「ギャラは番組後の焼肉でした(笑)」とんねるずと大ブレイク、『野猿』元メンバーが明かす「本当のギャラ」と「当時、ファンに言えなかったこと」
「ギャラは番組後の焼肉でした(笑)」とんねるずと大ブレイク、『野猿』元メンバーが明かす「本当のギャラ」と「当時、ファンに言えなかったこと」

90年代、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)の番組企画から生まれた「野猿」。とんねるずと、番組スタッフ数人から成るこの音楽ユニットは、約3年半にわたって活動を続け、2度、紅白歌合戦に出場するなど一世を風靡した。

そのメインボーカルだったカンちゃんこと、神波憲人さん(54)に話を聞いた。(前後編の前編)

とんねるずの「スタッフいじり」から超人気ユニットに

「いらっしゃいませ! 1名様ですか?」

都内にある串カツ店で、笑顔で客を出迎えていたのは90年代、とんねるずとともに華やかなステージで活躍していた音楽グループ・野猿の元メンバー、カンちゃんこと神波憲人さんだ。

1998年、バラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』の企画で結成された音楽グループ・野猿。

その中でも、アイドルのようなルックスと抜群の歌唱力で多くのファンを魅了していた神波さんはとんねるずの衣装を担当しながら、メインボーカルのひとりとしてNHK紅白歌合戦にも出場。

そんな彼が、なぜ串カツ屋さんに? 理由を尋ねると意外な答えが返ってきた。

「このお店は家が近くて、仕事帰りに通るたびにちょいちょい気になってはいたんです。たまたま入ったときに店のマスターとプロレスの話で意気投合してしまって。不定期で、ここで飲みイベントをしているんです。本業ですか?  今も映画や舞台の衣装を担当したり、タレントさんへのスタイリングをやらせてもらってます」

神波さんは串カツ店の店員ではなく、現在も当時と変わらずスタイリストとして活動しているという。そんな彼がなぜ、野猿のメンバーに選ばれたのか?

「中学生のとき、氷室京介さんに憧れてバンドを始めたんです。でも、ライブをやるにしても、自分が住んでいた新潟の田舎にはおしゃれな洋服が売っていなくて、どうしようと思ったとき、自分でアレンジして衣装を作るしかない!と思い、ステージで使う衣装制作を始めたんです

そのときは、音楽で食っていけたらいいなという思いはあったけど、すぐに挫折してしまって。それなら、歌手を目指している人に衣装を作ってあげるデザイナーになれたらいいなと思い、デザインの専門学校を卒業して東京衣裳に入社しました」

その後、『ドリフ大爆笑』や『志村けんのだいじょうぶだぁ』などの人気番組を数多く担当し、とんねるずの番組にも関わるように。とんねるずといえば、身内のスタッフを表舞台に引っ張り出すのはお家芸。

そんな「スタッフいじり芸」から誕生したのが野猿だった。

「来週これやるから、お前らも練習しといて」

「とんねるずさんの番組『みなさんのおかげでした』の中に、当時『うたばん』(TBS系で放送されていた音楽バラエティ番組)をパロディにした『ほんとのうたばん』というコーナーがあって。とんねるずがモーニング娘。とかSMAPとか、いろんなアーティストのものまねを披露していたんです。

その中で、おふたりがKinKi Kidsのものまねをするにあたって、バックダンサーを用意しようか、という話になったんです。

すると石橋貴明さんが僕たちスタッフを見て、『わざわざダンサー呼ばなくても、うちにいっぱいいるじゃん!』と言い出したんです。その後、スタジオで曲のVTRを見せられて、『来週これやるから、お前らも練習しといて』と言われて、1週間ほど練習をしていざ本番に。

僕らは素人ですから、ダンスも揃わずバラバラでひどい仕上がりだったんですが、それが視聴者の方から大反響だったみたいで。貴明さんが当時のエイベックスの専務さんに電話してくださるなどして、とんとん拍子にデビューが決まったんです」

