全盛期のレッド・ツェッペリンが広島の体育館でライブをした理由…ロバート・プラントが市長に語った「本当の動機」
全盛期のレッド・ツェッペリンが広島の体育館でライブをした理由…ロバート・プラントが市長に語った「本当の動機」

伝説的ロックバンドのレッド・ツェッペリンのメンバーが初めて公認したドキュメンタリー映画『レッド・ツェッペリン:ビカミング』が9月26日から公開される。今回は本作の公開に合わせて、彼らの日本での逸話を紹介する。

 

デビューから4年で400回以上ものライヴを積み重ねたレッド・ツェッペリン

「もし私たち4人全員が最高の演奏をしたなら、バンドは5次元に到達できた」

ギタリストのジミー・ペイジは、レッド・ツェッペリンのステージについてそんな言葉を残している。

遡ること1968年。ジミー・ペイジが在籍していた英国バンドのヤードバーズは、メンバー間の仲違いやツアーへの不満から空中分解し、ジミーは新たなメンバーを探すことになった。

ジミーのスタジオ・ミュージシャン仲間だったベーシストのジョン・ポール・ジョーンズ、4歳年下のヴォーカリストのロバート・プラントとその友人でドラマーのジョン・ボーナムという、いずれも飛び抜けた実力を持つ3人を集めてレッド・ツェッペリンを結成。

3か月後には、わずか9日間で1stアルバムを完成させ、マスターテープを持ってアメリカの名門アトランティック・レコードと、新人としては破格の条件で契約を交わした。

年が明けると、活動の中心はイギリスからアメリカに移り、各地をツアーで回り始めた。最初の頃は前座を務めることが多かったが、無名の新人バンドとは思えない世界屈指のテクニックと、観る者を圧倒するエキサイティングなステージは、他のバンドにとってまさに脅威だった。

こうしてレッド・ツェッペリンはあっという間にアメリカで支持を集め、デビューアルバム『Led Zeppelin』は全米10位、2か月後にリリースされたイギリスでは6位を獲得。さらに同年10月に発売された2ndアルバム『Led Zeppelin II』は米英それぞれで1位となり、バンドの人気は不動のものとなった。

以降、1973年にロバートが喉を痛めるまで、4年間ほぼ休むことなくツアーを続けて、400回以上ものライヴを積み重ねた。

その中でもジミーが絶好調のレッド・ツェッペリンとして挙げているのが、1972年の全米ツアー。これは2003年に『How the West Was Won』(「伝説のライヴ」)としてリリースされた。

8回目となる全米ツアー終盤のライヴを編集したこのアルバムでは、4人が一体となった『Whole Lotta Love』(胸いっぱいの愛を)をはじめ、『Dazed And Confused』(幻惑されて)では20分以上にわたる演奏時間の中で変幻自在のセッションを展開し、まさに“5次元に到達”したレッド・ツェッペリンのライヴを聴くことができる。

全盛期のレッド・ツェッペリンが広島を訪れたワケ

全盛期のレッド・ツェッペリンには、こんな来日エピソードがある。

ジミー・ペイジは自身のアルバムをプロモーションするために、2015年7月来日した際、広島へと足を運んだ。

「1971年、広島を最初に訪れた時のことは、心に強く訴えかける体験だった。そして44年ぶりに広島に戻ることは、同じ様に心に響くものになると私は強く思っている」

ジミーが初めて広島を訪れたのは、レッド・ツェッペリンにとっての初来日公演が実現した1971年9月のこと。ツアーの行程は東京で2回、大阪で2回、そしてメンバーの希望によって選ばれた広島だった。

9月23日と24日に武道館でのコンサートを大成功させたメンバーたちは広島へと移動すると、27日の朝に原爆ドームと原爆資料館を訪れた。

同行していた音楽評論家の湯川れい子氏によれば、彼らは目を腫らしながら、こう語ったという。

「人間はここまで残酷なことをするのか。そこまで最低の生き物だとは認めたくない。こんな無惨なことをするのは愚かなことだ」

午後には広島市役所を訪問し、市長に被爆者援護資金としておよそ700万円寄贈の目録を手渡した。ツアーの道中を東京で買ったビデオカメラで撮影していた彼らは、その模様を編集してBGMもつけて公開している。

その日の夜、広島県立体育館には5000人の若者たちが集まった。

当時は東京や大阪以外で海外のミュージシャンによるコンサートが催されるのは珍しく、レッド・ツェッペリンほど人気のあるロック・バンドが、地方でコンサートをするのはほぼ初めてのことだった。

日本で特に人気の高かった『移民の歌』でコンサートの幕が開くと、観客はそれまでに聴いたことのないような轟音に圧倒された。会場の空気は一変し、そこからは怒涛のようなライブが展開する。

多くの若者たちにとってそれは初めてのロックンロール体験となり、レッド・ツェッペリンのプレイは予想を超える熱狂を巻き起こした。

そしてアンコールの『コミュニケーション・ブレイクダウン』では、興奮した観客がステージ側に押し寄せたために、観客の身を案じて、ヴォーカルのロバート・プラントが演奏を中断して「座るように」と呼びかける場面も見られた。

それにしてもレッド・ツェッペリンがなぜ来日公演の場に広島を選んだのか。

その理由は、ロバート・プラントが広島市長との会見で発した言葉から読み解くことができる。

「原爆投下は誰が悪いというより、我々人間の仲間が起こしたことです。同じ人間としてその事実にやはり申し訳なさを感じます。そして少しでも苦しんでいる人たちのために自分たちが力になれたらと考えました。音楽は人々に平和と楽しさを与えるものです。その音楽をやっている僕たちが、少しでも力になれるなら、実に光栄だと思います」

文/TAP the POP

参考文献/「来日ロック伝説1960's-2000’s」(シンコー・ミュージック)

編集部おすすめ