多数決が民主主義の本質ではないならば、その社会の法や権力の正当性の根拠はどこに存在するのか? 近代民主主義を「本質観取」する
多数決が民主主義の本質ではないならば、その社会の法や権力の正当性の根拠はどこに存在するのか? 近代民主主義を「本質観取」する

「本質観取」とは、その名のとおり、物事の本質を見極めるための、哲学2500年の歴史がつまった思考と対話の方法だ。さまざまな概念や事柄の本質を、参加者は対話を通して言葉に編み上げ合うことで、相互承認の感度を育み、共通了解を見出すコツをつかんでいくことができる。

いまこうした「本質観取」のワークショップが全国の小中学校でも広がりつつあるという。

本記事では書籍『本質観取の教科書』より一部を抜粋・再構成し、哲学者の苫野一徳(とまの いっとく)氏らが、民主主義の本質とは何かを考察する。

本質観取が描く未来

哲学の醍醐味は、実際に自分の頭で本質観取※をやってみることにこそあります。

※本質観取=物事の本質を見極めるための思考と対話の方法。さまざまな概念や事柄の本質を、参加者は対話を通して言葉に編み上げ合うことで、相互承認の感度を育み、共通了解を見出すコツをつかんでいくことができる。

さまざまな物事の本質を、根本から問い直すこと。互いの差異を〝相互承認〞しつつ、みんなが納得しうる〝共通了解〞を目指して対話すること。哲学をそうした営みとして捉えるなら、幼児から大人まで、誰だって哲学することができます。

現在、全国に少しずつ広がっている本質観取ですが、その輪がさらに広がっていけば、きっとこんな未来が待っているに違いない。

そんなことを、以下では論じたいと思います。

第一に、これからの民主主義社会の成熟に、じわりじわりと、しかし確実に寄与するに違いないということ。

第二に、同じことの延長ではありますが、これからの共生社会の実現に、もっと言えば世界平和の実現にさえ、きっとつながるだろうということ。

近代民主主義の本質とは何か

まず、そもそも近代民主主義とは何か、ということから論じたいと思います。

まさに民主主義の本質観取です。

民主主義の本質を言葉にすることができますか、と問われて、端的に答えられる人はそれほど多くないのではないかと思います。選挙で選ばれた人たちによる政治、多数決、基本的人権、国民主権、政治参加、寛容の精神……さまざまな言葉が思い浮かぶかと思いますが、これらはすべて、とどのつまりは何を意味しているのでしょうか。

近代民主主義の本質は、哲学的には次の二つの原理で言い表すことができます。

一つは「自由の相互承認」の原理。もう一つは「一般意志」の原理です。

前者は、19世紀の哲学者、G・W・F・ヘーゲルが提示した原理(ただしヘーゲルの言葉は「相互承認」で、これを哲学者の竹田青嗣が「自由の相互承認」と呼び直しました)、後者は、18世紀の哲学者、ジャン=ジャック・ルソーが提示した原理です。

「自由の相互承認」とは何か?

その答えはとてもシンプルです。

誰もが対等に自由な存在であることを、互いに認め合うこと。民主主義社会とは、このことを根本ルールとした社会にほかなりません。

近代民主主義社会においては、誰もが「自由」であることが承認されています。そしてそれが、憲法によって保障されています。

生き方の自由、幸福追求の自由、思想・良心の自由、信教の自由、表現の自由、職業選択の自由……。

他者の自由を侵害しない限り、私たちは、どのように生きても、何をしても、何を考えても自由であるということが、国の最上位のルールとして保障されているのです。

そこに特権者はいません。憲法は、言うまでもなく国民から国家権力に宛てられた命令です。いかなる権力者も、国民の自由を奪ってはならないことを規定しているのが憲法なのです。

人類の歴史を振り返ってみると、これはほとんど奇跡とさえ言っていいことです。有史以来、人類はそのほとんどを、絶えることのない命の奪い合いか、一部の者たちが大多数の人びとを支配する社会の中で生きてきました。

もっと言えば、人類はごく最近まで、宗教が違えば殺してかまわない、人種が違えば奴隷にしてかまわない、身分が違えば殺したってかまわないなどと、本気で考えていました。誰もが同じ人間であるという感覚なんて、ほとんど誰も持っていなかったのです。

それが、いまでは誰もが、みんな同じ人間であるという感度を多かれ少なかれ持っています。ルソーらが近代民主主義の理論を打ち立ててからわずか2~3世紀の間に、人類は、かつてとはほとんど別の生き物になったと言っていいくらいの精神の大革命を経験してきたのです。

それはまさに、哲学者たちが民主主義の理論を磨き上げ、そしてそれが少しずつ実現してきたからにほかなりません。

なぜ多数決は民主主義の本質ではないのか

民主主義のもう一つの本質が「一般意志」の原理です。

「一般意志」とは何か?

