「統一教会!」「裏金問題!」高市首相の所信表明をかき消した立民議員のヤジ=“言語的ハラスメント”の正体
「統一教会!」「裏金問題!」高市首相の所信表明をかき消した立民議員のヤジ=“言語的ハラスメント”の正体

高市早苗首相の初の所信表明演説中、一部の議員が「統一教会!」「裏金問題!」と叫び、議場は騒然となった。ヤジを放ったとされる議員が炎上する一方で、「このヤジを放った議員は国民代表として称賛されるべきだと思います」と自身のXにポストする議員も現れ、事態はカオス化している。

「統一教会!」「裏金問題の全容を解明しましょう!」

静寂であるべき場に、不協和音が響き渡った。10月24日、高市早苗首相が初めて臨んだ所信表明演説。

国家の針路が示されるその厳粛な瞬間に、議場の一角から浴びせられたのは、政策論争とは到底呼べない、耳障りな罵声の数々であった。

演説が始まると同時に、「統一教会!」「裏金問題の全容を解明しましょう!」といったヤジが、首相の言葉を遮二無二かき消そうと飛び交う。高市首相が声を張り上げ、時には演説を止めて呆れたように息をついた。

この光景は、日本の議会が抱える深刻な病巣を、これ以上ないほど明確に国民の前に露呈させた。一部の国会議員は、言論による対話という民主主義の根幹を、自ら放棄してしまったのではないか。この醜態を、単なる議会の「日常風景」として見過ごすことは、断じて許されない。

報道などによれば、この議場での蛮行の主は、立憲民主党に所属する水沼秀幸議員や岡田悟議員であったと特定されているようだ。新人であろうとベテランであろうと、国民の負託を受けた国会議員の振る舞いとして、著しく品位を欠くものである。

インターネット上では「小学生でも静かにできるぞ」という当然の怒りが渦巻いたが、その指摘は的を射ている。他者の意見に耳を傾けるという、人間社会における最も基本的な作法すら、彼らは持ち合わせていないように見える。

さらに深刻なのは、立憲民主党の党首である野田佳彦代表の対応である。

「私は一番後ろなので、誰がどういうふうに言っているかわからない」「この種のヤジはいつもよく聞かれることだ」という発言は、責任者としての当事者意識の欠如を物語っている。

この野田代表の発言は、自党の議員が引き起こした問題に対する、無責任な黙認に等しい。党としての規律を保つ気概もなく、問題の本質から目をそらすその姿勢は、党全体が言論の場を軽視しているとの印象を国民に与えるだけである。

三谷幸喜氏「ルールとして違う」 

ヤジは、健全な批判ではない。議論の土俵に上がることを自ら拒絶し、対話の可能性を破壊する、言論の敗北宣言そのものである。政策で対抗できない無力さを、感情的な妨害行為で糊塗しようとする姿は、哀れですらある。

この問題を巡っては脚本家の三谷幸喜氏も情報番組にて、ヤジ自体は「悪いことじゃない」としつつ「(フレーズが長いため)あれはヤジじゃなくて議論になりつつある」として「ルールとして違う」と指摘した。

こうした議会でのヤジは、単なる感情の爆発や偶発的な行動ではない。フランスの政治言語学者、シモーヌ・ボナフーとドミニク・デスマルシェリエは、1999年の論文で、議会におけるヤジを「言語的ハラスメント(harcèlement discursif)」と喝破した。

彼らの分析によれば、ヤジは衝動的なものではなく、「事前に計画された政治的戦略(programme d’action préalablement fixé)」として機能する。

これは、相手の発言を執拗に遮ることで、その発言権そのものを奪い、聴衆に対して「演説者は劣勢だ」「反論に窮している」という誤った印象を植え付けるための、計算された攻撃戦術なのである。

「言語的ハラスメント」の典型例

今回の立憲民主党議員の行為は、まさにこの「言語的ハラスメント」の典型例と言えよう。高市首相が演説を中断し、呆れた表情を見せた瞬間こそ、ヤジを飛ばした議員たちの狙いが一時的に達成された瞬間だったのかもしれない。

