「私は日本一の幸せ者かもしれない」 “女の敵”とされたゴージャス松野が明かす波乱万丈人生、セクシービデオ出演時のギャラは?
「私は日本一の幸せ者かもしれない」 “女の敵”とされたゴージャス松野が明かす波乱万丈人生、セクシービデオ出演時のギャラは?

今から28年前、芸能界史に残る泥沼離婚劇で日本中を敵にまわしたゴージャス松野。その後はホスト、整形、セクシー男優、プロレスデビュー……とあまりに波乱万丈。

現在64歳、試練と隣り合わせのよう見えるその人生を、本人はどう感じているのか?(前後編の前編) 

ゴージャス松野が明かす泥沼離婚騒動

「生き地獄を味わいましたね」

と、話し始めたのはゴージャス松野。1997年、沢田亜矢子との泥沼離婚騒動で、一躍時の人となり、“暴力夫”“女性の敵”として大バッシングのが吹き荒れた。

「ことの発端は夫婦関係のもつれでした。先方が離婚調停を申し立てた約2か月後に、例の会見が開かれました。私にとっては寝耳に水で。私の暴力や個人事務所のお金の横領という“花火”を打ち上げられまして。

相手は女優さんですし、私は一介のマネージャー。有名女優があれだけの行動を起こしたわけですから、マスコミも先方を擁護する報道一色でした」

当時はSNSもない時代。松野が反論する手段は会見を開くしかなかった。

「ワイドショーのデスクから“このまま黙っていると不利になるから、言いたいことあるならすぐ会見をやったほうがいい”と電話があり。先方の会見の詳細も把握しないまま、急遽、夜中に近所の公園で。とはいえ突然すぎて、しどろもどろでしたね」

そして、翌朝のスポーツ紙の一面には“暴力夫”の文字が踊り、ワイドショーでは針のむしろ。

「その後も、やってくる取材に対応するほどに、何を言っても悪いことばっかり報道されて。

マネージャーとして芸能界のノウハウは熟知してるつもりでしたが、真綿で首を締められるというか、もがくほどに不利な状況に。コメンテーターも“気持ち悪い”と言い出しますし(苦笑)。

あの頃は松野行秀でしたが、作られた人物像に反論したところで、結局はメディアの思惑通りに全部塗り替えられて。今と違って、コンプライアンスも何もない時代でしたから」

ワイドショーでの“祭り”は3か月ほど続いた。失業を余儀なくされたが、アルバイトをするわけにもいかない状況だった。

「みなさんがテレビ画面で観る以上に、メンタル的にはかなり追い込まれましたし、お金も底を尽きました」

ゴージャス松野の波乱万丈生活

そんなある日、“あなたを見ていられない”と面識のない実業家・Tさんから援助の申し出が届く。藁にもすがる思いで連絡を取ると、裁判費用などを快く負担してくれたという。

「だから弁護士を立てられ、裁判ができました。そして、地裁では先方の主張する事実は認められないという形で終結しました。Tさんは本当に私の人生の恩人です。

裁判後、やっと生活の立て直しを考え始めると、Tさんは“ラーメン屋さんもお金なければ屋台から始める。街角に机ひとつ置いて、酔っ払いの悩みを聞くことでもお金は稼げるんだからやってみなさい”とアドバイスをくださり、実践しました」

その様子をメディアが面白おかしく取り上げた。

「今だから言っちゃいますが、騒動の中で真摯に取材を受け続ける私に、芸能リポーターやスポーツ紙の記者の何人かとは友情のようなものが生まれまして。

だから、私の再スタートを取り上げてくれたんです」

これがきっかけで歌舞伎町の『クラブ愛』から声がかかり、ホストに転身。

「(当時の)社長は素晴らしい方で。“売上ではなく給与であげる”と言ってくださって。とにかく、お仕事をいただけたことが本当にうれしくて仕方がなかったです」

そんな社長から持ち掛けられたのは、整形案件。バラエティ番組でビフォーアフターを公開し、広告効果はかなりあったという。その後、松野はセクシー男優デビューも果たす。

「これも変な話、某スポーツ紙の記者から“こんな仕事あるよ”と紹介してもらって。躊躇ですか? もちろんありましたが、当時の経済状況がとにかくひっ迫していて。撮影どうこうではなく、500万円のギャラが1も2もなく魅力的で。ただ、業界やファンの方には申し訳ないのですが、500万円をいただけたらさっさとやめました」

その後は、プロレスデビューを果たしている。

「これも『クラブ愛』の従業員がプロレス団体の社長と知り合いで。“タイガー・ジェット・シンのセコンド兼マネージャーをやらないか?”というお話をいただきまして。

私は子どものころからプロレスが大好きで、プロレスラーになりたかったくらい。ただ当時は入門規定があり、身長が足りなくてあきらめました」

「私は日本一の幸せ者かもしれないです」

約1年間、セコンド兼マネージャーを務める中で幼少期の夢は膨らんでゆき、一念発起。2002年10月にレスラーとしてリングに立った。いろんなことに挑戦するも長続きしない印象だった松野だが、プロレスは64歳となった今も続けている。

「去年は引退も考えていたんですが。今年の1月の大きな試合ですごい拍手をいただいて。SNSでも『感動した』など、たくさん書いていただいて。同じ世代の方や辛い思いしてる人が少しでも元気になるのであれば、もう少し続けてもいいなと思い始めました。もちろん、無理しない範囲で。やっぱりね、還暦を過ぎると体力やモチベーションはガクンと落ちるので。今のトレーニングは週1ですが、2時間かけて全身をくまなく鍛えています」

と、充実の笑顔を浮かべた。波乱万丈、紆余曲折の人生を歩んできた松野に尋ねてみた。

もし、タイムマシンがあったらいつに戻って人生をやり直したい?

「まったくないですね(笑)。過去よりも先しか見てないので。今のこの状況が幸せだと思っているので。パートナーの田代(純子)の病気も横ばいで安定していますし。月命日の両親のお墓参りでは“今月も何事もなくて来れた。非常にありがたい”と手を合わせていますし。いろんな意味でやっぱり感謝をしてるので、過去に戻りたいって思いは全然ないです」

松野が口にした“幸せ”の真意について聞くと、

「私は日本一の幸せ者かもしれないです。だって、あんな騒動があって、普通だったら立ち直れないくらいノックアウトされて。でも、みなさんがいろんな救いの手を差し伸べてくださったから、何とか来られた。こんな幸せな人間は、世界のどこにもいないんじゃないかって思っていますよ」

酸いも甘いも噛み分けた松野の顔は、とても穏やかだった――。

後編ではパートナーの田代さんとの馴れ初めや、現在のお二人について話を聞いた。

取材・文/池谷百合子  

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