なぜ中国の若者は働かないのか…習近平がひた隠す「中国経済の不都合な真実」 愛国を語る富裕層ほど、子には海外教育
なぜ中国の若者は働かないのか…習近平がひた隠す「中国経済の不都合な真実」 愛国を語る富裕層ほど、子には海外教育

中国国家統計局が発表した2025年8月の16~24歳の失業率は18.9%となり、現役学生を統計対象から外した2023年12月以降で最も高かった。その後、失業率は多少改善したが、依然として高水準を保っている。

なぜ中国の若者は働けないのか。国際的投資家の木戸次郎氏は「中国が若者を受け止めるための雇用装置そのものを失ってしまったからであり、それは失業という言葉で片づけるにはあまりに的外れだ」と指摘する。木戸氏が解説する。

バブル崩壊後の日本にはまだ、製造業があった

中国の若者は怠けているのではない。ましてや、働く意欲を失ったわけでもない。彼らが職につかないように見えるのは、個人の価値観や気質の問題ではなく、そもそもこの国が若者を受け止めるための雇用装置そのものを失ってしまったからだ。

それは失業という言葉で片づけるにはあまりに的外れで、むしろ国家モデルの老朽化が最も末端の世代にまで及んだ結果としての「静かな排出」に近い。

かつて中国は、不動産と建設を経済の心臓部に据え、土地財政を起点として地方政府、金融機関、関連産業、消費、雇用を一本の太い循環回路に組み込み、高速成長を実現してきた。

しかしその循環はいま、致命的な目詰まりを起こしている。恒大や碧桂園といった巨大不動産企業の行き詰まりに象徴されるように、新築住宅の販売は長期低迷に入り、土地収入に依存してきた地方政府は、新規採用どころか既存職員の給与維持にすら苦しむ立場へと転じた。

その結果、若者を大量に吸収してきた建設、不動産、周辺サービス分野の雇用は、連鎖的に姿を消していった。

日本のバブル崩壊と決定的に異なるのは、日本には製造業というもう一本の骨格が残されていたのに対し、中国はほぼ単一の成長エンジンに国家を委ねてきた点である。

その一本が失速した以上、最初に行き場を失うのが若者になるのは、構造的に見て避けられない帰結だった。

そこに重なったのが、ITプラットフォーム、教育産業、民間サービス業に対する急激な制度変更である。

アリババやテンセントに代表される民間IT企業は、かつて大卒人材の最大の受け皿だったが、「共同富裕」という旗印の下で、成長や雇用よりも政治的安定を優先する存在へと性格を変えた。

学習塾やオンライン教育産業は短期間で解体され、スタートアップへの資金供給は細り、若者を育てながら雇うという産業の連鎖は一気に断ち切られた。

社会問題化する中国版ニート「コウ老族」

一方、国有企業や公務部門は安定しているように映るものの、採用枠は極めて限定的で、毎年1200万人規模で増え続ける大卒者を吸収できる余地はほとんどない。

結果として中国の若者は、「働いていない」のではなく、「正規雇用に至る入口そのものが閉じられた社会」に放り出された。統計がこの現実を映さなくなったのも偶然ではない。

若年失業率の公表が止まったという事実は、数字が悪化したから以上に、この国がすでに拡大ではなく収縮の局面に入ったことを、無言のまま示している。

さらに重要なのは、失業の質そのものが変わっている点だ。若者の多くは、公務員試験や大学院進学という名の「待機」に入り、統計上は労働市場の外側へと分類される。

あるいはフードデリバリーや短期のIT下請けといった不安定な仕事に従事し、働いてはいるが将来の積み上がりが見えない状態に置かれる。

実家に戻り、親の収入に依存しながら、結婚や出産、消費を先送りする若者は「コウ老族」(啃老族、日本でいうニート)と呼ばれ、社会問題として語られている。

国の成長モデルが次世代を養えなくなったことの帰結

ここで言うコウ老族は、日本でかつて揶揄的に語られた「パラサイト・シングル」とは性格を異にする。自立しないという選択ではなく、自立できない構造に押し込められた結果であり、雇用と住宅という二つの出口が同時に塞がれた社会で、若者が生き延びるために選ばされた姿に近い。

