「質問がレベル低すぎ」で勃発の立憲民主不要論…国会議員質問コストが1分約8万円なら「奈良の鹿」質疑15分=120万円の衝撃!
「質問がレベル低すぎ」で勃発の立憲民主不要論…国会議員質問コストが1分約8万円なら「奈良の鹿」質疑15分=120万円の衝撃!

LASISAが配信した「SNSで降り注ぐ“立憲民主党不要論”『下品ヤジ』『クマ発言30分追及』『午前3時レク自爆』――本当に『不要』なのは一体なにか」という記事が話題を呼び、ヤフーニュースでは3000以上のコメントがついた。記事いわく、「現在SNSでは『立憲民主党 不要論』が爆発的に高まっています。

X(旧Twitter)の検索窓に『立憲』と打つだけで『立憲民主党 いらない』が検索候補の上位に出るという異常事態」だという。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏がこの事態について、詳しく解説していく。

「こんなレベルの低い質問が延々と行われているとは…」

「奈良の鹿」が国会を揺るがしている。あるいは、週刊誌が報じた国家公安委員長が男性記者の容姿を「クマみたいだね」と評したというオフレコのやり取り。

2025年11月、日本の国権の最高機関である国会、その予算委員会という国民注視の舞台で、立憲民主党の議員たちが貴重な質疑時間を費やしたのは、驚くべきことに、そうした話題であった。

立憲民主党の西村智奈美議員は、高市早苗首相が自民党総裁選の演説で行った「奈良の鹿」に関する発言を捉え、約15分間にわたり執拗に撤回を求めた。

首相が地元で間近に見たという、鹿が蹴られるといった事案に対し、西村議員は「外国人だけの問題なのか」と問い、最終的に「撤回」を要求した。ネット上では「予算に何の関係があるんだよ」「今話す議題でしょうかね」という、至極当然な非難の声が溢れたという。

同党の池田真紀議員に至っては、国家公安委員長が会見後に記者に漏らしたとされる「クマみたいだね」という発言について、「事実ですか?」「撤回してはどうですか。不謹慎です」と追及を続け、30分以上を浪費した。

日本保守党の北村晴男参院議員が、このやり取りに対し「こんなレベルの低い質問が延々と行われているとは。驚きだ」と自身のSNSに投稿するのも無理はない。

こうした愚行は留まるところを知らない。

新内閣の理念を国民に示す最初の所信表明演説は、下品なヤジによって妨害された。

さらに野田佳彦元首相などは、首相の体調管理をネタに政府の深夜(午前3時)に及ぶ準備体制を批判しようとして、逆に首相の献身的な姿勢を際立たせるという「自爆」まで演じている。これは戦略的破綻の露呈である。彼らは政策論争どころか、「パフォーマンス」すらまともにこなせないのである。

神聖な道具が立憲の手によって単なる鈍器に

国会質問とは、本来、民主主義の根幹をなす機能である。立法府が執行部(政府)を監視し、その説明責任を問うための、最も重要かつ強力な「道具」のはずだ。

国民が選んだ代表者が、国民に代わって権力をチェックする。行政府が持つ「情報の優位」に対抗し、政府の行動を公の記録に残させ、場合によっては行政の過ちを正させる、そのための神聖な権利である。

だが、その神聖な道具が、いま立憲民主党議員の手によって、単なる「鈍器」として振り回されている。彼らの行為は、政治学が長年警鐘を鳴らしてきた議会機能の堕落、その典型的な症例である。

シェーン・マーティン氏が2013年に発表した論文『議会質問』は、この危険性を分析している。マーティン氏によれば、議会質問はその有益性とは裏腹に、深刻な弱点を抱えている。

