戦国大名にとって弟とは一番のライバルで邪魔な存在…ならばなぜ豊臣秀吉は弟・秀長を重用するにいたったのか〈豊臣兄弟〉
戦国大名にとって弟とは一番のライバルで邪魔な存在…ならばなぜ豊臣秀吉は弟・秀長を重用するにいたったのか〈豊臣兄弟〉

2026年1月4日から放送が始まったNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。本作は兄の豊臣秀吉を陰ながら支えた弟・秀長が主人公だ。

秀長を仲野太賀、秀吉を池松壮亮が演じる。兄の天下取りをいちずに支え続けた「天下一の補佐役」秀長とは一体どんな人物だったのか、人気東大教授・本郷和人氏が解説する。

 

書籍『豊臣の兄弟 秀吉にとって秀長とは何か』(河出新書)より一部を抜粋・再構成し、秀長の人物像を追う。

権力者の親族たち

秀吉は農民から出発しているだけに、先祖代々の家臣というものがまったくなかった。このことは、わかりやすいですね。さらにいうと彼には一門とか親類衆というものがいませんでした。

大名には家臣が必要ですが、一門衆や親類衆という存在もまた「家」を盛り立てていく上で、非常に重要になってくるのです。

たとえば源頼朝(1147年~1199年)も、源氏一門を「一応は」大事にして、一般御家人の上に置く。その一門の中でも一番格上なのは足利。佐竹も有力な源氏一門でしたが、これは頼朝に逆らってしまったので格が落ちた。

他にも武田や小笠原など源氏の家があり、頼朝はそれらの家を一門として優遇しています。そうして鎌倉幕府を秩序立てていくわけですが、その秩序は儀式の際の席次にもきっちり反映されていました。足利将軍家も同じことをやっています。



織田信長も、織田の一門を持っていました。そしてさらにその一段下に親類の家を配置し、一門衆がいてさらに親類衆がいるというかたちで、自分の勢力を秩序立てようとしていた節があります。

たとえば信長には、すぐ下の弟として信勝(?~1558年?)という人がいました。この人にはいろいろな名前が伝わっているのですが「信勝」が一番知られています。この信勝は柴田勝家などに担がれて反旗を翻し、家督争いを起こす。それで信長に殺されます。

ただ信勝の息子、信澄(?~1582年)はなかなか優秀な人物だったらしく、信長は甥にあたるこの人物をずいぶんとかわいがります。しかし信長は信澄には織田ではなく、わざわざ津田という姓をつくってそれを名乗らせました。

信長は、織田の姓を名乗ることのできる人は非常に限定的にする。その下に織田を支える家として親類を配置する。そうした秩序作りを考えていたと思われます。

徳川家も同じことをやっていますね。
徳川という姓を名乗ることができるのは御三家だけ。その下に松平という親類衆の家があって、御三家以外は、たとえ家康の子どもであっても、みんな松平姓を名乗る。それだけ徳川は特別。その周囲に松平を名乗る親類衆がいて徳川を支える。そのように秩序立てていきました。

ちなみに津田信澄は明智光秀(1528年~1582年)の婿になりました。その結果、光秀が「本能寺の変」を起こしたときに、信澄は光秀との関係を疑われて丹羽長秀たちに殺されてしまっています。

「血」を否定する秀吉

いっぽう秀吉の場合は、もちろん元からの家臣団も持っていませんが、一門となる親類もいませんでした。だから豊臣家というものを成立させていくために、非常な苦労をしたことでしょう。そうした中で秀長という人は、まさに血縁者として、親類の代表格になる存在だったはずです。

秀吉は、その秀長をどう処遇したか。「血がつながっている弟なのだから大切にして当たり前だろう」という考え方はもちろんあり得ます。しかし、秀吉という人は「血縁」を絶対的に重視すべきものとは考えていなかったのではないか。

そう考えさせられるエピソードがあるのです。

これは宣教師のルイス・フロイス(1532年~1597年)がローマに送ったレポートに出てくる話ですが、秀吉が天下人になってから、「天一坊が現れる」という事件がありました。天一坊とは、今の若い人であれば聞いたことがないかもしれませんね。徳川吉宗(1684年~1751年)の時代に現れた、将軍の隠し子を自称した人物です。

吉宗は将軍になるべくしてなった人ではなくて、偶然が重なって将軍にまで上り詰めた人です。そのため、まさか自分が偉い立場になるとは思わず、それ以前は自由に振る舞っていました。女の人との間にも、密かに子どももつくっていたらしい。その吉宗が将軍になると、その吉宗の子どもだという人物が名乗り出てきました。「私は将軍の御落胤である」。そう称した天一坊です。