しかし、そのような手法で得られるものは何もない。

国民の冷ややかな視線と、政治への深い不信感という、取り返しのつかない代償を支払うだけの、愚かな行為である。

さらに、この種のヤジは、複数の人間が同時に無秩序な発声を行う「ポリローグ」という状況を生み出す。そこでは、論理的な議論は完全に失われ、感情的な言葉の応酬だけが残る。

「統一教会」「裏金」といったレッテル貼りに終始するのは、政策の細部を検証し、建設的な対案を示すという、野党本来の役割から逃避している証左にほかならない。 

議論ではなく混乱を、対話ではなく断絶を、意図的に生み出す

彼らは、議論ではなく混乱を、対話ではなく断絶を、意図的に生み出しているのである。

ただし、ヤジを飛ばした議員たちの愚劣さを糾弾する一方で、高市首相の政治姿勢に対しても、冷静かつ批判的な視線を向けねばならない。言論の場を破壊する行為に反対することと、政権の政策を無条件に支持することは、全く別の問題であるからだ。

まず問われるべきは、政治家としての信念の一貫性である。首相就任前にあれほど強硬に主張していた靖国神社への参拝を、就任後あっさりと見送った。これは、首相という立場を得るための手段として、保守層の支持を利用しただけではないかとの疑念を抱かせる。

支持者への裏切りと受け取られても仕方のない行動であり、国家観の根幹に関わる問題での変節は、政治家としての信頼を大きく損なう。

経済政策においても、国民の期待に応えているとは言い難い。所信表明演説では物価高対策を最優先課題としながら、その具体策には疑問符が付く。

ガソリン減税を掲げる一方で、来年4月からの増税を既定路線とし、積極財政として赤字国債の発行も視野に入れているという。

減税して増税するのでは、国民生活の負担は結局変わらない。これは、痛みを先送りし、将来世代にツケを回すという、旧態依然とした政治手法からの脱却を期待した人々を失望させるものだ。

ヤジは、その最も基本的なルールを破壊する 

歳出削減の努力以上に支出を拡大し、最終的に国民負担を増やすのであれば、それは改革とは呼べない。生活者の苦しみに向き合うならば、消費税減税のような、より抜本的な対策に踏み込むべきではないか。

高市首相が「強い経済」と「豊かな日本」を目指すのであれば、目先の評価を気にするのではなく、国家財政の健全化と行政の効率化に向けた、骨太で揺るぎない方針を示す責任がある。

議会は、多様な意見が衝突する闘技場であるべきだ。しかし、その闘いは、言葉と論理という武器を用いて行われなければならない。ヤジは、その最も基本的なルールを破壊し、言論の場を単なる罵り合いの場へと貶める、最も忌むべき行為である。

立憲民主党の議員が見せた醜態は、自党の評判を地に落とすだけでなく、日本の民主主義そのものを深く傷つけた。国民が政治に期待しているのは、未来を託せるような真摯な政策論争であり、学級崩壊さながらの無秩序な光景ではない。

 建設的な議論を放棄した者に、未来を託すことはない

保守っぽいというイメージだけで突き進む高市政権の政策には、批判されるべき点が数多く存在する。だからこそ、野党には、ヤジという幼稚で非生産的な手段に頼るのではなく、鋭い質疑と具体的な対案によって、政権と堂々と対峙する重い責務がある。

言論の場から罵声を追放し、理性と敬意に基づいた対話の文化を取り戻すこと。それこそが、失われた政治への信頼を回復するための、不可欠な第一歩となるだろう。国民は、建設的な議論を放棄した者に、未来を託すことはない。

議会でのヤジは、単なる感情的な行動ではなく、言論の場を破壊し、対話を阻害する「言語的ハラスメント」である。立憲民主党議員の行為は、まさにその典型であり、国民の政治への不信感を深めた。

政権への批判は不可欠だが、それは幼稚なヤジではなく、理性に基づいた政策論争によって行われるべきだ。国民が政治に期待するのは、建設的な議論であり、失われた信頼を回復するためには、まず言論の場から罵声を追放し、敬意に基づいた対話の文化を取り戻すことが不可欠である。

文/小倉健一

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