「妊娠した女性の腹がさかれ、中の胎児が見えていた」731部隊最後の証言者、95歳の元少年隊員が語る標本室の悪夢
「妊娠した女性の腹がさかれ、中の胎児が見えていた」731部隊最後の証言者、95歳の元少年隊員が語る標本室の悪夢

第二次世界大戦中、日本が建設した傀儡国家・満州(現在の中国東北部)で人体実験を行ない、そのデータを基に細菌兵器を研究、開発した関東軍防疫給水部(通称731部隊)。 元幹部や隊員のほとんどが鬼籍に入るなか、10代半ばで見習い技術員として送られた「少年隊」の元隊員・清水英男さん(95)=長野県宮田村=が「一度でも多く記憶を話しておきたい」と取材に応じた。

「人間のやることじゃない」――部隊に行ったことを悔やんでも悔やみきれないと、80年経った今も消せない思いを話した。(前後編の前編)

「赤痢菌やコレラ菌、チフス菌も見せられました」

「このごろちょいちょいと、また戦争の夢を見るようになっちゃってね。もうやだー、やだーと思ってる。標本室の『あれ』は夢に見ることがあります」

妻が入院し、一人暮らしをする清水さんは、過去の証言で挙げた細かい数字の一部を思い出せなくなっていたが、証言内容は一貫していた。部隊施設の配置図を広げ、1945年3月に始まった暗い記憶をたどってくれた。

「学校(国民学校高等科) を卒業するを卒業する直前に学校で軍属の『見習い技術員』になってハルビンで働かないかと募集がありました。好きなモノづくりの仕事かと思って応募し、ほかの男子3人、女子2人と一緒に満州へ向かったんです。女子2人は途中、新京(現・長春)で列車を降り、731の関連部隊に配属されたと戦後になって聞きました」(清水さん、以下同)

当時14歳。ハルビン駅で降りた同世代の少年40人超はトラックの荷台に乗せられ近郊の平房にある広い敷地にいた部隊に運ばれた。

「着いた施設には表札はなく、どういうところかはわかりませんでした。 軍人の心得などを10日間ほど教えられた後、私を含め3人が『教育部実習室』に配属されました。白衣を着ろと言われ、衛生関係の仕事をするんだと初めてわかりました。配属先での作業の内容を話すことは禁じられており、同じ隊舎で寝起きしても別の部署の少年兵が何をしていたのかは、わかりません」

実習室での作業は細菌培養の練習だった。

プラチナ製らしい耳かきのような棒でネズミの尻から液を取り寒天に植え付けて培養することを繰り返した。

「基本を教わるので普段は危険のない雑菌を培養しただけですが、弱いペスト菌を扱ったこともあります。赤痢菌やコレラ菌、チフス菌も見せられました」

教育期間が終われば本配属されるはずだったが、その前に敗戦を迎えたため清水さんは兵器開発のための本格的な培養には携わっていない。だが、練習の先に何が行なわれているのかをはっきり知る機会があった。

「どの部屋の壁にも血で書かれた『遺書』らしい文字がありました」

配属され、1、2か月経ったころ実習室とは別の「教育本部」棟の2階にある標本室に1人だけ連れていかれたという。

「病気やペストにかかった人間の臓器がホルマリン漬けにされた標本が並んでいました。“この臓器は感染するとこういう具合に腫れる”という説明がありました。臓器の主の年齢や、『中国人』『ロシア人』という記述もありました」

臓器とはまったく異質の標本もあった。妊娠した女性の腹がさかれ、中の胎児が見えるようにしたものだったという。

顔をしかめながら標本室の記憶を口にする清水さんに、集英社オンラインの記者は、母子の標本の記憶をたぐってもらおうと「その母親の身体は首や手足もある全身だったのですか?」とたずねた。すると清水さんは、口にしたくなかったであろう情景を話し始めた。

「(首や手足は)全部ある場合もありますし、(胴体だけの)部分的なものもあります」

――ということは、標本がいくつもあったのですか?

「ありました。

子どもの“人なり具合(生育状況)”を見るためです。(受精した後、胎児が)何か月後にはこうなるというのが(段階的に)わかる標本になっていました」

――いくつありましたか?

「4つかそこらじゃないかなと思います。(受精後)2か月とか3か月おきに……」

731部隊は生体実験のために収容した人を「マルタ」と呼んだ。清水さんはマルタという存在があり実験材料にされているということは標本室へ行く前からうすうす知っており、それは「戦争犯罪人」だと思っていたと振り返る。標本室へ連れていった指導員は、標本はマルタのものだと説明した記憶があるという。

「これはひどいもんだと思ってました。早く標本室から逃げ出したかったのですが、見た内容を後で説明しろと言われていたので 、逃げ出せば責められたでしょう。

標本室にいたのは2時間もなかったでしょう。行ったのは1度だけです。その後も実習室での作業は続きました。こんなことはやりたくないと思っちゃったけど、どうにもならない。軍隊というとこはね」

その生活は突然終わりを迎えた。

1945年8月8日、ソ連(当時)が日本に宣戦を布告。その夜、上空からソ連機とみられる飛行機が照明弾を落とし、周囲は昼間のように明るくなった。

翌朝から「片付け」が始まった。 実習室では実験器具やネズミを袋に詰め、袋はトラックが運んで行った。

いっぽう少年兵が普段決して近づけない部隊中枢部には、7、8号棟、あるいは「ロ号」「ハ号」と呼ばれたそれぞれ2階建ての獄舎があった。そこに収容されていたとみられるマルタを8月11日と12日に「300くらい全員処置(殺害)した」との別の731部隊員の証言がある。12日に清水さんはその後始末とみられる命令を受けた。

「『骨を拾え』と言われました。7、8号棟前の中庭に穴が掘られ、その縁に骨が散らばっていました。焼いたらしいんですよ。殺した「マルタ」を。

火はもうなく、骨は冷えていました。

白かったです。トラックで川へ捨てに行ったとも言われていますが、私は見ていないのでわかりません」

そして少年兵らは7、8号棟の爆破準備も命じられた。

「6畳ほどに区切られた牢獄に爆薬を運び込んだんです。4人1組で大きな爆薬を持って行ったり、ひとりで小さなものを持って行ったり。何度も行き来しました。

どの部屋の壁にも血で書かれた『遺書』らしい文字がありました。漢字とロシア文字(キリル文字)もあったと思います」

少年兵も運んだ爆薬で2つの獄舎は爆破された。生存者の証言が残るアウシュビッツと違い、「マルタ」はひとりも生き延びることができず、重要な証拠も消された。

(後編へ続く)

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班

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