海外では昨年から広く公開されてきた伊藤詩織監督作品『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』の公開が、ついに日本でも12月から始まった。国内でのスタートは米アカデミー賞ノミネート作品というメガ・ステータスにはいささか不釣り合いとも言える、都内の単館上映という形であったが、その慎重な滑り出しは、問題が抜本的には解決していないことを自覚する関係者の試行錯誤の末の戦略なのだろうか。
12月15日、伊藤詩織監督らによる、ドキュメンタリー映画『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』の記者会見が行われた。
出席者は、伊藤詩織監督およびプロデューサーであるエリック・ニアリ氏・ハナ・アクヴィリン氏の2名で、制作会社兼共同配給会社であるスターサンズ社からの出席はなく、防犯カメラ映像のCG加工の方針や許諾の問題についてチームが法的なアドバイスを受けていたという四宮隆史氏(スターサンズ社代表兼弁護士)の姿もなかった。
2月20日に伊藤監督の体調不良により当日にキャンセルが発表された会見が、10か月越しに実現した形となったが、その内容は監督によってすでに出されていたステートメント類をなぞるものが多く、唯一目新しかった情報は、プロデューサーであるニアリ氏による、なぜ日本での上映が遅れたかの説明であった。
ニアリ氏は、「配給会社と違い、上映先が見つからなかった」と一歩踏み込んで答え、また「上映先の問題は、映画とは関係ない部分や、政府との関係を考えた自己検閲のような力も作用したと考えているが、総合的には、上映会社らの懸念は常に防犯カメラ映像だった」と述べ、伊藤詩織監督が海外で行ってきた説明と矛盾させない範囲で、実務的な壁がどこにあったかを明らかにした。
上映先の確保が難点だったという点は、ようやく国内公開を迎えるも、上映先は都内の一館でスタートとしたという状況とも整合しているように見える。
しかし、それ以外は、「日本で公開を迎えた感想は」といった質問で、作品をめぐって論争が繰り広げられてきた着地点を見出せるものや、宙に浮いている答えがわかるようなものでもなかった。
そのため、記者会見の詳報の代わりに、昨年から日英二言語で本問題を注視してきた立場から、本来されるべき「ブラック・ボックス・ダイアリーズ」の制作と流通の話』をしたい。
日本人が知らない『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』の実像
伊藤詩織監督は、海外メディアの取材に対し、作品制作の裏側について、「ちゃんとしたカメラマンや音声スタッフがいたことはなく、ハナと私が二人で全部やった」と述懐。
アカデミー賞授与式にノミニーとして出席した後は、「映画を作ったこともない私たちの作品が、米アカデミー賞まで来られるなんて信じられない」と素直な喜びをのぞかせたため、「予算ゼロの映画製作者が発揮した才能」と賞賛した米国紙もある。
しかし、取材を進めると、見えてくるのは、その作品の実は、鳴物入りの超大型プロジェクトであったという点である。
伊藤監督が編集室に仮眠ベッドを持ち込んで作業していたというのは日本でもよく紹介されたエピソードだが、「その編集室には、『ナリヌワイ』(2023年米アカデミー賞受賞)の編集者と、オッペンハイマーの『アクト・オブ・キリング』(2014年米アカデミー賞ノミネート作品)の編集に携わった人物がいて、編集室は事実上、スターの集まりだった」というのはその一例だ。
低予算映画どころではなく「超大型プロジェクト」だった
ドキュメンタリー制作者は、「次元が違う人が編集に入ると、作品が格段に良くなるのは良くあること」と話す。ただ、そういう次元にいる立場の人にアドバイスをもらうのに必要なのは、金銭ではなく、人脈やツテであるという。
また、そういったレベルにいる人物ほど、作品にクレジットされることを嫌い、むしろ「クレジットはしない」という条件で動く場合もあるとした。その理由は、アドバイスをしてくれと無限に依頼されることを避けるためや、新人の邪魔をしたくないという配慮も働くという。
もっとも、伊藤作品には、彼女らの名前は共同編集・編集コンサルタントとしてクレジットされているため、アドバイス以上の実務的協業があったことがうかがえる。
『ナリヌワイ』と『アクト・オブ・キリング』と『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』に共通するのは、どの作品もロンドンを拠点にする同じ国際販売代理人会社(ドッグウーフ社)を通している点だ。伊藤詩織監督作品には、同社の役員が直々にセールスエージェントに就いているが、そういった人物であれば、強力な助っ人を紹介できたのかもしれない。
ドッグウーフ社は、過去30本以上の米アカデミー賞候補のドキュメンタリー作品を輩出してきた名門のセールスエージェントであるが、米国で映画知財を専門にする弁護士は、「『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』のリーガルチェックを担った法律事務所は、米国のトップティアのローファームである」と語り、ドッグウーフ社が作品を紹介し、その法律事務所の名前があれば、業界関係者の心証としては、確実に“その路線”に乗る、「必勝請負プロジェクト」として理解されるという。
そうして制作された作品をプロモーションする上でも、同作品には大きなマンパワーが注ぎ込まれていたことも、明らかである。
オンラインデータベースのIMDbによれば、同作品には、同年にオスカーを受賞した『ノーアザーランド』の約3倍にのぼる数のプロデューサー数がクレジットされ、「インパクト・プロデューサー」という他の作品では見かけないユニークな肩書きも並ぶ。
