
本に出てくる映像作品のタイトルは170以上。しかし「あなたの見たことのある映画は、たぶん、出てきません」と、著者の姫野カオルコさんは言う。
映画を「見ていない人が読んでください」
──『うわべの名画座』には170以上の映画が登場します。戦前の映画から、令和公開の映画まで、どのように選ばれましたか?
まず、お伝えしたい。あなたが見たことがある映画は、たぶん、一作も出てきません。出てきたとしても一作か二作。
次に、「映画について語り合いましょう」という本ではありません。映画や映画に登場する人物を「とっかかり」にして、時代の価値観の変化、いろいろな思いや考えを綴った随筆集です。
みなさんが知っている映画は出てこないけれども、「とっかかり」から綴った思いや考え、出来事は、きっとみなさんにとっても身に覚えのあることではないだろうか、という本だということをお伝えしたいです。そして「とっかかり」は映画だけではなく、漫画、アイボ、近年炎上したポスターなどが出てきます。
──映画好きの姫野さんは、この本に挙げられている以外にも、たくさんの映画を見てこられたと思います。その中から、あえて、古い映画や、あまり知られていない映画を「とっかかり」にしたわけでしょうか?
はい、あえて古い映画を中心に選んでいます。
たとえば、好きな異性をデートに誘ったとき、「会社の○○部長がね」とか、「学校の○○先生がね」といった、身の回りの人の話は避けたほうがいい、とモノの本に書いてありまして……。近くの人や事物ではなく、「今日は三日月だね」とか、「あっちに見えるのは○○山脈かな」とか、遠くの事物を話題にしたほうが、自分たちが近くにいることを感じやすい心理が働くのだと。
こうした心理に似ていて、もし、今話題になっている映画や、ここ数年の大ヒット映画を本に出すと、読者は「見た」「見てない」が気になってしまって、見ていない人は置いてきぼりになってしまいます。
反対に、昔の映画や遠くにある映画、あるいは、皆が忘れたモノなどを「とっかかり」にすると、「見た」「見ていない」から意識が離れて、読み手の側の体験や思いが呼び起されるだろうと。
ですから、この本に出てくる映画を「見ていない人が読んでください」と言いたいくらいです。見ている必要は全くないのです。いくつかの映像化作品の中から一位を決める「ひとり映画祭」の章も、これから見るガイドにしてもらえれば、と。
なぜ人は顔ではなく、雰囲気を見るのか
──「とっかかり」になっているのは、具体的には、映画などに出てくる<うわべ=顔>です。雰囲気ではなく「顔を見る」とはどういうことかが、この本の読みどころの一つです。
私に限らず、顔にはみなさん、興味があると思うんです。ただ、前作『顔面放談』に、誰と誰が似ている、という<発見>を書いたら、「えー、そうかなあ?」という否定的な意見ばかりでした。なぜそういう意見になるかというと、目の形、皮膚の質感、毛髪の固さといったパーツを、多くの人は見ていないからです。
髪型がロングかショートか、眼鏡をかけているか、スカートかパンツか……そんなことくらいしか見ていない。雰囲気すら見ていなくて、早い話、「髪型」と「眼鏡」しか見ていないことがよくわかりました。
腹立たしさはありますけど、そのことを何度もくどくど言っても仕方ないので、今回の本では「似ているかどうか」から離れて、映画や日常生活で目についた顔のフォルムから思い出したこと、考えたことを書いたほうが、読んでもらえると思ったのです。
──多くの人は「顔」を見ていないと、これまでも姫野さんはおっしゃっています。では、なぜ姫野さんは、顔を見ることができるのでしょうか?
