高市バブル終了へ… 名物投資家が警鐘「予兆表れている」株価暴落、円高転換が日本を襲う…物価高、住宅ローン、医療費、教育費、どれも限界
高市バブル終了へ… 名物投資家が警鐘「予兆表れている」株価暴落、円高転換が日本を襲う…物価高、住宅ローン、医療費、教育費、どれも限界

政治も市場も混乱している。高市新総裁の誕生に株式市場は沸き、日経平均株価は一時、4万8000円台を記録、ドル円相場も大きく動き1ドル152円まで円安が進んだ。

だが、公明党の連立離脱で日経平均は最高値から大幅に下げるなど、相場にも暗雲が垂れ込め始めている。為替相場は下げ止まったものの、名物投資家として世界のファンドにアドバイスを送る木戸次郎氏は今の状態を「見かけ上の安定」と分析し、“逆回転”の発生を予言する。円安バブルと日経平均の崩壊はいつ起きるのか、木戸氏が解説する。

 

予兆は、すでに至るところに表れている

高市総裁の誕生は、日本の政治に新たな局面をもたらした。しかし、その船出を前にしても、永田町は静まる気配を見せていない。

立憲民主党が維新や国民民主に接近し、「誰が総理でもいい、とにかく自民党を終わらせる」と呼びかけているという報道が流れた。

そこに国民の姿はない。生活や物価や雇用といった現実よりも、政権交代という言葉の響きが独り歩きしている。政局の連立図だけがメディアに踊り、誰もその中身を問わない。

まるで「政権交代」が目的そのものになっているようだが、政治は手段であって結果ではない。国会召集を前に、すでに権力の座をめぐる駆け引きばかりが先行している。これが、政治の弱体化そのものである。

弱体化とは、指導者の資質ではなく、政治そのものの体力の問題だ。

政策を練り上げ、実行し、説明するための基礎代謝が失われている。

与党は派閥の均衡を守ることに疲れ、野党は与党を倒すことだけを目的に動き、その先にある統治の責任を誰も語らない。

官僚は短命政権に怯えて動かず、国民は投票率の低下という沈黙で答えている。こうして政治の血流は細り、意思決定は形ばかりのものになった。

私はこの状態を「見かけ上の安定」と呼んでいる。表面は静かでも、内側では歪みが溜まり続け、いつか一気に崩れる。その予兆が、すでに至るところに表れている。

逆回転、すなわち円高への転換の足音が近い

為替も相場も、政治の脈拍を映す鏡だ。円は一時152円まで売られたが、米国金利の頭打ちとともに下げ止まり、いまは次の方向を探っている。長く続いた円安の流れは終盤に入り、逆回転、すなわち円高への転換の足音が近い。

私はこの円高を、単なる為替の反動ではなく、政治と経済の自浄作用だと思っている。円安バブルの十年は、政治の空洞を覆い隠すための幻想の時間だった。

だが、通貨は嘘をつかない。

政治が空手形を乱発し、財政も金融も膨張しきったところで、ようやく市場は現実に戻ろうとしている。

いま、金と銀がともに史上最高値を更新し続けていること自体、通貨そのものへの信頼が揺らいでいる証左である。金は国境を越えて価値を持つが、通貨は国家の信用に依存する。

ドルという基軸通貨の足元が揺らげば、その影響は円のようなローカルマネーに最も早く表れる。円安や円高という表層の変動の背後では、すでに「通貨という制度」そのものの信認が試され始めている。政治が現実から目を背け、金融政策が延命策に傾けば、通貨の信用は静かに削られていく。

平成の終わりに経験したあの閉塞と混乱

逆回転は時間の問題だ。むしろ、まだ始まっていないことが不自然なくらいだ。米国金利が下がり始め、円の売り材料が剥がれ落ち、投機筋が手仕舞いに動けば、一気に円は買い戻される。

円安の裏で利益を上げてきた輸出企業は、為替差益の消滅に直面し、日経平均の押し目は深くなるだろう。円高局面では、株価の下落が政治への不信をさらに煽り、政策の手詰まり感が強まる。

政治と市場の逆回転が同時に起きれば、日本は平成の終わりに経験したあの閉塞と混乱を思い出すことになる。

民主党政権時代の悪夢。

その言葉を思い出す人は多いはずだ。確かに、当時の政治は稚拙だった。外交も経済もバラバラで、為替は75円まで高騰し、企業は国内生産を諦めた。政治の未熟さが通貨と雇用を直撃した。

だが、あの時代が私たちに残した教訓は、単に「民主党が悪かった」ではない。政治が分裂し、統治の意思を失えば、どんな党が政権を取っても国は動かないという現実だ。いまの日本は、その再現に向かって歩いている。

違うのは、当時よりも財政が悪化し、人口が減り、格差が広がっているということだ。つまり、再び同じ過ちを繰り返したときのダメージは、あの比ではない。

物価高、住宅ローン、医療費、教育費、どれも限界

それでも政治は危機を危機と思わない。国会が開かれれば、各党は「国民の声を聞く」と言うだろう。だが実際には、国民の声はどこにも届かない。

物価高、住宅ローン、医療費、教育費、どれも限界に達しているのに、議論は票になる話題ばかりだ。

為替や株価の変動を政権の通信簿のように扱い、表面の数字で政治の力量を測ろうとする。

だが、市場は一瞬の期待に反応しても、生活はついてこない。経済が疲弊し、社会の中層が崩れるとき、通貨は最初に悲鳴を上げる。政治が弱体化すればするほど、円は不安定になる。これは歴史の法則だ。

いま求められているのは、強いリーダーではなく、現実を直視する政治である。派閥の再編や連携の絵図ではなく、物価と賃金と社会保障を同時に見られる冷静さ。だが、その冷静さを支える体力が、いまの政治には残っていない。

権力のバランスを維持するだけで精一杯の政権と、政権奪取を目的化した野党。その対立軸のどこにも未来はない。結局のところ、政治の弱体化とは、国民のあきらめの映し鏡であり、あきらめの国では通貨も上がらない。

円安バブルの代償は国民が払ってきた

私は、円高への転換を悲観ではなく「清算」として見る。

円安バブルの果実は一部の企業と投資家に集中し、その代償を物価上昇という形で国民が払ってきた。

円が上がることは、生活コストが下がることでもある。問題は、その恩恵が賃金や地域経済に届く前に、政治が混乱して再び市場を振り回すことだ。

そうなれば、円高は一過性の反動で終わり、再び迷走の円安が繰り返される。国民が真に豊かになるには、為替ではなく政治が安定しなければならない。

だが、その安定を築く力が、どの党にも見当たらない。高市総裁が派閥の均衡に頼り、野党が理念を手放し、国民が沈黙する。この三つが揃ったとき、政治は機能不全に陥る。

私は今度の国会が、その臨界点になると思っている。政治の舞台は賑やかでも、実際に動いているのは通貨と物価と生活だけだ。数字は嘘をつかない。円は正直だ。

だからこそ、政治が虚構を積み上げた分だけ、為替は現実を突きつける。逆回転はすでに始まっている。国民不在のまま迎えるこの国会が、その最初の帳簿決算になるかもしれない。

文/木戸次郎

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