この天一坊事件は、大岡越前守(1677年~1752年)が見事に「偽物だ」と裁き、処断されたという話になっています。もっとも大岡越前守が関与したという部分はフィクションなのですが、秀吉にもまた、この話と似た事件がありました。


ルイス・フロイスのレポートによると「自分は大政所の子供で、秀吉様の弟である」と名乗り出た人物が現れたといいます。大政所は秀吉のお母さんですね。秀吉にしてみると、捨てておくわけにはいかない。その若い男を連れてきて、大政所がいる前で謁見(えっけん)した。それでお母さんの反応を見ていたら、すごく気まずそうに顔を逸らした。それで秀吉は「この男は事実、お母さんの子だ」と直観したらしいのですね。

秀吉はまだ若いときに家を出ています。継父の竹阿弥と折り合いが悪かったと言われますが、その後、大政所、当時の仲さんは竹阿弥と死別か生別かわかりませんが、別れてしまっていたらしい。

当時、女性は弱い立場にありました。一人で生きていくということはなかなかできず、頼る旦那がいないと暮らしていけない。秀吉は家を出てしまっていたので知らずにいましたが、仲さんは、竹阿弥と別れたのちに他の男性のもとに嫁に行っていたのではないか。それで生まれた子どもが、今回名乗り出てきた男。


それで秀吉が、「俺の血を分かち持っている人間がいたのか」ということで、その男を重く用いるとか、側近くに置いたりしたのかというと全然違います。秀吉は男を捕まえて首を切ってしまった、とルイス・フロイスは書き送っています。

しかも秀吉は「どこかにまだ俺の弟や妹がいるのかもしれない」ということで調査を行った。その結果、尾張の中村、彼の故郷の近くに、どうも仲さんが産んだと思われる姉妹がいることを突き止めた。

それで彼女たちを自分のもとに呼び寄せます。姉妹は農民として貧しい暮らしをしていたのですが「出世したお兄ちゃんが呼んでくれている。我々も貧しい境遇から抜け出して豊かな生活が手に入る」と、大変に喜んで出かけていきました。しかしやっぱり、捕まって首を切られてしまいます。

もちろんルイス・フロイスの記述がどこまで本当であるか検討の余地はあります。しかし、理由もなく否定するのはおかしいし、この話は非常に示唆的です。秀吉には「血がつながっていれば大事にする」というところが、まったくないらしい。

権力者の血縁問題

実際問題、実は血縁者、特に弟は大名にとって実は非常に面倒くさい存在ではあるのです。弟とは、いつでも自分の替わりになる存在。

自分自身の互換品になり得る人物なのですね。だから実際に、武士のリーダーになるような人は、弟の存在をすごく警戒しています。

鎌倉の昔、源頼朝は義経(1159年~1189年)や範頼(?~1193年)といった自分の弟を殺しています。義経や範頼は異母弟でしたが、足利尊氏(1305年~1358年)は同母弟の直義(1306年~1352年)を殺害している。織田信長も弟の信勝を殺しているわけです。

徳川家康には父を同じくする弟がいませんでしたが、戦国大名で言えば、毛利元就(1497年~1571年)や伊達政宗(1567年~1636年)、大友宗麟(1530年~1587年)が弟を殺しています。弟は大名にとって実は一番のライバルで一番邪魔な存在でもある。だから殺している大名は驚くほど多いのです。

有能であればあるほど、弟は危ない存在になる。だからお家騒動が起きないようにきちんと殺しておく。これはこれで一つの判断かもしれません。

むしろ弟と仲良くやっていたという例のほうが少ない。弟と仲良くし、使いこなせるだけの器量を持っていたのは武田信玄(1521年~1573年)と、兄弟の結束が強かった島津義久(1533年~1611年)くらいでしょうか。そして豊臣秀吉。弟の力を存分に発揮させて自分のプラスにするという人は、実は珍しいのです。

むしろ弟が手柄を立てれば立てるほど、自分にとっては厄介な存在になる。「そうなる前に殺してしまえ」というケースは十分にあり得たのです。

常識が通用しない秀吉

だから秀長についても「弟だったから当然のこととして秀吉の右腕になった」という見方はいろいろなところから間違いなのです。特に秀吉は、血縁だからといって重く用いるような甘い人物ではない。優秀でない人物を重要なポジションに起用することはしない人です。秀長は相当頑張って、自分の力で秀吉の補佐役としての地位をつかみ取っていったと考えるべきでしょう。

