「いつまで経っても『3人は3人』」肥後克広が語る、ダチョウ倶楽部40年と“負けの美学”…上島さん、寺門ジモンとの絆
「いつまで経っても『3人は3人』」肥後克広が語る、ダチョウ倶楽部40年と“負けの美学”…上島さん、寺門ジモンとの絆

『聞いてないよぉ』、『押すなよ? 押すなよ?』、『どうぞどうぞ』、『ヤー!』……。誰もが知っていて、知っているのに笑ってしまうネタや芸の数々。

ダチョウ倶楽部は今年、結成40年を迎えている。結成秘話、ブレイク、そしてこれから……。リーダー・肥後克広が語ってくれた。(前後編の後編)

ダチョウ倶楽部の始まり

1985年に結成されたダチョウ倶楽部。今年は結成40年という記念の年だ。

「重み? 感慨? ないです、ないです」

と話すのは、リーダーの肥後克広。

「強いて言うと、よくここまで続けられたなというか……これはもう、これからも続けなきゃいけないなというか。ひとつの財産です。この先、僕がどんなドラマに出ようが、何をしようが、最大のヒット作は『ダチョウ倶楽部』。本当にそういう思いです」

肥後は高校卒業後、芸人を目指して上京するも、デザイン事務所でアルバイトを始め、半年で地元・沖縄にUターン。ブラブラしていた中、『定本 日本の喜劇人』(小林信彦著)を読み、浅草芸人への憧れを膨らませ再上京。

浅草・フランス座でお断りされたのち、杉兵助さんに師事。あるとき、先輩・渡辺正行からの新人コント大会出場の誘いに『やりたいです!』とノリで答えるも、すっかり失念。



その後偶然、新宿・歌舞伎町で出くわした渡辺に大目玉を食らった肥後は、あわててメンバー探し。片っ端から電話をかけまくる中、たまたま電話に出たのが上島竜兵さん(当時25歳)、寺門ジモン(同23歳)、南部虎弾(同34歳、当時の名は寅太、'87年脱退)の3人。肥後は27歳だった。

「ダチョウ倶楽部を結成したのは本当にそんな理由なんですよ(笑)。上島さんとジモンは俳優志望、顔見知りではあったけど仲は別によくなかったですし。1回きりのつもりが、その新人コント大会でウケまして。行き当たりばったりだったのに、気がつけば40年。もし、あのとき歌舞伎町で渡辺正行さんに会ってなかったら、数か月で沖縄に帰っていたんじゃないですかねぇ。不思議ですよね」

しかし、若き日のダチョウ倶楽部は低迷する。光が見えない中、やめようと思ったことはなかったのだろうか。

「なかったです、給料制ですから(笑)。僕自身、売れないことを何とも思ってなかったから。

当時はお笑い養成所もないし、『思い出作り』で芸人っぽいことをしていたという感じで。でも上島さんは『俺、30歳になっちゃったよ。どうしようどうしよう』って悩んでいましたけどね」

当時、『芸人は30歳までに売れないと終わり』というジンクスがあり、上島さんはそれを気にしていたのだという。

「そんなふうに、これといった代表作もないままズルズルやっていたけど、『ものまね王座決定戦』(フジテレビ系)のオファーをプロデューサーからいただいて。ウルトラ3兄弟(レオ・太郎・セブン)が少年隊の『君だけに』を歌う、というネタがウケまして。この番組にはお笑い四天王(コロッケ、ビジーフォー、清水アキラ、栗田貫一)もいましたし、いわゆるモノマネブームだったんです。そこに僕らも便乗していったわけです」

いつまで経っても『3人は3人』

上昇気流をわずかに感じられるようになったころ、出会ったのがビートたけし。呼ばれたのは『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』(日本テレビ系)だった。ダチョウ倶楽部の『聞いてないよぉ』はこの伝説の番組内で誕生し、リアクション芸のルーツとなる。

「ひとつ面白いギャグが見つかると、次に次にとギャグを作らないといけなくなって(笑)。そんな中で出会ったのが志村けんさん。『バカ殿様でコントやらないか?』と声をかけてもらったんです。

振り返るとポイント、ポイントで人に出会って、『こういうのをやろう』『やってみたら?』とアドバイスや方向性みたいなものをいただける。

その度に『やります、やります』って言ってやってみる。……やっぱり運が良かったというか、巡り合わせが良かったというか。だから、自分たちから能動的にやってきたわけじゃないんですよね」

肥後にとって、メンバーの上島さんと寺門はどんな存在だろうか?

