〈23年ぶりに復活〉Hysteric Blue・Tamaが明かす『春〜spring〜』の曲名に隠された「もう一つの意味」と今だから話せる制作秘話
〈23年ぶりに復活〉Hysteric Blue・Tamaが明かす『春〜spring〜』の曲名に隠された「もう一つの意味」と今だから話せる制作秘話

1997年に結成し、翌年メジャーデビューしたHysteric Blue。1999年発売の「春~spring~」は66万枚の大ヒットとなり、NHK紅白歌合戦に初出場した。

2004年に解散するまでシングル14枚、アルバム5枚、ベストアルバム1枚をリリースした彼らが、23年ぶりに帰ってくる。 2026年5月9日にHysteric Blueが一夜限りの復活。今回はヴォーカルのTamaにデビュー当時の秘話や、今だから話せることを聞いた。(前後編の前編)

消去法でヴォーカルに、結成翌年にまさかのメジャーデビュー

《こういう夢ならもう一度逢いたい 春が来るたびあなたに逢える》

1999年に発売したHysteric Blueの「春~spring~」。歌詞を見ればメロディーも一緒に思い出すほどの楽曲を生み出した彼らが、来年一夜限りの復活をすることに。ヴォーカルのTamaに当時のことや楽曲の裏話を聞いてみると――。

――Tamaさんといえば綺麗な高音が魅力的ですが、驚くことにヴォーカル志望ではなかったそうですね。


Tama(以下、同) そうなんです。最終的にヴォーカルしか選択肢がなかったんですよ(笑)。エレクトーンやピアノを習ったけど、すぐ眠くなってしまうから鍵盤はだめ。ベースはチューニングする時にペグに手が届かないのが当時の自分的にカッコ悪くてナシ。ギターは速弾きができるのにコードが押さえられなくて(苦笑)。ドラムはちょっと敷居が高いし、私のこの華奢な体だと、やりたいポップロックのパワフルな曲を叩くのは難しい。

となると、消去法で『ヴォーカルしかない』ってなりました。

――あの歌唱力でヴォーカルが消去法での選択だったとは信じがたい話ですが、歌がうまいという自覚もなかったんですか?

小学校のクラス合唱会でセンターに選ばれるとか、音楽の先生に褒められるようなことはありましたが、そんな子はクラスで1人はいるから。歌手になる、プロになるなんて考えたこともなかったですね。

――Tamaさんが高校2年生だった1997年にHysteric Blueを結成し、翌年にはメジャーデビュー。どのような経緯があったんですか? 

大学受験を考えていたのでバンドは高校2年生の末まで、と決めていました。そんな時に、デモテープを聞いた佐久間正英さん(Hysteric Blueのプロデューサー)が「東京で一緒にデモテープを録ってみない?」と声をかけてくれたんです。

じゃあデモテープを録って、それを思い出にして、バンド活動は辞めようと思ってました。冬休みに上京し1日4曲完パケ。ハードスケジュールだったのですが、とても楽しかったんですよね!

――そこからどのようにメジャーデビューになったのでしょうか。

デモテープを聞いたソニーレコードさんから、メジャーデビューのお話をいただきました。でも、学校が芸能活動禁止だったから、デビューか退学かの2択を迫られまして。最初は思い出作りのはずだったし、親にも大反対されました。



でも、もしデビューしたら1日で4曲じゃなくて、ちゃんと1曲をスタジオで全力で録れるって思ったらワクワクしてきちゃって。高校や大学は年を重ねても行けるけど、メジャーデビューのチャンスは今しかない!と、思い切って決断しました。あの時やっておけば良かったって後悔したくなかったんですよね。

「春~spring~」はデビュー前に録ったデモテープの仮歌

――Hysteric Blueの代表曲といえば1999年にリリースされた「春~spring~」を思い浮かべる人が多いと思いますが、今だから話せる裏話や制作秘話はありますか?

裏話……(笑)。実は、翌年の夏に本番のレコーディングがあったんですが、私が夏風邪をこじらせてしまって声が出なくて。でもスケジュール的に、その日にレコーディングしないと間に合わない。じゃあどうしようってなった時に『そういえば仮歌の歌、結構良くなかった?』って話になったんです。実はあの曲だけ、仮歌を引っ張り出してリリースしたんですよね。実質デモテープで録った高校2年の冬休みのやつです。ちょっとエモい話でしょ?(笑)。

――そんなことがあったんですね!ちなみになぜ、「春」「~spring~」と同じ意味を2回タイトルに入れたのでしょうか?