「議会質問が純粋に党派的な手段と化す危険性がある。

つまり、与党議員は政府を肯定的に反映する質問をし、野党の政治家は政権を担う政敵に対して政治的利点を得るためだけに質問をするということである。

特に口頭質問は、議会日程の中でも注目が集まるため、政治家が政敵の評判を犠牲にして自らの立場を最大化しようとする『パフォーマンスの場』と化す危険性がある。

このような『政治劇』は面白いかもしれないが、こうした過度に党派的なやり取りは、国民の代表あるいは政府の監視という点において、実質をほとんど提供しない」

立憲の「パフォーマンス」は無料ではない

「政治的利点を得るためだけ」「パフォーマンスの場」「実質を提供しない」…これほど現在の立憲民主党議員の行動を的確に表現する言葉があるだろうか。

この「パフォーマンス」は無料ではない。マーティン氏の論文は、議会質問が持つ「資源への影響」、すなわちコストについても触れている。

国会の一分一秒は税金で賄われている。英国下院の試算によれば、口頭質問1分に平均£410(約8万円)のコストがかかるという。日本も同様だろう。

池田議員が「クマ発言」に30分を費やし、西村議員が「奈良の鹿」に15分を使ったとき、その無益な政治劇のためにどれだけの税金が蒸発したのか。これは単なる無能ではなく、国富の浪費である。

無論、マーティン氏の論文は議会質問の「官僚機構の説明責任」や「選挙区の利益代表」といった肯定的な機能も強調している。

ゴシップ誌を読んでいる立憲議員

議員が地元選挙区の特定の陳情や、公共事業における行政の不備について詳細なデータを要求する質問は、民主主義の重要な機能である。

それには地道な「探偵作業」、すなわち調査、データ分析、法解釈の深い理解が求められる。それこそが有権者が求める「実質」である。

だが、立憲民主党の行動は真逆である。彼らは探偵作業をしているのではない、ゴシップ誌を読んでいるのだ。官僚機構の説明責任を追及しているのではない、メディアが喜ぶ見出しを追及しているのだ。

彼らは、骨の折れる監視と代表の仕事を放棄し、「パフォーマンス」という安直な道を選んだ。これこそが彼らの堕落の核心である。

さらに深刻なのは、彼らが些末なゴシップだけでなく、日本の安全保障という「実質」ある議題に触れた際の対応である。

立憲民主党の大串博志議員は、台湾有事に関する高市首相の「存立危機事態」答弁に対し、ひたすら「撤回」と「修正」を求めた。

だが、小泉進次郎防衛大臣が「(立憲民主党の皆さんが)何を求めているのか、私にはよく分からない」と困惑したように、大串議員の要求は安全保障政策の現実を踏まえた対案ではなく、ただ政府の答弁を封じ込めようとする党派的な妨害に終始した。

「戦争に入るという判断だ」と感情的に叫ぶだけ

立憲民主党議員は「戦争に入るという判断だ」と感情的に叫ぶだけで、存立危機事態の認定基準やシミュレーション、あるいは抑止力を高めるための具体的な防衛政策といった、本来議論すべき「実質」から逃げている。

小泉防衛相が指摘したように、彼らが「『軽々に言うべきではない』」のか、「『より詳細な基準などを設けて事態認定などをすべきではないか』」なのか、その立ち位置すら不明瞭である。

この安全保障という「実質」ある議論への対応能力の欠如は、驚くにはあたらない。先の衆院選後、立憲民主党は維新や国民民主党との連携を模索したが、まさに安全保障政策をめぐる溝によって破談となった。

現実的な政策を構築する能力を彼らは持たない。

だからこそ、彼らに残された道は「撤回しろ」と叫んで議事を妨害することだけである。それは、議論する能力を失った者たちの断末魔なのだ。

これは、立憲民主党が「実質」ある議論を行う能力を、そもそも有していないことの証左である。

些末なゴシップで時間を浪費するだけでなく、国家の存立に関わる重大なテーマにおいても、彼らは「パフォーマンス」としての追及しかできない。

議会は劇場ではない。国民の税金によって運営される、極めて高コストな意思決定機関である。その貴重な時間を、鹿やクマの話題で浪費することは、国民に対する背信行為だ。

パフォーマンスと地元回りだけに精を出し、国家の未来を考える能力も意志も欠如している。奈良の鹿から聞くべき話が何もなかったのなら、そのような立憲民主党議員は国会に不要である。

立憲民主党議員の無益な「パフォーマンス」は、民主主義の根幹を揺るがす税金の浪費に他ならない。1分約8万円という国会コストを考えれば、「奈良の鹿」の質疑15分は120万円をドブに捨てたに等しい。

彼らがすべきはゴシップ追及ではなく、地道な調査に基づいた「実質」ある政策論争だ。国民は、国家の未来を真剣に議論する政治を求めており、パフォーマンスと妨害に終始する野党は不要という世論の厳しい審判は、極めて当然の帰結と言えるだろう。

文/小倉健一

編集部おすすめ