簡単に言えば、「みんなの意志を持ち寄って見出し合った、みんなの利益になる合意」のことです。

ここで重要なのは、民主主義社会における法や権力の「正当性」の根拠は、この一般意志にしかないということです。

一般意志は、法や権力の「正当性」の原理である。これが、一般意志を理解する上での最も重要なポイントです。

一般意志の対概念を「特殊意志」と言います。権力者や大金持ちなど、一部の人たちの意志のことです。

民主主義社会では、このような一部の人たちだけの意志がまかり通るようなことがあってはなりません。あくまでも「みんなの意志を持ち寄って見出し合った、みんなの利益になる合意」をこそ目指し続けなければならないのです。

そんなの無理でしょ、と思われたかもしれません。でも、この合意を目指すこと以外に、法や権力の「正当性」はありうるでしょうか。特殊意志による支配を望まないのであれば、私たちは、いかに一般意志を見出し続けることができるかを考えるほかありません。

その意味で、民主主義は絶えざる合意形成のプロセスなのです。

したがって、民主主義社会において重要なことは、安易に多数決で意志決定を行うのではなく、たとえばA案とB案が対立したとしたら、議論を重ねて妥協案を見出したり、もっとよいC案やD案を考え合ったりしていくことにあります。そうやって、できるだけ「みんなの利益になる合意」を見出していくのです。

多数決は民主主義の本質ではありません。その本質的な理由は、まさにここにあります。

多数決は、どうしても少数者を排除してしまう意志決定の方法です。場合によっては「多数者の専制」にも陥ってしまいかねません。その意味で、多数決は断じて民主主義の本質ではありません。民主主義社会における、あくまでも意志決定の一つの手段にすぎないのです。

もちろん、選挙にしても国会での議決にしても、最後は多数決で決めなければならない場合は多々あります。でもそれは、「これこれこの場合は多数決で決定する」ということが事前に合意されているということなのです。少なくとも、そのような想定のもとに、選挙や議会では多数決が使われているのです。



改めて、民主主義の本質は、「自由の相互承認」に基づき「一般意志」を見出し合っていくことにこそあります。まさに「対話を通した合意形成」こそが、民主主義の根幹にあるのです。

これまで繰り返し、本質観取は相互承認と共通了解を目指す対話である、と述べてきました。これはまさに、「自由の相互承認」と「一般意志」を目指す対話であるということです。

本質観取とは、いわば民主主義の営みそのものなのです。その経験を積むことができたなら、私たちは、いまの民主主義社会をきっとさらに成熟させていくことができるに違いありません。

本質観取の教科書 みんなの納得を生み出す対話

苫野 一徳、岩内 章太郎、稲垣 みどり
多数決が民主主義の本質ではないならば、その社会の法や権力の正当性の根拠はどこに存在するのか? 近代民主主義を「本質観取」する
本質観取の教科書 みんなの納得を生み出す対話
2025年11月17日1,056円(税込)新書判/256ページISBN: 978-4-08-721389-8

自分とは異なる立場や考えの人と、いかに対話し、合意形成していけばよいのか分からない。
それどころか、深刻な信念対立を目の当たりにし、対話への希望を失ってしまう。そんな人は多いのではないだろうか。
本書は、「本質観取」と呼ばれる哲学の思考法・対話法を、誰もが実践できるようになるための入門書である。
分断をのりこえ、民主主義を成熟させるための対話の極意とは?
実践で活用できるワークシートや、ファシリテーションのコツなども収録。

社会学者 橋爪大三郎氏
とにかくわかりやすくて面白い。

実例が豊富なので、
本質観取の哲学対話が、これで誰でもすぐできる。

独立研究者・著作家 山口周氏
対話を通じて、多様な他者と相互承認・共通了解へと至る「本質観取」の方法は、
多数の関係者を束ねるビジネスリーダーにこそ求められます。

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