖像を事前承認も無く商品化するライセンスではないという解釈であった。
2007年夏、シーズン中であるが、宮本は肖像権を侵害された当事者、原告として知財高裁の証言台に立った。そこで米国選手会の事例、独占禁止法違反の嫌疑について語った。
2003年4月、公正取引委員会はコナミに対して選手を実名で登場させるゲームの商品化許諾権を独占して他社の参入を不当に妨害した疑いがあるとして警告を行っている。
宮本は統一契約書の制定経緯など歴史の部分から調べた上で、自身の見解を述べた。
人間にとって固有の氏名、肖像は自分のものである。そして選手たちが納得できないうちに自分の実名や顔や姿をビジネス転用されることに、いかに誇りが傷つけられているかを主張した。これはプライドの問題でもある。
「選手のために訴えたい思いは明確にありました。ただそれを法廷で伝えるには専門性が求められます。とにかく何日間かかけて必死に頭に入れました。ただ、ルールについてその成立の過程から学んで頭に入れられたのは、自分の言葉で語る上で良かったです」
制定経緯などを頭に入れて、裁判前日には、こう聞かれたらこう返すという想定問答を何度も繰り返した。
入念に宮本と打ち合わせをして法廷に送り出した顧問弁護士の山崎卓也はその姿勢を「何事に対しても物凄くプロフェッショナルとしての意識が高い。初めて公開法廷で口頭弁論に臨むのは誰でも緊張も委縮もしますが、堂々と論点を主張していて法律家から見ても満点でした」と高い評価で見ていた。
「アテネ五輪日本代表のキャプテンの経験から『宮本のリーダーシップは凄い』という声は、以前から選手の間でも上がっていて。それゆえに古田さんのあとの会長を誰がするのかという議論になったときも、早くから彼の名前が挙がっていた。
宮本はプロ意識とコミュニケーション能力、そして責任感に特化した選手会長だった」
50歳を超えても現役を続けているサッカーの三浦知良がブラジル時代の選手会とプロ意識のことをブログに書いた文章がある。
「選手個人では太刀打ちできない事柄がある。だからブラジルではよく選手会で集まり、声を束ねた。『胸スポンサーを露出しているのはピッチ上の俺たちだ。その報酬の一部を受け取る要求をしたい。どうか』。
割合は微々たるものであっても、勝ち取れたことがある。そのブラジルから1990年に帰ってきたとき、日本では『代表選手の権利』という概念すらなかった。だから僕は訴えた。あるべき勝利給、待遇。それらは後に、お菓子やカードに使われる選手も肖像権などへつながっていく。
権利をかけて戦った経験がなければ、自分の権利という発想すら思い浮かばないかもしれない。何かを言われ、言われるがままを当然とするのはむなしい。契約書をしっかりとみる、人まかせにしない、言うべき事はいう。プロだもの、その意識は忘れずにいたい」(2021年6月3日)
これは宮本のプロフェッショナリズムに通じていた。
文/木村元彦
(後編に続く)
労組日本プロ野球選手会をつくった男たち
木村 元彦
初代会長の中畑清、FA制度導入の立役者・岡田彰布、球界再編問題で奮闘した古田敦也、東日本大震災時に開幕延期を訴えた新井貴浩、現会長の曾澤翼など歴代選手会長に聞く、日本プロ野球選手会の存在意義とは。
今から40年前の1985年11月に設立された「労働組合日本プロ野球選手会」。
一見、華やかに見える日本プロ野球の世界だが、かつての選手たちにはまともな権利が与えられておらず、球団側から一方的に「搾取」される状態が続いていた。そうした状況に風穴をあけたのが「労働組合日本プロ野球選手会」であった。大谷翔平選手がメジャーリーグで活躍する背景には、彼自身の圧倒的な才能・努力があるのは言うまでもないが、それを制度面で支えた日本プロ野球選手会の存在も忘れてはならない。
選手たちはいかに団結して、権利を獲得していったのか。当時、日本プロ野球の中心選手として活躍しながら、球界のために奮闘した人物や、それを支えた周りの人々に取材したスポーツ・ノンフィクション。

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