歌唱力に定評のあった神波さんは、その後、メンバー内オーディションでメインボーカルに選ばれることに。

そして作詞・秋元康、作曲・後藤次利というゴールデンコンビを迎え、98年4月に発売されたデビュー曲『Get down』(ゲット・ダウン)は、オリコン初登場でいきなり10位に輝いた。

「サビではソロパートも多かったので、当時は緊張しっぱなしでした。『Get down』が予想外に売れたこともあって、続けてセカンドシングル『叫び』を出したら、これも初登場2位にランクインして。

その後は武道館や横浜アリーナでのコンサートや、いろいろな歌番組にも出演させていただいて、さらには紅白歌合戦出場まで。

まさか、あんなに人気が出るなんて、誰ひとり考えていなかったと思います」

人気絶頂当時の「本当のギャラ」

そのルックスと歌声から、野猿では1番人気を誇っていた神波さん。だが、突然、芸能人のように扱われたことで戸惑いもあったという。

「あのときは、本当にいろいろなことが一気に押し寄せてきて忙しかったので、当時のことをあまり覚えていないんです。だから『自分は人気者だ!』とかって勘違いをするヒマがなかったです。それに、調子に乗ったことをしてしまったら、とんねるずのおふたりにもご迷惑がかかりますしね。

当時は衣装の仕事でも、番組を8つぐらい掛け持ちしていました。どこの番組に行っても自分がいるから、タレントさんからは『いったい、カンちゃんは何人いるの?』と驚かれたこともありました(笑)。何年もまともな休みがなくて、家に帰れない日も珍しくなかったですね。

それこそフジテレビの楽屋のようなところで寝て、上司に起こされてまた仕事をする、みたいな毎日でした。デビュー曲『Get down』のミュージックビデオ撮影は、クラブの営業が終わった夜中の2時に撮影でしたからね。

CDが売れたので、『儲かったでしょう?』とかってよく言われるんですけど、当時の月収は本当に少なかったんです。番組で貴明さんもおっしゃってましたけど、本当に野猿のギャラは、番組後の焼肉だけでした(笑)」

衣装の仕事の合間に歌とダンスレッスン、そしてテレビ出演と大忙しだったが、それ以上に大変なことがあったとか。

「野猿の活動は、忙しいながらも楽しくやらせていただいていたんですが、本業に支障が出てしまったのは申し訳なかったですね。他のメンバーは仕事柄、スタジオにこもることが多かったですが、僕の場合、外に洋服を探しにいくのが仕事なので…。

お店で服を見ていると、『あ! カンちゃんだ!』と、お客様に騒がれてしまって。竹下通りに衣装を買いに行ったときには、修学旅行生たちに囲まれてしまったこともありました。そのときは『キャーッ!』って叫ばれて追いかけられたので、本能で逃げてしまったんです。

そしたら大勢で追いかけてきて、竹下通りが大パニックに。警察も来て、事情を聞かれてパトカーに乗せられました。すると警官の方が『俺、この人知ってる、野猿じゃん! 何があったの?』と言われて、事情を話したらお台場までパトカーで送ってくれたりもしました(笑)」

その人気から、日常生活に支障をきたしていたのは、他のメンバーも同様だったという。

「メンバーはみんなお酒が好きで、居酒屋に行くことが多かったんですが、お店に入るとファンの方が押し寄せてくるので、サインや握手対応をしていたら、ゆっくり飲むこともできなくなってしまって。なので最終的には宅飲みしかないよねってなって。特にボーカルの平山(晃哉)さんとは家が近かったので、お互いの家で飲むことが多かったですね」

当時、グループ内では「彼女ができたことがない」というキャラを貫き通していた神波さんだが、実は当時、言えなかったことがあるようで…。

「今だから言えますけど…(当時、話していた)彼女がいない歴29年というのは…ウソでした。

ただ、学生時代に全くモテなかったというのは本当です。え、なんでウソをついていたかって? やっぱり、アイドルというのは彼氏彼女の存在を隠すものだと教えられていたので(笑)」

後編では闘病中の石橋貴明への思い、そして野猿再結成の可能性について聞く。

取材・文/佐藤ちひろ 写真/産経新聞社

編集部おすすめ