秀吉は弟の秀長は殺していませんが、甥にあたる豊臣秀次(1568年~1595年)を殺しています。一度は後継者に定めた秀次ですが、本人だけではなく、彼の一族まで皆殺しにしてしまいました。この件については「実子の秀頼(1593年~1615年)が生まれたために秀次が邪魔になった。秀頼の安全を考えて、秀次一族を皆殺しにしたのだろう」と見られています。

しかし國學院大學の矢部健太郎教授は「秀吉は秀次を進んで処刑したわけではない」という説を立てています。「当時、豊臣の血はダイヤモンドよりも高価であった、だから秀次を殺すわけがない」。そうした議論の進め方なのですが、しかしルイス・フロイスの記した一件を考えると、この説は的外れということになります。

実際、世界史的に見ても、将来のリスクを考えて血縁者を殺してしまう事例は多数ありますね。たとえばハーレムを設けるようなアラブの王様のところでは、王子が何十人といる。そして王様が亡くなると、その王子たちのうちからひとりが選ばれて次の王様になる。そうすると残りの兄弟たちはみんな自動的に殺されるのですね。将来の禍根を断つため、王族の名誉のもとに殺されます。

つまり秀頼が大切であれば、秀次たちは殺される。それを現代の我々の常識的な考え方を持ち出して「豊臣の血は当時、貴重だった。だから本当は殺したくなかった」と見るのは違うのかなと感じます。

ただし秀次の場合は難しいところで、本人は殺してしまうにしても、その子どもたちまで、命を奪う必要があったのかどうか。織田信長の場合も、弟の信勝は殺しても、その息子の信澄は生かして織田を支える一門をつくろうとしていました。

秀吉としても本当は「豊臣一門」という一族をつくっておくべきではあった。秀次の子どもたちは殺さずにおいて、豊臣一門か、あるいは羽柴一門のような勢力をつくる道もありました。そうすると彼らが将来、秀頼の助けになったかもしれない。そうした可能性は考えなかったのでしょうか。

もし考えなかったのだとすると、そのあたり秀吉は本当に、当時の武家の常識が通じない人だったということになります。

『豊臣の兄弟 秀吉にとって秀長とは何か』(河出新書)

本郷和人
戦国大名にとって弟とは一番のライバルで邪魔な存在…ならばなぜ豊臣秀吉は弟・秀長を重用するにいたったのか〈豊臣兄弟〉
豊臣の兄弟:秀吉にとって秀長とは何か
2025/10/28990円(税込)200ページISBN: 978-4309631943本能寺の変で信長が討たれた直後、奇跡の「中国大返し」を果たしてみせた秀吉。
彼はなぜ、天下人になることができたのか――?
そのかたわらに、弟・秀長がいたことの意味とは――?
生い立ちから、華々しい戦績をもたらした思考法、秀吉の非常識ぶり、それを支えた秀長の手腕まで……
東京大学教授が、天下を獲った兄弟の実像、豊臣政権の本質を徹底解説。


【第一章 秀吉の何が、他の武将と違うのか】
若き秀吉の放浪時代/不明の人、秀吉/「家」が理解できない秀吉/武士の原理に従わない秀吉/デスクワークを重視する秀吉/異次元の人材評価/常識が通用しない秀吉/「血」と「家」は別……

【第二章 戦う秀吉は、なぜ強かったのか】
墨俣一夜城の伝説/竹中半兵衛は本当に名軍師?/近江長浜時代の大失敗/信長が変えた「戦争」の意識/戦うのも人間である/「兵站」にもとづく秀吉の戦術/「本能寺の変」は必然だった?/軍隊移動の名手、秀吉/秀吉の非常識が、光秀の常識を覆す/秀吉の戦術を逆手に取る家康/なぜ秀吉は大盤振る舞いするのか……

【第三章 天下人 with 秀長】
秀長、歴史に登場/戦国の、リアルな土地感覚/当時の百万石は百万石もない!? /まだあった「領有」の曖昧さ/本能寺から天下人へ。秀長の大功績/兄を支えた秀長の能力/難治の国を見事に統治/行政、内政のスペシャリストたち/秀長の健康悪化と有馬温泉/家康上洛。外交担当者としての秀長/秀長はお金に汚い?/大和大納言家の終焉……

【第四章 豊臣政権とは何だったのか】
秀吉がふたりいる?/兄弟が並び立つための条件/秀吉は徹頭徹尾、軍事の人/秀吉家臣団の報酬/家康の家臣団は古典的/家康にもいた三成タイプ/「家」のヴィジョンがない秀吉/天下人 without 秀長/京都の権力者、秀吉/天下布武には興味がない/大陸進出の真実……
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