第二次世界大戦末期の1945年、満州(現在の中国東北部)のハルビンにあった関東軍防疫給水部(通称731部隊)で人体実験の被害者「マルタ」の標本や遺骨を目撃した元少年兵・清水英男さん(95)。彼は部隊の秘密保持のため最優先で日本に帰還することができた。
長らくその経験については語ってこなかったが、同郷の元部隊員が持ち帰った“証拠品”を見て記憶の証言を始める。だが日本政府は731部隊の蛮行を認めておらず、証言したことに対して非難も浴びた。「本当のことを言い残したい」という清水さんの心は今も揺れている。(前後編の後編)
「優遇された帰還」は自決の教唆と部隊活動の隠蔽が目的だった可能性
1945年8月12日、マルタの獄舎の爆破を手伝った清水さんらは、日本で米英中ソなどへの無条件降伏が表明される前日の1945年8月14日夕、脱出用列車に乗り込んだ。その前に清水さんは上官に呼び出され、「捕まったら自殺しろ」と銃と青酸化合物を渡されている。
ソ連軍から逃れ、部隊本拠を放棄すると思った清水さんだが、日本へ向かうとは知らなかったという。
「汽車が新京(現・長春)まで来た時に『日本は負けた』と聞きました。途中で『俺は日本へ帰らない。馬賊になる』と言って降りていった先輩もいました。帰ってもどうなるか分からないと考えたんじゃないですかね」(清水さん、以下同)
汽車は朝鮮半島を縦断し、乗り換えなしで釜山まで着き、そこから船に乗った一行は8月下旬に日本に帰還した。
「秘密部隊だから強制的に(最速で)帰したんだと思います。釜山から船が出た時、ピストルと青酸は海に捨てました」
ハルビン撤収前には急性虫垂炎で身動きが取れない先輩少年兵が“処分”されたとも聞いた。「優遇された帰還」は自決の教唆と表裏一体の、部隊活動の隠蔽が目的だった可能性が高い。
長野県宮田村に帰った清水さんは父の仕事を継いで暮らし、ハルビンでの記憶を70年間、表で語ってこなかった。
731部隊の存在は1980年代には作家の故・森村誠一氏のノンフィクション「悪魔の飽食」のヒットで広く知られるようになったが、「秘密にしろとの命令もあったし、しゃべっても信じる人が少ないんじゃないかなという頭もあった」からだという。
転機は2015年の8月15日、宮田村に近い伊那市で開かれた「平和のための信州・戦争展」。ここに妻と妻のいとこのA子さんとともに訪れたことでやってきた。
A子さんは1945年3月に清水さんと一緒に満州行きの列車に乗った女子生徒で、新京の部隊に配属された過去があった。
戦争展の運営に関わってきた元社会科教師・原英章さん(76)が当時を振り返る。
「長野県では、731部隊で人体解剖の中心となった『技手』として働いた県内出身のBさん(故人)が1991年から証言をしてきました。Bさんはハルビン撤収時に最後まで部隊に残り飛行機で脱出した人で、その時に医療器具や医学書を一部持ち出し、これらが戦争展で展示されていました。
その展示物の前で清水さんが奥さんとA子さんに731部隊のことを説明する声をスタッフが耳にし、『もしかして元部隊員の方ですか?』と声をかけたんです」(原さん)
翌2016年の戦争展から清水さんは証言活動を始める。本人は証言を決意した理由について、「『ぼつぼつ話してもどうだ』とA子さんに言われたから」と言葉少なだ。
ただ「やっぱり本当のことだけは知ってほしいというのが私の願いです」とも話す。
「言わなかったほうがよかったな、と思います」
証言を始めた時から緊張と苦悩の時間が始まった。証言に対してインターネットでは「このジジイ、嘘ついてやがる。か、実在しない人物だな」と誹謗中傷も投げつけられた。
「私は自分がやったことしか話してません」
清水さんは毅然と反論するが「実際にはかなり堪えていた」と原さんは感じたという。
飯田市では2022年5月に市営の「飯田市平和祈念館」がオープンした。その時も731部隊に絡む清水さんらの証言の扱いが問題になった。
市民から戦争に関係する資料の寄贈を募り、祈念館の展示品を準備した平和資料収集委員会が清水さんとBさん含む長野県出身の4人の元731部隊員の証言パネルを作ったが、飯田市教育委員会は展示をしないことを決めたのだ。
平和資料収集委にも関わった原さんは「市教委は本人らに証言パネルを見せ、展示していいか確認まで求めました。この時故人だったBさんの遺族は応じませんでしたが、清水さんを含め当時存命の3人は展示に同意しました。しかしこの作業をしたのに市教委はパネルを今も展示していません。その理由は未だにわかりません」と話す。
この平和祈念館にはBさんが持ち帰った医療器具などは展示されている。
その平和祈念館に証言パネルを展示しなかったことについて飯田市教育委員会は、
「市民から寄贈された約1800点の資料のうち展示しているのはスペースの関係で約120点だけです。このため『寄贈された資料に紐づいた証言』のパネルだけを展示しようと考えました。しかし、この条件に唯一合うBさんの証言はご遺族の同意を得られませんでした。当時存命だった他の3人の証言者にはパネル内容の確認は求めましたが、開館前に様々な作業を同時並行で行なっており、パネル展示を決めた状態ではありませんでした。
731部隊に関する歴史認識や学問的研究は未だその途上にあり、社会的に多様な意見が存在するため慎重な検討が必要であるという認識です。
Bさんが持ち帰った医療器具などは他には類を見ないものだと認識をしており、そういう視点で展示をしています」(担当者)
と説明する。
政府は2003年、731部隊について「外務省、防衛庁等の文書において、細菌戦を行なったことを示す資料は現時点まで確認されていない」と表明。“公的見解”で731部隊の蛮行を認めたのは司法(2002年、「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」で東京地方裁判所・岩田好二裁判長が事実認定)だけだ。
証言パネルを展示しない飯田市の判断にも影響したことがうかがえる政府の態度について清水さんは、「本当のことを言えばお互いに心(のわだかまり)が解けて理解し合い、平和がやっとできるんじゃないかなと思う」と残念がる。
その思いで証言を続け、昨年は大阪の医師団体に誘われて79年ぶりにハルビンを訪れ、被害者の慰霊施設で頭を下げた。
時々「マルタ」の標本が夢に出てきた。中国から帰ってしばらくすると見なくなったが、最近また出てくるようになった。清水さんが描く日中の和解は遠いままだ。取材の最後には弱気な言葉が口をついて出た。
「自分の気持ちとしては(証言をして)謝ってきたつもりですけれども、とんでもねえこと言ったという人もいると思います。言わなかったほうがよかったな、と思います」
戦後80年を迎えた2025年も終わろうとしている。
「本当のことを言い残したい」
そうつぶやいた清水さんの心の中で、忌まわしい戦争の記憶と痛みは今年も消えなかった。
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班

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