「会議でいくら建設的な議論を積み重ねても、鶴の一声ですべてが決まる…」権力者の論理が優先される現代社会に対抗しうる「対話」の重要性とは
「会議でいくら建設的な議論を積み重ねても、鶴の一声ですべてが決まる…」権力者の論理が優先される現代社会に対抗しうる「対話」の重要性とは

複数人が集まって物事を決めるとき、その手段は話し合い、じゃんけん、くじ引き……などさまざまな方法がありうる。

だが、それらは突き詰めると「力による決定」か「言葉による合意」に集約される。
そして、実際には多数の場面で「権力側の論理」が入り込んでいる……。そのように語るのは、哲学者の苫野一徳(とまの いっとく)氏らだ。


本記事では書籍『本質観取の教科書』より一部を抜粋・再構成し、いかに「言葉による合意」を目指すことが難しいか、

そして権力者の論理が優先されがちな現代社会において、なぜ「対話」が重要なのかを考察する。

意志決定の手段は2パターンしかない

改めてはっきりさせておきたいことがあります。

真の多様性は、じつは普遍性によってこそ支えられる、ということです。

共通了解、合意、普遍性といった言葉に、違和感を覚える人もいるかもしれません。これらは、マジョリティや権力の側にとって都合のよい概念で、そこでつくられた共通了解など、結局のところ、マイノリティや声をあげられない人びとの声を黙殺したものなのではないか。そう思われた人もいるかもしれません。

とても重要な問題意識です。

そこでこのことについて、二つのことを述べたいと思います。

一つは、複数の人の意志決定について。もう一つは、コミュニケーション(対話)に潜む暴力性についてです。

まずは意志決定について考えてみましょう。



複数の人が集まって何かを決めようとする時、その決定手段にはどんなものがあるでしょうか。友人たちとの昼食、学校や会社でのミーティング、地域の自治会など、身近な例を思い浮かべてみてください。

話し合い、じゃんけん、くじ引き、かけひき、AIによる提案……。色々な方法が思いつくかと思います。

でも、つきつめれば、その決定手段は「力」か「言葉」か、です。より正確に言えば、「力による決定」か「言葉による合意」か、です。

もちろん、「力」寄りの「言葉」もあれば、「言葉」寄りの「力」もあります。このことについては後述します。

「力」を選択する場合、私たちは、暴力、権力、お金、地位などを利用して、相手を屈服させようとします。殴る、買収する、脅す……。つまり、戦いによって決着をつける。これが力による決定です。

「同意しなければ、どうなるか分かっているな」

他方、「言葉」を選ぶなら、本質観取がそうであるように、私たちは、暴力、権力、お金、地位などを持ち込まず、みんなで対話を通して決めていくことになります。

じゃんけんやくじ引きはどうなのか? これについては、じゃんけんやくじ引きで決めるということを、私たちはどのように決めるのかと考えてみるとよいでしょう。それも結局、「力による決定」か、「言葉による合意」かに行き着くはずです。

複数の人が何かを決めようとする時、これを哲学的につきつめるなら、「力」か「言葉」がその手段になる。この自覚は重要です。というのも、言葉による合意をあきらめるなら、あっという間に力による決着へと傾いてしまうことを、意識できるようになるからです。ひとたび対話をやめてしまえば、力がものを言う社会になってしまうのです。

もしそれを望まないなら、私たちは対話を重ねるほかありません。

でも、その対話のコミュニケーションそのものに暴力が入りこんでいたとしたら、どうでしょう。

先述した、「力」寄りの「言葉」、あるいは「言葉」寄りの「力」です。いわば「力」と「言葉」が混ざった状態です。

たとえば、学校や会社の会議で、言葉の裏に隠された権力を経験したことのある人も多いでしょう。形式上は民主的な手続きを装ってはいるが、そのじつ、権力関係によって一切が事前に決められている。



「あなたは同意しますか」と口では言いながら、「同意しなければ、どうなるか分かっているな」と、実際は脅迫されているような場面です。

このような場合、どれだけコミュニケーションを重ねて合意を形成しても、それは権力者の意のままの決定にすぎません。すると、人びとは言葉への不信感を募らせ、合意と呼ばれているものが、結局は力の側に与しているという認識を強めてしまうことになるでしょう。

共通了解とか合意とか普遍性とかいった言葉に多くの人が疑念を抱くのは、おそらくこのような現実社会の事情があります。

どうすれば「力による支配や決定」から逃れられるか

しかし、ではこのような権力性や暴力性を克服するにはどうすればよいかと改めて問うた時、私たちは、相互承認と共通了解の原則、その普遍性に対する合意を得る以外に、はたして手を持っているでしょうか?

