41歳のとき20歳の姪を妊娠させてパリに逃亡…その一部始終を小説で告白せずにいられなかった島崎藤村の異常な暴露癖
41歳のとき20歳の姪を妊娠させてパリに逃亡…その一部始終を小説で告白せずにいられなかった島崎藤村の異常な暴露癖

自然主義文学の旗手となった島崎藤村には、読者をざわつかせずにはいられない“暴露癖”があった。『新生』では、41歳の藤村が当時20歳の姪を妊娠させ、パリへ逃亡した一部始終をほぼ実名で告白している。

藤村はなぜ自らの恋愛スキャンダルを晒し続けたのか。

『文豪の憂鬱な癖』より一部抜粋、再編集してお届けする。〈全4回のうち4回目〉

過去の自分の恋愛経験を小説で赤裸々に公表

島崎藤村は、前半生は浪漫主義の詩人として、後半生は自然主義を代表する小説家として、近代日本文学の発展に大きく貢献した。

人間の内面を描き出す自然主義の作家だけに、自身の恋愛模様を題材にした作品で有名だが、いずれも露悪的な内容だ。

最も有名なのが“姪っ子”との一件を描いた1918(大正7)年発表の小説『新生』だろう。彼には、世間がドン引きするような自身の恋愛に対する行動を赤裸々に告白せずにはいられない「暴露癖」があったといえる。また、その恋愛遍歴から、年の離れた「若い娘」を好んでいたことでも知られている。

島崎藤村は本名を春樹といい、1872(明治5)年、信州・馬籠(現在の岐阜県中津川市)で生まれた。生家はかつて木曽街道の馬籠宿の本陣であり、問屋と庄屋も兼ねる旧家であった。9歳のときには上京して15歳でミッションスクールの明治学院本科(現在の明治学院大学)に入学し、16歳でキリスト教の洗礼を受けている。

1892(明治25)年9月に明治女学校高等科の英語科教師となったが、着任後すぐに教え子の佐藤輔子に恋愛感情を抱く。このとき、藤村は20歳、輔子は21歳だった。

彼女に婚約者がいると知った藤村は傷心し、生徒に「燃え殻」といわれるほど授業に身が入らなくなったことで、その恋心が学校中に知れ渡ってしまう。

ついには教室で輔子の顔を見ることすら苦痛になり、教師になってわずか4カ月後の1893(明治26)年1月下旬に退職してしまった。

しかし、翌年4月には復職する。そうして教師としていくつかの学校に赴任しつつ詩作を行っていた1899(明治32)年、これまた教え子であった秦冬子と結婚した。藤村は27歳、冬子は21歳だった。

なお、佐藤輔子に失恋した経緯は、15年以上を経て1908(明治41)年に発表した自伝的小説『春』で、自身を「岸本」、輔子を「勝子」として描き、自慰的に昇華した。

40歳を超えて20歳そこそこの姪を身ごもらせて海外へ逃亡

藤村が自身の性的嗜向を決定づける一大スキャンダルを引き起こしたのは、1910(明治43)年に妻・冬子が亡くなってからのこと。この頃には教職を辞し、『破戒』や『春』といった小説で高い評価を得ていた。

産後の肥立ちが悪くて冬子が亡くなってしまい、それにより4歳の長男を筆頭に4人の子どもを男手ひとつで育てなければいけなくなった藤村は、次兄・広助の長女である久子と次女であるこま子に頼んで身の回りの世話を手伝いに来てもらう。翌々年に久子は結婚するが、こま子は引き続き住み込みで家事の手伝いを行った。

やがて藤村は若く瑞々しい肉体を持つこま子に欲情し、叔父と姪であるにもかかわらず関係を持ってしまう。しかし、こま子の妊娠が発覚すると、1913(大正2)年に「留学」という名目でパリへ逃亡を図った。このとき、藤村は41歳、こま子は20歳である。

のちに発表した『新生』には、主人公・岸本(=藤村)が、節子(=こま子)の父で兄でもある義雄(=広助)に宛てて、滞在中のパリから手紙で事の次第を告白し、義雄からは次のような寛大な内容の返信が届いたとある。

――出来たことは仕方がない、お前はもうこの事を忘れてしまへ(中略)お前は国の方のことに懸念しないで、専心にそちらで自分の思ふことを励め

こま子は藤村の外遊中に出産し、生まれた子どもは広助によって里子に出されたという。その後、1916(大正5)年まで約3年間、藤村はパリで過ごしている。

普通の人ならこれで行状を改めそうなものだが、パリから帰国した藤村は、なんとこま子とよりを戻してしまう。しかも、この一連の顛末を『新生』で世間に公表し、作品を通してこま子との関係を清算しようとしたのだ。

さすがに広助も怒りがおさまらなかったようで、『新生』には「こゝに涙を振つて足下を義絶す」という手紙を寄こしたと書かれている。つまり藤村に絶縁を告げたのだ。そして、こま子は台湾にいる伯父(藤村と広助の兄)のもとへと引き取られ、ふたりは完全に別れることとなった。

後年のこま子によると、『新生』は「ほとんど真実を記述しています。けれども叔父に都合の悪い場所は可及的に抹殺されて」いたという。

もちろん藤村は世間や同業者から批判を浴びており、芥川龍之介が『或阿呆の一生』のなかで「彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた」と述べるほどであった。

なお、その後も藤村は52歳のときに28歳の女性に求婚している。相手は藤村が創刊した女性誌『処女地』の編集助手として訪れた加藤静子で、初めての求婚から約4年もの歳月をかけてしつこくいい寄り、1928(昭和3)年にようやく結婚を果たした。

このとき、藤村は56歳、静子は32歳。年の差は24歳であった。

監修/朝霧カフカ 写真/Shutterstock

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