不妊治療専門の「にしたんARTクリニック」は、2022年の開業からわずか3年で全国で12院を展開し、国内最大規模の専門院へと成長した。働く女性に寄り添い、平日夜間や土日の診療、駅直結の立地など、仕事と治療を両立できる環境づくりに力を入れている。
運営は「イモトのWiFi」「にしたんクリニック」などで知られるエクスコムグローバル株式会社だ。通信事業を手がけてきた同社が、なぜいま不妊治療に挑むのか。代表取締役社長の西村誠司さんに、開業の背景と日本の不妊治療が抱える課題、そして今後の展望を聞いた。
不妊治療と仕事、どちらかを諦めるしかない現実
──不妊治療専門クリニックを立ち上げたきっかけを教えてください。
西村誠司社長(以下同) 2015年に第三子となる長女を授かりましたが、当時すでに夫婦ともに40歳を超えており、自然妊娠は難しい状況でした。年齢によるリスクも考慮し、アメリカで体外受精の着床前診断を受けることに。結果として12個の受精卵のうち正常と判断されたのは1個だけ。検査をしていなければ、娘を授かれなかったかもしれません。
また、私の弟は日本で不妊治療を受けていましたが、同じ検査を受けられず、子どもを授かることは叶いませんでした。
自分が治療を受けられた喜びと、弟の無念。その両方を胸に、アメリカまで行かなくても先進医療を受けられるクリニックをつくりたいと強く思いました。2021年6月にアメリカから帰国し、1年の準備期間を経て、2022年6月に1号院・新宿院をオープンしました。
──そもそも日本の不妊治療にはどのような課題があるのでしょうか?
着床前診断は、近年少しずつ条件が緩和され、流産や不妊を繰り返す方など、一定の医学的要件を満たす場合には実施できるようになりました。
ただ2022年の開業当初に強く感じたのは、女性の社会進出が進む一方で、妊娠・出産を経て職場に戻るための社会の体制が整っていないことでした。
そもそも多くのクリニックは夕方には診療を終え、遅くても19時まで。フルタイムで働く女性にとって通院は困難で、結果的に仕事と治療のどちらかを諦めざるを得ないケースも多い。
さらに、会社に休む理由を伝えることがストレスになる人も少なくありません。誰も責めていなくても、「また休むのかと思われているのでは?」と自分を追い込んでしまう。こうした心理的負担も、不妊治療に悪影響を及ぼします。
受診時間「19時まで」はただの慣習。診療時間の法規制はない
──不妊治療は排卵やホルモン状態を細かく確認する必要などもあり、通院回数も多くなりやすいもの。仕事との両立が難しい中で、どんな工夫をしていますか。
通いにくさから治療を中断するケースを減らすため、雨の日でも通いやすい駅直結・駅近の立地を選びました。
診療時間は22時までに拡大し、平日だけでなく土日も診療を実施。
──こうした体制を実現できた理由は?
ひとつは別事業で培ってきた資金力です。立地や最新設備には積極的に投資しており、これまで全国12院の立ち上げに累計約100億円を投じてきました。もうひとつは「患者さまファースト」という一貫した理念。患者さまにとってベストな形を突き詰めれば、22時まで診療するのは当院としては当然の判断なのです。
──多くのクリニックが早めに診療を終えるのは、規制などがあるからでしょうか?
私もビックリしたのですが、実はまったくそうではないのです。慣習的にその時間で終えるクリニックが多いだけで、あとは「遅くまで働きたくない」という意識も影響していると思います。
医療の現場には、まだまだ患者目線の発想が欠けているのが現実です。ある関係者が「うちは患者さんが何時間待っても受けたいと思うほど人気です」と誇らしげに話すのを聞きましたが、本来は待たなくて済むほうが理想ですよね。逆に言うとまだまだ日本の医療には可能性があるなとも感じます。
信頼が妊娠を後押しする。家族以上に寄り添う現場
──複数の事業を立ち上げてきた経験が、「患者さんファースト」という視点を育んだ面もあるようにも感じます。
そうですね。開業から1年ほど試行錯誤するなかで、不妊治療はある種の「コミュニケーションビジネス」だと気づきました。
医療技術や治療成績がよければ患者が集まると思っていた時期もありましたが、実際にさまざまなクリニックを分析すると、不満の多くは「待ち時間が長い」「先生が上から目線」「質問を聞いてもらえない」といった対応面に集中していたんです。
ビジネス的な視点から見ても、こうした点を改善するだけで他のクリニックとは差別化ができるなと。当院では初診前に専任カウンセラーが丁寧に悩みの聞き取り、診察後も「先生に聞けなかったことはなかったか?」などフォローするなど、患者さまの不安を取り除くことに注力しています。
──そのような寄り添う姿勢は、妊娠という結果にも影響しますか?
そう感じています。当院の複数のドクターに「妊娠の切り札は何か」と尋ねたところ、全員が口をそろえて「患者さんとの信頼関係を築くこと」と答えました。科学的な裏付けがなくても、安心して任せられる状態になると、ある日ふっと妊娠することがある。それほど、安心感は大きな力を持っているのです。
だからこそ、私たちはスタッフ全員が「家族以上に患者さんに寄り添う」姿勢を大切にしています。
残念ながら不妊治療には厳しい現実があります。つまり患者さまが「今日でやめよう」と妊娠を諦めたその日に「スタッフが本気で並走してくれた」、「一緒に最大限努力できた」と感じてもらえる医療でありたい。
その積み重ねが、結果として妊娠率の向上へとつながっていると考えています。
──スタッフ全員が思いやりを持ち続けるために、どんな仕組みを整えているのでしょうか。
これは採用が全てです。当院では採用率を非常に厳しく設定しており、看護師の場合は100人に1人ほど。転職してきたドクターからも「ここはスタッフの姿勢がまったく違う」と驚かれます。
感受性の高い人は、自然と患者の気持ちを察して寄り添うことができる。そうした素養のある人なら、細かい教育はほとんど必要ありません。逆にその素地がない人は、どれだけ教育しても変わらない。だからこそ「採用」がもっとも重要なのです。
全国のどこでも、誰もが不妊治療を受けられる社会へ
──今後の展望を教えてください。
目指しているのは、「誰もが、どこでも、高度な不妊治療を受けられるインフラ」を整えることです。現在は全国をカバーできるよう80院規模の展開を計画しています。
同時に、AIの活用にも力を入れています。カルテ入力などの事務作業をAIが担うことで、医師が1時間に診られる患者数を倍にすることが可能になる。将来的にはAIを活用した診療支援の実用化を目指しており、AI医師が人間と遜色のないリモート診断を行う未来を想定しています。2026年にはその実用化に向けて、本格的に取り組む予定です。
実現すれば、医師不足に悩む地方への展開により、都心部同様の質の高い不妊治療を受けられる時代が来るでしょう。この構想の実現目標は3年。完成した仕組みは他の医療機関にも開放し、ともに活用してもらいたいと考えています。ひとりでも多くの人が安心して治療に向き合える社会のために、最前線で挑戦を続けていきたいです。
取材・文/福永太郎
写真/石田壮一

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