これは若者の甘えの物語ではなく、この国の成長モデルが次世代を養えなくなったことの帰結である。

こうした環境で、最も早く動いたのが、皮肉にも最も条件に恵まれた層だった。上位大学を出て、理工系や金融、法務といった国際的に通用するスキルを持ち、語学力があり、家庭に一定の資金余力がある若者ほど、国内に将来像を描けなくなった。彼らが留学を選ぶ理由は理想主義ではない。

キャリアの連続性を確保するための、きわめて現実的な脱出口としての選択である。一度海外で就職すれば、戻る理由は急速に薄れていく。

ここで、香港の金融関係者の見方を重ねると、議論はより立体的になる。

彼らは、中国経済が不動産評価の急落、消費の低迷、若者失業、敵対的な外部環境という深刻な問題に直面していることを認めつつも、バイオテクノロジー、ロボット工学、AI、再生可能エネルギー、EVといった分野では、中国はすでに世界クラスの地位を築いており、これらの産業が崩壊することなく経済を下支えできると頑なに信じている。

世界的産業があっても若者が働けるとは限らない

また、ドナルド・トランプの「取引としての政治」が、地政学的緊張を一時的に緩和し、中国経済に呼吸の余地を与えているという見方もある。

この見解は部分的には正しいが、決定的に欠けている視点がある。それは、これらの先端産業が、若者をどれだけ吸収できる雇用装置になり得るのか、という点だ。

AI、ロボット、EV、再生エネルギーはいずれも資本集約型であり、必要とされる人材は高度に選別され、人数は限られる。かつて不動産と建設が担っていたような、裾野の広い雇用吸収力は持ち得ない。

世界クラスの産業が存在することと、若者が働ける社会が成立することは、まったく別の問題なのである。

トランプの取引的姿勢(ディール)が、中国に一時的な外部環境の改善をもたらす可能性はある。しかしそれは、国家モデルの再設計を先送りする猶予を与えるに過ぎず、若者雇用という構造問題を解決するものではない。むしろ、その猶予がある限り、改革は遅れ、若者の「静かな排出」は続く。

自国経済を信じても、子どもは海外に行かせる

ここで香港という鏡を差し込むと、状況は一段と明瞭になる。

返還前の香港が誇っていたのは、感情としての自由ではなく、自由が制度として機能し、資本と言葉が動き、将来の見通しが立つという仕組みそのものだった。

返還後、香港人は中国を愛したわけでも、全面的に受け入れたわけでもない。反抗すれば摩耗し、迎合すれば吸収されるなら、距離を保ち、出口を複線化する。

その結果、子供をインターナショナルスクールに通わせ、海外への進路を確保し、親は中国で稼ぎ、子は中国に人生をけ懸けないという分業が成立した。

いま中国の都市中間層や富裕層が、経済への自信を口にしながら、子供の進路は留学前提で設計するのは、価値観の揺らぎではない。合理性の問題である。

この「香港的合理」は、大陸にも静かに浸透しつつある。表では忠誠を示し、裏では分散する。声を荒げず、制度の内側で生き延びる。

若者が街から姿を消しても、大規模な抗議が起きないのは、不満がないからではない。変えられないと理解しているからだ。

可処分所得の減少と将来不安という家計の現実

この空気を象徴的に可視化したのが、ジャック・マーの存在だった。2020年の中国政府に対する批判的発言以降、彼は一度表舞台から完全に退いていた。

その間も様々な憶測が飛び交っていたが、今年の2月に突如、習近平の前に並ぶ企業家の一人として表舞台に姿を現した。それは屈服でも復権でもない。体制による回収である。

反抗は許されないが、忠誠を示せば席は残る。その無言のルールが示された瞬間、若者は悟る。声を上げれば消える。出て行けば戻れない。残るなら、最適化するしかない。

内向きの不満と不安が蓄積するほど、統治は外向きの物語を必要とする。しかし、政治的な物語がいかに語られようとも、可処分所得の減少と将来不安という家計の現実は覆せない。国家が外を向いて語るほど、個人は静かに外へ出口を求める。

繰り返すが、中国の若者が職につかないのではない。中国という国家モデルが、若者を吸収できなくなったのである。

その結果として、優秀な人材は国外へ流れ、国内には雇用を生まない経済と、希望を先送りする世代だけが残る。これは危機の始まりではない。すでに進行している逆回転の一断面であり、その静けさこそが、最も危うい兆候なのである。

文/木戸次郎 写真/shutterstock

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