「~spring~」は英語表記での春っていう季節の意味で思われている方が多いと思うんですが“spring”って跳ねるとか湧くとか、そういう意味合いもあるんです。

この曲は卒業シーズンの別れの曲ではありますが、“会えなくなって寂しいけど、これからみんな新しい道に進む。お互いに気持ちを沸き立たせていこう! 奮い立たせていこう!”という、前向きな別れの意味合いもあるんです。

実はダブルミーニングなんですよ。

――その楽曲で一気に有名アーティストの仲間入りをしたと思いますが、当時の生活はどんな感じでしたか?

実は、上京準備すら追いついてなかったんです…(苦笑)。デビュー当初は大阪から通っていましたが、どんどん東京にいる比率が高くなっていって、大阪に帰るのがしんどくなってきて。

「春~spring~」が出た頃かなぁ…ぬるっと東京で一人暮らしを始めました。有名な音楽番組にたくさん出ているのに、家に帰れば家電がそろっていないというアンバランスな生活をしていました。

――まさに目まぐるしい毎日だったんですね。Tamaさんというとそのファッションやスタイリングなども注目を集めていましたが、何かこだわりがあったんですか?

メジャーデビュー当初はメイクも自前でスタイリストさんもいなかったんですよね(笑)。「衣装を3パターン用意してください」と言われて、休みの日に大阪の古着屋で自分でコーディネートして買ってました。それを両手に抱えて東京に行ってましたね。

3パターンならまだしも5パターン指定されることもあって『さすがに5パターンは無理!』となり、それも上京した理由の一つかな。

楽曲を大切に思ってくれる人が今もいることが嬉しい

――まさにシンデレラストーリーですが、まだ10代でしたよね? 売れっ子になった時はどんな気持ちだったんですか?

私からするとシンデレラストーリーじゃなくて、急にエレベーターに乗せられた感覚でした。ずっと、ギャップを感じていましたね。

大きなライブハウスでやるよりも、ちっちゃなライブハウスで地道にやって、ちゃんと一歩一歩階段を昇っていきたかった。

でも現実はいきなりエレベーターに乗せられて、1番上の方まで連れて行かれちゃって、状況や環境に気持ちが全然追いついていなかったです。贅沢な悩みですけど…。

――たしかに紅白歌合戦にも出場されてましたもんね! 出場が決定した時はどのようなお気持ちでしたか?

実は、あまりにも忙しくて他の音楽番組のお仕事と同じような感覚でした(笑)。感動してる暇もなかったというような感じで。

紅白が決まった時スタッフが、『うわー! 紅白決まったー!』って、ガッツポーズしてめちゃくちゃ喜んでくれたのでビックリしました。当時19歳だったこともあって『紅白ってそんなすごいん?』みたいな、どこか他人事というか俯瞰して見ていた感じでした。

ただ関西にいるおばあちゃんが、普段は音楽番組なんて見ないのに紅白だけは見ていて、今までは『孫が東京で音楽の仕事してるけど、ようわからん』状態だったのが、私が紅白に出ている姿を見てやっと『孫は音楽の仕事を東京で頑張ってる』と喜んでくれて、家族孝行できたことがすごく嬉しかったです。

――活動歴6年。「春~spring~」や「なぜ…」など多くの名曲を生み大したHysteric Blueですが、Tamaさんにとって楽曲たちはどのような存在ですか?

自分の分身であり…自分の子どもですね。そういうすごい大事な存在。今も私たち以外のたくさんの人が、Hysteric Blueの楽曲を大切に思ってくれていることは、本当に幸せなことだと実感します。
自分の大切なものを他の人が大切に思ってくれるってすごく嬉しいことですよね。

平成の音楽シーンを彩ったバンドHysteric Blue。授業よりも食事よりも、Tamaが大切にした「歌」を聴けるのは一夜限りだ。

後編ではHysteric Blueの復活について彼女の本音を聞いた。 

取材・文/吉沢さりぃ 撮影/矢島泰輔

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