今から半世紀前、とんでもない球を投げる男がいた。大谷翔平よりも佐々木朗希よりも“凄い球“を投げたといわれる怪物江川卓。
覚醒した怪物
どんな人生においてもターニングポイントが必ずある。この瞬間、この場面が大きな分岐点だったと後で気付くものだが、現在進行で生きている者は淡々と時が流れているだけにすぎないのだろう。ほとばしる青春の汗は、そう簡単に立ち止まらせてくれないものだ。
1972年11月4日秋季高校野球関東大会準決勝・作新学院対銚子商業。
この試合に勝てばセンバツ当確という大事な試合。と同時に、江川が怪物として真価を発揮した、江川神話を築いた記念すべき試合でもある。
地元銚子商業が出場ということで、銚子市民が大勢に押し寄せた銚子市営球場。銚子商業が一体どんなゲームを見せてくれるか、観客は息を詰めながら今か今かと心躍らせながら待ちかまえている。
だが、プレイボールがかかった瞬間、観客は一気に凍りつくこととなる。
「ストラーイク、バッターアウト!」「ストラーイク、バッターアウト!」「ストラーイク、バッターアウト!」
黒潮打線と呼ばれる銚子商業が、バッターボックスで簡単にクルクル回っている。
視線の先は、マウンド上にいる男。栃木県代表作新学院ピッチャー江川卓。威風堂々としたマウンド姿。身長182センチが1球1球投げるたびに大きく見えてくる。
銚子商業は常勝を求められたチームである。この秋の関東大会の銚子商業対作新戦は、センバツ代表決定のための試合になるはずだった。なのに、皮肉にも江川卓サクセスストーリーにおいて最も効果的な脇役を完全に演じる舞台となってしまう。
銚子商業の斉藤一之監督は、猛練習こそ技術の鍛錬と精神的修養をするものだと信じてやまない徹底的なスパルタ実戦派。ただ闇雲に根性野球を標榜するのではなく、今で言う先乗りスコアラーを二、三人送り込み対戦相手のデータを分析する。
ゲーム当日は黒板ほどの大きさの模造紙二枚に分析したデータを事細かく書いてベンチに貼る。どこよりもいち早くデータ野球を取り入れたのが斉藤野球であり、その手法はのちに千葉県下の監督たちがどんどん取り入れていくのである。
また、エンドランのサインでも「ランナーのスタートがよかったらバッターは振るな!」と高度なプレーも平気で要求した。勝つためにはやれることは何でもやった。
斉藤監督は、半年前の春季関東大会で初めて江川を見て監督会合の際「江川には勝てねえ!」とつい酒の力で口を滑らせてしまったことがあるが、その時以上だと思った。いや、それとは別次元だ。なす術がない。なんとか声を振り絞って「食らいついて行け!」としか言えなかった。
銚子商業ナイン、それぞれの江川評
真の怪物江川となったこの試合、当時の銚子商業レギュラーナインはどう感じていたのか。
一番ライト 多部田英樹「怖いくらい威圧感があった。軸足を上げる(ヒールアップ)から2メートル近くなったんじゃないか」4打数0安打1三振
二番サード 宮内英雄「俺の打席では4、5割の力で投げてたんでしょうが、それでも、なんじゃこれって球でした」3打数0安打2三振
三番ショート 磯村政治「バッターボックス入ったら異様なオーラを感じましたよ。カーブなんて2階からズドーンとくる感じで。真っすぐも凄いですから。今までやったなかで最高のピッチャーですね。そのままプロ入ってたら即20勝ですよ」3打数0安打 2三振
四番センター 飯野哲也「直球とカーブの見極めが全然できない。
五番キャッチャー 木川博史「フォームがゆっくりしてるのに球が速いから、とにかくバットを短く持ってベースに付いて右方向へと思ったんですが、細工が通じない。スケールの違うボールでした」3打数0安打2三振
六番ファースト 岩井美樹「当時のプロ野球界の誰よりも速かったんじゃないですか!」2打数0安打2三振1四球
七番レフト 青野達也「真っすぐ狙って1、2、3で打ったという感じですね。とにかく江川以上のピッチャーにあったことがありません」3打数1安打2三振
八番セカンド 宮内清「二打席だったんですけど、配球同じなんです。ストレート、ストレート、1球外してカーブ。配球わかってても打てないんですから、もう凄いというしかない」2打数0安打2三振
九番ピッチャー 飯田三夫「真っすぐとカーブしかないけど、今まで見たことがない球がきました。あれだけのボール投げる奴ってもう出て来ないでしょ」2打数0安打2三振
九番ピッチャー 土屋正勝(九回のみ登板)「高校生でこんなのいるのかなと思いました。真っすぐもカーブも速かった。本当に凄かったよ、マンガの世界だもん」1打数0安打1三振
江川の投球内容は、打者29人に対し被安打1、四球1、内野ゴロ3、内野フライ2、外野フライ2、20奪三振。4対0 作新学院の完勝。
二回に二死から岩井(元国際武道大監督)がフォアボールで出塁した時に、完全試合を阻止できたと斉藤監督は胸を撫で下ろした。そしてベンチに戻ってきた岩井に「よく選んだ」と褒めたという。
「ストレートは低めからググッとホップ、カーブは90度に曲がる」
名門がなりふり構っていられない状態だった。毎年全国制覇を狙っているあの銚子商業がファアボールの走者が出ただけで安堵するとは、江川はどんな球を投げていたんだ!?