「なんだろうね。家族以上の家族だし、職場の人間だし、親友だし。兄弟のような、夫婦のような、親子のような……もう、よくわからんですよね、運命共同体というか、三位一体というか、そんな感じですよね。いつまで経っても『3人は3人』って感じですかね」

これからのダチョウ倶楽部の未来を、肥後はどう見据えているのか尋ねてみた。

「ダチョウ倶楽部としては現状維持。もうそれしかないですね。ダチョウ倶楽部は『これが完成形』みたいな部分があるから。仕方ないですよね、もう固まっちゃって、こびりついて取れなくなっちゃったから(笑)。これを維持し、ずっと続けていく。

今、そこにキンタロー。

アンミカ、野呂(佳代)とか、いろんな方が入って、やってくださる。逆に新しいことをやると、ちょっとみんなの期待を裏切ると思うから。ずっとこの『ダチョウ倶楽部味』で。毎日は食べたくはないけど、半年に1回食べたくなる……みたいな、そんな存在がいい」

さらに肥後は、正月の餅つき同様に『縁起物』とも喩えた。

大竹まことさんも言ってましたもん。『ダチョウ倶楽部は“面白い面白くない”とか“新しい古い”じゃなくて、その向こう側に行ってるよな』って。ダチョウ倶楽部は、やっぱり最高傑作です。思い出作りのつもりが、こんなことになるとは思わなかった。自分も、ダチョウ倶楽部をちょっと俯瞰で見ると『こいつらすげえな』『こいつらバカだな』『こいつらダメだ』が入り混じる。そんな感じです」

「お尻を出したい(笑)」

肥後は8月に上梓した『頼る力』(小学館)でも、ダチョウ倶楽部の『負けの美学』について触れている。

「やっぱりダチョウ倶楽部は『負ける』という芸風なので。目の前の勝負で負けようとも、先を見ていくと、その負けは別に何ともないっていう価値観ですかね。

目の前の勝敗にこだわらず、負けるなら綺麗に負けて、その周りの方にフォローされて、また違う展開が生まれていく。変なプライドを捨てて、綺麗に負けておけば、傷つかないし、すぐに立ち直れるし、次に進める。そんな感じですかね」

現在62歳の肥後は日々、積極的に後輩に『どうすればいい?』と助けやアドバイスを求めているという。

「年齢を重ねたこともあるけど、コンプライアンスという言葉が聞かれるようになったころから、こういうスタンスですね。現代の感覚を教えてもらわないでいると、後々大ケガするの自分。やっぱり世の中が変わってきましたから。今や漫才でも、叩くツッコミは激減しましたよね」

昭和の『何でもあり!』のお笑い界をかいくぐってきた肥後だけに、昨今のコンプラありき、炎上しないことが正義とされる笑いについて、寂しさや窮屈さを感じることはないのだろうか?

「昔はそう思っていました。だけど、ここまで時代が進んでくると、もう寂しさとかのレベルじゃない。メンバーを『パチン』と叩くと、お客さんがドン引きしたりする。世の中がそう思うなら、それに合わせてやっていかないと笑いは成立しませんから。

コンプラもルッキズムも、TPOがあるのであれば、演者もディレクターもそれを探り探りやっていくのは当然で。もちろん、萎縮しすぎるのはいかがなものか、という部分はありますけどね。
昔はウケなかったら、とりあえず全裸になるっていう必殺技がありましたけど、もう使えませんから(笑)」

最後に、肥後の夢を聞いてみた。

「大した賞じゃなくていいんですが、何かしらの賞を取ってみたいですね。あとはもう1回だけ、どこか大きな会場で熱湯風呂をやってお尻を出したい(笑)。『熱ーい!』って湯船から出ようとしたところを、引きずってたらお尻が出ちゃうっていうパターン。みんなに笑ってもらえるといいな」

その生尻の夢が叶ったとき、きっと天国の上島さんはニヤニヤしているだろう――。

取材・文/池谷百合子 撮影/佐藤靖彦

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