「風邪ですね」で見過ごされた危険信号──26歳で希少疾患・慢性活動性EBウイルス感染症と闘った拓也さん、母に語った最後の言葉
「風邪ですね」で見過ごされた危険信号──26歳で希少疾患・慢性活動性EBウイルス感染症と闘った拓也さん、母に語った最後の言葉

2025年8月31日、「慢性活動性EBウイルス感染症」という希少疾患に起因する合併症のため、その生涯を閉じた男性がいる。関拓也さん、享年30だ。

彼が侵されたウイルスは決して珍しいものではなく、日本人の9割以上が抗体を獲得しているとされるものだった。拓也さんが生きた証として、「一般に知られていないこの病気を世の中に伝えたい」と母親は話す。拓也さんの軌跡を辿った。

「治療をしなければ、余命は3年ほどです」

拓也さんは茨城県に生まれた。両親と、弟がひとり。闘病中、「小さいときは家族旅行とかいろんなイベントがあって、今思い出しても楽しかったよ」と振り返るほど、温かい家庭で育った。

穏やかで友だちも多く、年上の人間関係にも臆せず入っていく社交性がある青年だったと母親は目を細める。だがひとつだけ気がかりなことがあった。

「幼い頃から明らかに身体が弱いとは感じていました。たとえば、兄弟で同時に発熱しても、弟は案外けろっとしているのに、拓也はぐったりしてしまうんです。学生時代からすぐに高熱が出る体質でした」(拓也さんの母、以下同)

社会人になってからも体調を崩しがちだった。40度の熱を出して早退、という日もしばしばあった。かかりつけの病院では扁桃腺の腫れを指摘されており、本人も家族もそれ以上は疑わずすごした。

26歳になったころ、40度の熱が数日おきに出た。さすがに異常を感じたが、地元の病院は「風邪ですね」を繰り返す。だが、たまたま出会ったひとりの医師が拓也さんの症状を疑った。その医師のおかげで、EBウイルス感染症の研究者である新井文子教授(聖マリアンナ医科大学)に繋がった。確定診断には半年あまりを要した。

「2022年の年末には、拓也本人には病名が告げられていたようですが、拓也はなかなか言いませんでした。私たちが新井先生のお話を聞けたのは、2023年1月になってからでした。『治療をしなければ、余命は3年ほどです』と告げられ、気持ちのやり場が見つかりませんでした」

慢性活動性EBウイルス感染症は、免疫機能にかかわる重篤な病気だ。通常はB細胞に感染するはずのEBウイルスがT細胞やNK細胞に感染し、異常増殖することで、発熱やリンパ節腫脹、肝脾腫などの症状を引き起こす。

だがこのウイルスは決して珍しいものではない。むしろ、日本人の9割以上が抗体を獲得しているとされる、極めて凡庸なウイルスだ。それが、取り返しのつかない暴走をする。



加えて日本においては、多くても年間10~20名ほどしか発症しない、非常に希少な疾患だ【https://www.shouman.jp/disease/details/10_09_053/】。医療者における認知度でさえ低く、拓也さんの場合も、血液検査のたびに肝機能の数値が高いことが指摘されていたが、長い間、原因不明とされた。
 
慢性活動性EBウイルス感染症の治療は、現在、移植一択となる。移植前のハードルも多い。拓也さんの場合、投薬によってEBウイルスが検出されなくなるまで叩くことが目標とされた。

また、肝機能を正常値にすることも必須だ。早速、2023年1月からの入院で治療が開始された。さらに3月からは抗がん剤の投与を行い、4月から移植というステップに進んだ。病気そのものはがんと異なるが、治療は血液がんと同様だ。

「ドナーは若い男性が望ましいので、次男(拓也さんの弟)が選ばれました。拓也は移植の前処置によって免疫力が低下しているため、無菌室に移動していて、4月27日に弟の末梢血幹細胞を移植しました。拓也の身体のなかで新たな血液が作られるようにするためです」

1週間の外泊で起きた悲劇

移植を終えた拓也さんは、副反応に苦しんだ。

「移植から戻った拓也は、39度の熱を出し、ガタガタ震えていました。

吐き気と倦怠感もありました。移植当日をday0としてカウントしていくのですが、直後はほぼ何も口にできないほど衰弱していて、day10くらいにようやく少し固形のものが食べられました。

day6までは39度の発熱もあり、その後も蕁麻疹や鼻血、倦怠感はありました。血液の数値を3日ごとに確認して、白血球や好中球が上がってくることを拓也も私も祈るような気持ちでいました」

EBウイルスを摩滅するために投薬が行われているが、同時に拓也さんの血球も破壊される。根絶された血球が移植後に回復してくれば、弟の細胞が拓也さんに根づいたことになる。

だがついにその兆しはなく、5月末に行なった骨髄検査で、生着不全がわかった。拓也さんの身体が弟の細胞を拒否してしまったのだ。

「やるしかないっしょ」。それでも拓也さんは前を向いた。ドナーを父親に切り替え、今度は無事に生着。「お医者さんも看護師さんも喜んでくれて、私自身も涙が止まりませんでした」と母親は振り返る。