こちらも力をつけて、相手の言い分をねじ伏せることも可能かもしれません。でもそれだと、結局いつまでも力と力の戦いが繰り返されるだけです。

もし力による支配や決定を望まないなら、その限りにおいて、私たちはよりよい対話の場をつくり出していくほかありません。それはつまり、相互承認と共通了解を原則とした対話の場を、政治にも、経済にも、教育にも、市民生活のあらゆる場面につくり出していくことです。

何を甘っちょろいことを、と思われるかもしれません。でも、どれだけ迂遠に思われたとしても、暴力を縮減するには対話の場をつくり出す以外にないのです。

哲学対話は、いわばその練習の機会でもあります。

現実世界では、相互承認と共通了解を原則とした対話など、そう簡単に実現するものではありません。

でもだからこそ哲学対話の場の意義は、かえって際立ってくるはずです。

少なくともこの場では、互いを対等な対話者として尊重し、共通了解をつくり合うことができる。その経験は、現実世界における暴力の横行に立ち向かう力と勇気を、私たちに与えてくれるはずです。

真の多様性は、普遍性によってこそ支えられる、と書きました。ここまでで、そのことの意味をご理解いただけたのではないかと思います。

人類が共存するためには、結局のところ、本質観取の二大原理である相互承認と共通了解を、まさに普遍的なものとして共有するほかないはずです。

共に生きる対等な仲間として、互いを認め合うという相互承認の原理。この原理の〝普遍性〞が共有されなければ、一人ひとりの多様性が尊重されることはありません。また、対話を通して共通了解をめがけていくことの重要性が普遍的に共有されなければ、やはり私たちは「力による支配」を繰り返すほかなくなってしまいます。

別言すれば、多様性、多様性とただ言っているだけでは、結局、それぞれの多様性どうしの力と力の戦いを招来してしまいかねないということです。

真の多様性は、〝普遍性〞によってこそ支えられる。つまり、多様性を尊重し合うためにこそ、私たちは、相互承認の原理と共通了解の原理の〝普遍性〞を、認め合う必要があるのです。

だから、この二つの原理を組み込んだ本質観取は、多様性を尊重することを旨とする民主主義と共生社会のこれからにとって、とても大きな意義を持っている。そう、改めて言いたいと思います。

何のために本質観取を行うのか

本質観取は、フッサールという哲学者が、それまでの哲学者たちの思考のリレーを受けて、生涯をかけて考え抜いた思考の原理です。

何のために本質観取を行うのか?

それは、価値観も、考え方も、文化も、宗教も異なる多様な人たちが、それでもなお、暴力によってではなく、対話によって共に生きていくためです。

本質観取は、哲学のまさに本質です。私たち人類が、共に〝よりよく生きる〞ための思考と対話のアート(技芸)、それが本質観取なのです。

まずは、やってみましょう。さまざまな現場で、すでに本質観取の輪が広がりつつあります。

本記事がそのさらなる展開の一助になるなら、これほど嬉しいことはありません。

本質観取の教科書 みんなの納得を生み出す対話

苫野 一徳、岩内 章太郎、稲垣 みどり
「会議でいくら建設的な議論を積み重ねても、鶴の一声ですべてが決まる…」権力者の論理が優先される現代社会に対抗しうる「対話」の重要性とは
本質観取の教科書 みんなの納得を生み出す対話
2025年11月17日1,056円(税込)新書判/256ページISBN: 978-4-08-721389-8

自分とは異なる立場や考えの人と、いかに対話し、合意形成していけばよいのか分からない。
それどころか、深刻な信念対立を目の当たりにし、対話への希望を失ってしまう。そんな人は多いのではないだろうか。


本書は、「本質観取」と呼ばれる哲学の思考法・対話法を、誰もが実践できるようになるための入門書である。
分断をのりこえ、民主主義を成熟させるための対話の極意とは?
実践で活用できるワークシートや、ファシリテーションのコツなども収録。

社会学者 橋爪大三郎氏
とにかくわかりやすくて面白い。実例が豊富なので、
本質観取の哲学対話が、これで誰でもすぐできる。

独立研究者・著作家 山口周氏
対話を通じて、多様な他者と相互承認・共通了解へと至る「本質観取」の方法は、
多数の関係者を束ねるビジネスリーダーにこそ求められます。

編集部おすすめ