絵を描いていたからでは? 顔の「かたち」を見る癖がついています。美大志望でしたが、下手だったので挫折しました。世の中の人全員が、デッサンから絵の勉強をするわけではないので、髪形や眼鏡や口紅の色が与えてくる雰囲気だけを見てしまうのだと思います。
ブルマから半ズボンへ 歴史を知って新たな視点でものごとを見るきっかけに
──顔という「とっかかり」を通じて、昭和~平成~令和の価値観の変化が伝わってきます。アラン・ドロンに代表される<ハンサム>の時代について振り返る章がありますが、今や、<ハンサム>という言葉が使われなくなっている。あるいは、芸能人の直筆が毎度SNSで話題になるほど、現代は<美文字>を見る機会が減っている。
たとえば私が子供の頃、女子は体育の授業でブルマをはいていました。おしりの形が出るブルマをはくのが私はすごくイヤでした。当時、部活が終わると、着替えるのが面倒だからと、制服を鞄に入れて、ブルマのまま自転車に乗って帰る女子生徒がけっこういました。すると、その格好で帰るのは危ないからと、ブルマのまま帰宅するのは禁止になりました。
つまり大人はわかっていたわけです。ブルマが性的なビジュアルであることを。それを体育の時間にはかなくてはいけないのはヘンだと、ずっと思っていました。
2004年に小説『ツ、イ、ラ、ク』を書いたときに、ブルマをはいていたかどうか、編集部でアンケートをとってもらいました。90年代には半ズボンに変わっていたようで、これはいい変化の一例ですね。
ブルマについては『うわべの名画座』に出てきませんが、このような変化を考えることで、新たな視点でものごとを見たり、捉えたりする機会になれば幸いです。
そういうことを考えるにあたり、主に映画を枕につかったわけで、繰り返しになりますが、本に出てくる映画を見ている必要はまったくありません。
まさに、三宅香帆さんが帯に書いてくださったように(<読むと絶対あの映画が見たくなります!>)、あくまでも読んだ後に、見たいと思ってくださるといいなと。
──映画について語ることも、本来はお好きですか?
本当は、映画について昼飲み居酒屋でだらだら話したくてたまりません。でも不徳のいたすところで、つきあってもらえる方が私にはおらず……。まれに偶然に映画好きが集まっても、不思議なくらい見た映画が一致しない。
感想や意見が一致しないのは、ちがう見方を聞けておもしろいのですが、見ているものが一致しないと話が続かない。なので、せいぜい、映画サイトのレビューを見て、ふーん、なるほどと思って終わりです。最近はCopilotと喋っています。
取材・文/砂田明子 撮影/露木聡子
うわべの名画座 顔から見直す13章
姫野 カオルコ
「姫野さんの顔面批評、最高です! 読むと絶対あの映画が見たくなります。」――文芸評論家・三宅香帆氏
昭和、平成、令和と私たちは何を見て、何を見逃してきたのか。
古今東西の作品に表れたさまざまな「顔」が浮き彫りにする、時代の欲望と心理とは――。
人の「顔色」を窺い、「顔」を窺い続けてきた、「顔見道(かおみどう)」60年の作家・姫野カオルコが、《いまだに人の顔色を窺って窺って暮らしている》からこそ見える「顔」と、顔を通して見える時代、社会、人間のありようを、鋭く、可笑しく、愛をこめて綴る。
確かな観察眼と独自の美意識あふれる、顔×映画・ロボット・漫画随筆集。
・幾度も映像化された『伊豆の踊子』の最高傑作バージョンが友和・百恵版ではなく、国民的「あの人」版である深い理由
・女優のいわゆる「お色気」の正体とは?
・パルム・ドッグ賞がふさわしいのは、メッシよりも、ヒギンズとその娘
・アラン・ドロンをスターにした「陰」
・『エマニエル夫人』はなぜ「衝撃的」と誤解されたのか
――などなど「顔見道(かおみどう)」を究めた著者による目からウロコの13章。
【本書に登場する主な著名人】
吉永小百合、山口百恵、高峰三枝子、高峰秀子、阿部定、水道橋博士、東出昌大、井浦新、津川雅彦、大谷翔平、シェーン、役所広司、緒形拳、京マチ子、斎藤工、田中絹代、アラン・ドロン、岡田眞澄、シルビア・クリステル ほか
【目次】
1 美文字と、映画『女の園』『女學生記』
2 あのころの芸能人は何が命?
3 『福田村事件』から、老いらくの志
4 大谷翔平の顔、あのロボットの顔
5 『伊豆の踊子』ひとり映画祭
6 ボンカレー、焼津、おから、昭和は遠くなりにけり
7 賞と犬、メッシのほかにも名優犬はたくさん
8 わしゃあ、死んでも本望じゃ
9 『春琴抄』ひとり映画祭
10 眉の向こうに、見えるもの
11 顰蹙を買った、たわわなポスター
12 アラン・ドロンと〈ハンサム〉の時代
13 ソフトフォーカスでエロ映画を女性向きに作戦 ――『エマニエル夫人』と『ビリティス』、誤解の明と暗
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