とはいえ拓也さんの身体はまだ感染症に耐えられない。
退院するまでの間、自宅では拓也さんを迎える準備が整えられた。

「カビは大敵です。寝具などをすべて取り替え、空調の掃除も入念に行いました。『神経質すぎるのではないか』と思えるほど、除菌を徹底しました」

2023年末、父親からの移植もday185を迎え、病院で検査をしたとき、医師からうれしい言葉があった。「感染症に耐えられるだけの免疫力が育っています」。ウイルス抑制のためにしていた投薬量も、減らしていく方針が示された。同時に、医師は「まだ慎重に行動してください」と釘を差した。

だが、危惧されていた出来事が起きてしまう。2024年5月1日、拓也さんは外泊先から救急で搬送された。外泊期間は1週間、相手は交際相手だった。家族の誰にも告げない外泊だった。

「ある日、自宅から、1週間分の薬とともに拓也がいなくなっていました。

その後、外泊先で体調を崩し、地元の病院に運ばれたようです。そこから、聖マリアンナ医科大学病院に3時間かけて搬送されました。拓也の身体は肺炎におかされていて、医師から『あと1日遅かったら危なかった』と告げられました」

快復の兆しが見えてきたタイミングでの肺炎に、家族は揺れた。呼吸の苦しいなかで、拓也さんは「必ず肺炎を治す」と約束したという。

一命は取り留めたが、この日を境に体調は下り坂に転じる。同じ年の11月には悪寒と発熱を訴えて夜間救急を受診。その後、自室で意識を失っているところを父親に発見された。細菌性肺炎との診断。通常は95以上を示す酸素飽和度も、90未満と厳しい数値に落ち込んだ。

医師が突き付けた“最期”

このころから、血球の数値が上がらなくなってきた。「どうしても、外泊のあとの肺炎さえなければ、と思ってしまうんです」と母親は俯いた。時間軸が前後するが、2024年10月に母親は20年間勤めてきた会社を辞めた。「拓也のそばにいたい」。

それは親としてできる精一杯だった。

だが翌2025年4月にふたたび肺炎がぶり返すと、人工呼吸器をつけなければならないところまで状態が下がった。看護師から「人工呼吸器を取り付けるまで、もう10分くらいはお話ができますから、話してください」と言われ、母親は拓也さんの手を握った。

このとき「頑張って治療するから」と意欲を見せる息子の姿が脳裏に焼き付いているという。肺炎になって以来、拓也さんが心に誓った「絶対治す」は少しも揺らいでいなかった。

一方で、2025年5月、母親には忘れられない光景がある。

「ちょっとしたアザも膿んだようになってしまって、『こんなに回復できない身体になっているんだ』と胸騒ぎがしました。痰にも血液が混ざり、拓也の身体が悲鳴をあげているのが目に見えてわかりました」

その後も拓也さんの状態は落ち込んでは持ち直し、だが確実に限界を迎えていた。8月24日、自力でトイレに行こうとした拓也さんは転倒し、さらに肺炎が悪化。

翌日、医師から“最期”についての提案があった。母親は人工呼吸によって肺を休ませることで、回復の見込みがあるのではないかと提案したが、医師からは緩和ケアを勧められた。

「できる治療はすべてやりました」。医師の言葉を聞き、突きつけられた未来と現実に、これまで母親の前では泣くことのなかった拓也さんが声を上げて泣いた。

「拓也は最後の最後まで、治療を決して諦めませんでした。『絶対に治す』と約束したからです。そして私に、『もう人工呼吸はしないよ、ごめんね……』と泣きながら繰り返したんです」

緩和ケアに切り替えると、拓也さんは眠る時間が長くなった。友人を病室に入れることが許可されたが、予想以上に訪れる人数が多く、途中で親族のみと制限された。

拓也さんが残したメッセージ

8月31日、拓也さんは深い眠りについた。

「拓也が病気になって、神様なんていないと思いました。けれども、拓也が絶望的な気持ちですごす時間が短かったこと、そして最期に親族や友人に会えたことは、神様がくれたご褒美だったのかもしれません。それでも、悲しいです」

拓也さんの死後、仲のいい友人や先輩たちが彼を偲んで自宅にやってきた。母親が記した闘病記を読み、「こんなに苦しいときに、何でもないように『お誕生日おめでとう』ってLINEをくれていたんだ」と驚く友人もいた。

何人もの看護師から「これほど『ありがとう』を言ってくれる患者さんも珍しいです。ご自身がつらいのに、いらだつ気配もなく、いつも穏やかでした」と聞いた。異口同音に発せられる、拓也さんの根っこの優しさ。母親にも、思い当たる節がある。

「亡くなったあとに拓也からのメッセージが見つかりました。私、主人、次男のそれぞれに宛てたものです。主人と次男の両方に、『お母さんをよろしく』とありました。死と隣り合わせの状況で、私を心配してくれていたんですね」

拓也さんの生き様を通して、母親として伝えたいことがある。

「慢性活動性EBウイルス感染症という病気がどのようなものか、知る人が増えてほしいんです。そして、ひとりでも多くの患者さんが適切な医療につながることができ、治療法について研究する人が増えてほしいと考えています」

闘病中、拓也さんは言った。「病気が治ったら、結婚式でお母さんにサプライズをするからね」。そのうれしい企みが何か、母親はついぞ知ることはできなかった。

希少疾患に苦しむ人が少なくなりますように――拓也さんも願ったであろうその思いを、今度は母親が引き継ぐ。待ち望んだ社会を少しでも早く引き寄せて、拓也さんへの逆サプライズになる日を目指して。

取材・文/黒島暁生 写真/拓也さんの母提供

 

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