
中学1年生で不登校になった40代男性。ある “秘密”を抱えて苦しみ、10代後半のほとんどをひきこもった。
〈後編〉
糸が切れたように学校に行けなくなる
森野信太郎さん(45=仮名)には長年、誰にも言えない“秘密”があった。それに初めて気付いたのは、思春期を迎える少し前だ。
幼いころの森野さんは、「親の言うことをよく聞く、おとなしいいい子だった」という。ボール遊びや戦いごっこなど集団遊びが苦手で、週末はかわいがってくれる祖父母の家でよく過ごしていた。
「小学校高学年から、男子の輪に入っていけないという鬱屈した気持ちを持つようになって。そのころから、自分が憧れる対象は男子ばかりで、あ、そういう趣向があるんだと気づいたんです。スラッとしたやせ型で、ちょっと斜に構えた男の子が好きでしたね。でも、それは絶対に人には言えなかったので、自分の中の闇の部分としてずっと抱えていました」
中学1生の冬休みに、測量関係の仕事をしている父の仕事の都合で都内に引っ越した。新しいクラスでは、わざと牛乳を鼻から出して見せたりして、「おもしろいひょうきん者」を装った。サッカーは苦手なのに誘われれば一緒にやり、放課後に男子で集まったとき、「エッチな本を誰か買いに行ってこいよ」と言われ、率先して買いに行ったことも。
「本の内容には何の興味もないけど(笑)、早くクラスに馴染みたくて。すごく頑張っちゃったのをよく覚えていますね」
だが、1か月も経たずに学校に行けなくなる。
「なんか糸が切れたように行けなくなって……。もっと淡々と普通にやれたらよかったのになっていう気持ちもありますが、無理せざるを得なかったとも思います。自分の本性は恥ずかしいと思っていたから、他の人との間に壁ができちゃった。
その反面、みんなからよく思われたいという気持ちも強かったから、無理したんでしょうね。そのせいで、その後の中学高校を暗黒時代にしてしまったので、もったいなかったなと思うこともあります」
「拒否児」とからかわれて心の傷に
学校を休み始めてまもなく、森野さんは家にあった父親のウイスキーや焼酎を大量に飲んでしまう。翌朝、気がつくと自分の部屋で寝ていた。
「無理やり学校に行かせようとする親と何度も押し問答になって、よっぽどつらかったのかな。自分では飲んだ記憶はないんですけど、後で両親に聞くと、酔っ払って家の前の道端で倒れていたって。冬だけど上半身裸で。
それで親もびっくりして、慌てて学校の先生のところに相談に行ったんだと思います。先生がうちに押しかけてきて、部屋のドア越しに『大丈夫か』と。
朝起きられなくなり、学校のある時間帯は部屋で息を潜めるように本や漫画を読んだ。だが、家にこもりきりではなく、同級生に会わないよう早朝に家を出て、自転車で江の島や二子玉川など遠くまで行くこともあった。
「学校に戻らなきゃ」という焦りもあり、意を決して2年生の始業式に登校した。素面では勇気がなく、「酒をあおって」家を出たのだという。森野さんが自分の席に突っ伏していると、「拒否児」とからかう声が聞こえた。
「登校拒否の拒否児。当時は『不登校』という言い方はまだありませんでした。すごい心の傷になったのを覚えていますね。それで、翌日から『もう行くもんか』と」
そして、登校できないまま1学期が終わる。その間に、母親がいろいろな人に助けを求め、夏休み明けから児童相談センターに行くことになった。
「そこは通えました。来ている子は、みんな同じように教室で傷を負って学校に行けない子たちなので、お互い、傷には触れないしね」
高校受験を見据えて、児童相談センターの職員が中学に出向いて「傷つけるようなことは言わないように」と他の生徒を指導してくれた。
20歳で人生を終わりにしようとするが……
都立高校に進学したが、1か月も経たずに行けなくなってしまう。結局、退学して通信制高校に入り直した。
「また、無理に馴染もうとして行けなくなってしまって……。どこに行ってもうまくいかないんだと、ショックでしたね。やる気を失って、通信制高校のスクーリングにも行きませんでした。家でウイスキーを最初は水で割って、そのうちストレートで飲んで。毎日じゃないですけど、記憶をなくして家中をゲロ浸しにしちゃったりとかね」
2回留年して、まだ高校2年生だったある日、森野さんは海に向かった。
「同世代の人は華やかに成長している時期に、自分は何年もひきこもって何をしているんだ。どんどん、どんどん暗黒へと隔離されて……。そんな思いを深めて、いっそもう20歳の節目で人生を閉じたいと思ったんです。それで、海に行ったんだけど、飛び込む勇気はなくて。奥多摩の橋の上にも立ったけど、死ぬに死ねなくて……」
死ねないなら、どうしようかと考えていると、ふと頭に浮かんだことがあった。
「ピアノ、好きだったんですよね。学校に行かなくなって、いろんなことをやめたけど、またピアノをやりたいなって思ったんです」
母親に伝えるとうれしかったのか、すぐピアノ教室を探してくれた。せめて月謝は自分で払いたいとアルバイトを始めたのだが、思わぬ事態を引き起こす。
「ホテルの宴会場の配膳って華やかそうでいいなと憧れて。でも、罵声が飛び交うぐらい厳しい職場だったんですよ。もうホント、世の中ってこんなに厳しいのかと」
アルバイトが終わると、近くの喫茶店でビールを飲んで一息つくのが習慣になった。その後、いつもは電車に乗って帰るのだが、その日は、なぜか歩いて家に帰ろうと思った。コンビニで缶酎ハイやビールを買って飲んで歩き始めたのだが、途中でプツンと記憶を失う。
気がつくと病院だった。駅前で倒れて、救急搬送されたのだ。
仕事もうまく行かず、部屋には酒の空き瓶がゴロゴロ
「こんな若くてこんなに飲むのは、心に何か抱えているんじゃないか」
処置にあたった救急医にそう言われ、メンタルクリニックを紹介された。医師の診察とカウンセリングを受けて、自分のことを少しずつ話すことができた。
「20歳で死ぬこともできず、死ねないんだったらと動いて、そのおかげで病院と出会って。主治医は何度か変わっているんですが、何人目かの先生がゲイの先生だったんですよ。しかも、ピアノも弾いていて。やさしい先生で今でも親しくしています。そういう意味では幸運でしたが、お酒の失敗をくり返しちゃって」
カウンセラーの助言も受けて22歳でどうにか高校を卒業すると、印刷会社に就職した。仕事中ずっと緊張している反動で、仕事が終わると酒を求めてコンビニや飲み屋に駆け込んだ。飲み過ぎると翌朝起きられなくなり仕事を休む。
自分の部屋の中には酒の空き瓶がゴロゴロ転がっている状態で、5月の連休前には辞めざるを得なくなってしまった。
「仕事もうまくいかないし、連休が終わったら死のうと思っていました」
主治医も、このままでは危ないと感じたのだろう。ある自助グループを勧められた。その出会いが、森野さんの人生を大きく変えていく――。
〈後編へつづく『ゲイだと言い出せず、中1で酒に逃げたひきこもり男性「苦しんだ自分に意味はあった」』〉
取材・文/萩原絹代