まぎれもなくこの試合に限って江川卓は、日本一“凄い”球を投げていた。作新の小倉が言う。
「銚子市営球場はよくホームベースからバックスクリーンに向かって海風が吹くんですけど、普通は追い風の時にピッチャーは速くなりますが、江川の場合はスピンがもの凄く利いているため向かい風だとボールが浮き上がってくる感じになるんです。
銚子商業戦の時も向かい風の海風が吹いており、江川の球が低めからググッとホップするんです。カーブはカーブで90度に曲がるくらいブレーキ鋭いし。向かい風だったから20三振もできたんです」
心・技・体、すべてのコンディションがピークに達し、その相手がたまたま銚子商業だった。そんな単純なことではない。センバツをかけた大試合。今まで三回の甲子園をフイにした江川は、是が非でもこのチャンスをものにしなければならない。
自分に言い聞かせなくとも周りを見ればわかる。無言の圧が嫌というほどのしかかってきてる。逃した三回とも不慮のアクシデントやサインミスによるエラーといった“不運”“悲運”というありきたりな言葉で片付けられること自体、癪に触った。
周りからそんな目で見られるのも嫌だったし、負のスパイラルに陥るのだけはなんとしても避けたい。チームとして自力をつけるしか勝ち続けることはできないことを知った。
そして新チームが始動し激変した。貧打の作新のイメージが完全に払拭された。関東の強豪チームと戦った三試合の関東大会にいたっても、チーム打率三割一分七厘、1試合平均得点6.6点、もはや打撃の作新と言ってもはばからない。
江川の投打の負担も減り、バックを信頼して安心して投げられる。そして最後立ちはばかるのが名門銚子商業。すべてお膳立てが揃った。野球の神様が甲子園行きの最後の試練として、また江川が本当に怪物の称号を与えるのに相応しいかどうか、銚子商業をぶつけたのだ。そして江川は真の“怪物”となった。
文/松永多佳倫
怪物 江川卓伝
松永 多佳倫
令和に蘇る怪物・江川卓の真実――。
各時代の対戦相手、ライバル、チームメイトなど100人以上の関係者の証言をもとに、時代に翻弄された天才投手の光と影に彩られた軌跡をたどる評伝。
高校時代から「怪物」と称され、法政大での活躍、そして世紀のドラフト騒動「空白の一日」を経て巨人入り。つねに話題の中心にいて、短くも濃密なキャリアを送った江川卓。その圧倒的なピッチングは、彼自身だけでなく、共に戦った仲間、対峙したライバルたちの人生をも揺さぶった。昭和から令和へと受け継がれる“江川神話”の実像に迫る!
【内容】
はじめに
第一章 高校・大学・アメリカ留学編 1971年~1978年
伝説のはじまり/遠い聖地/怪物覚醒/甲子園デビュー/魂のエース・佃正樹の生涯/不協和音/最強の控え投手/江川からホームランを打った男/雨中の死闘/江川に勝った男/神宮デビュー/理不尽なしごき/黄金時代到来/有終の美/空白の一日
第二章 プロ野球編 1979年~1987年
証言者:新浦壽夫/髙代延博/掛布雅之/遠藤一彦/豊田誠佑/広岡達朗/中尾孝義/小早川毅彦/中畑清/西本聖/江夏豊
おわりに

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