伊藤詩織監督は、作品と共に社会的インパクトを打ち出すため、世界的なキャンペーンを展開すると海外のインタビューで語っているが、それぞれの地域を開拓できる人物らが適切なアプローチを行なったことにより、ヨーロッパでの一般公開前に欧州議会で上映会を行うようなことが実現できたのだろう。
同作品は、伊藤詩織監督による自撮りのビデオ日記をストーリーテリングの一部に組み込むことで、当事者が友人と制作したアットホームなセルフドキュメンタリーと見える側面を保っているが、その実は、業界最高水準の専門性とマンパワーが掛けられ、製作・宣伝・流通のなされた作品であるといえるだろう。
公開から約2年で世界60の国と地域で上映をしたという勢いは、ドイツの巨匠ヴィム・ヴェンダース監督が日本とドイツの共同制作を行い、主演の役所広司氏はカンヌで男優賞を受賞するなど世界的に高く評価された『PERFECT DAYS』の上映実績がロングランとなって90カ国という事実と並べると、よくわかるのではないだろうか。
「販売権を譲渡したのは、24年の1月」という記録が語ること
しかし、それらを成し遂げた高度な専門性とプロフェッショナリズムは、作品を磨くことと、セールス・マーケティング・PR活動以外には向けられることがないようだ。
25年の6月、「映画が日本離発着のキャセイパシフィック航空の機内で上映されているという情報があるが、本当か。それはオリジナル版なのか」と伊藤詩織監督の代理人に問い合わせをした西廣陽子弁護士らに対し、映画の代理人弁護士は「伊藤氏は、本件映画の海外の配信に関し、全ての配給圏を配信会社に譲渡しているため、個別の上映については、把握していません」と回答をしたという。
確認をすればわかることと考えた西廣弁護士らがそのように求めたところ、すでに譲渡済みのためわからないという内容が、押し問答のような形で繰り返されたという。
ところで、譲渡後の作品の差し替えをすることは、どのくらい難しいことなのだろうか。映画関係者は、「必要な修正や差し替えは、売却後であっても不可能ではありませんが、基本的には信用問題にもかかわることなので、製作会社としては極力避けたいことだと思う」と説明する。
「ただし、絶対に差し替えが必要だということになれば、セールスエージェントであるドッグウーフ社を通じて各国の配給会社やその先の配信プラットフォームと連絡を取り、差し替え交渉をすることはできるはずです。
それで差し替えが実際に実現するかどうかは、関係性や先方の事情もあると思いますが。総じて、いったん素材を渡してしまった映画の素材の差し替えを行うことは、結構大変だけれども、絶対に不可能だということはないという感じです」
では、素材とその販売権が譲渡されたのは、いつなのだろうか。伊藤詩織監督の代理人弁護士が西廣弁護士の代理人に送ったFAXには、『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』が権利を譲渡したのは、2024年の1月と記されている。
業界的な常識に照らせば、2024年1月以降、現在から遡ること約2年前からは、「すでに差し替えは難しかった」というのが実際のところに思えるが、伊藤監督が公表した最新の資料によれば、映画制作チームは、作品の販売権の譲渡後であるにも関わらず、監督の不手際で確認が漏れてしまった西廣弁護士との電話音声シーンの削除をする姿勢であり、その対応について申し出たが、そういった要望がなかったから世界配信をしたと記されている(以下、参照)。
“この部分は私が西廣弁護士に事前確認をするのが抜け落ちてしまった場面であり、世界配信される前の2024年7月の協議の際から何度も謝罪をし、製作側から削除が可能である旨をお伝えしていましたが、削除のご要望はありませんでした。しかしその後、西廣弁護士が公にこの点について非難されていることから、当方の判断でこの西廣弁護士との電話のシーン自体を日本版よりカットしています。
しかし、削除を求めた人物らは、他にも存在する。2024年10月の記者会見後、出演に同意をしていない女性が削除を願い出て、伊藤詩織監督に「最新版では削除する」と年末に約束されたが、2025年1月にアメリカのストリーミングサービスを介して同作品を視聴すると削除されていなかった、という点だ。
2024年1月の権利の譲渡後も、差し替え対応をする覚悟でいたのならば、なぜ、約束した差し替えを実行することがないまま、25年の夏にフランスで無修正のDVDが販売されたのだろうか。
矛盾は、映画制作サイドと西廣陽子弁護士サイドの間だけでなく、映画制作チームの言動の間に浮かぶ。
監督の意思で差し替えができたはずの海外映画祭と上映会
同映画関係者は、劇場上映や配信はさておき、海外の上映会でもオリジナル版が上映されていたことの方に疑問を感じるという。
「疑問に思ったのは、伊藤監督が2月20日に差し替えを約束した後でも、海外の上映会で修正版ではなく、オリジナル版を上映していたことです。とくに自分が出席する上映会でしたら、修正版に差し替えてもらうことは容易なはずです。
それでもオリジナル版を上映し続けたのは、極力オリジナルを上映したかったのだろうなと想像しています。あるいは差し替えることで作品の正統性や合法性に疑問符がつくのを嫌ったのかもしれません。」
2025年3月、アカデミー賞授賞式直後にニューヨークで開催された上映会には、状況を注視する日本人記者も駆けつけたが、上映されたものは、オリジナル版であった。同上映会には、伊藤監督も出席し、上映後にはトークセッションを行っている。
「監督が実際に上映に立ち会うとなれば、上映用の素材を直接渡すこともできるので、差し替えは容易です。主催者は普通は監督の意向を最大限尊重するものなので、それに異議を唱えることもあまり想像できません。
つまりご自分が出席する上映会や映画祭などでオリジナル版が上映されたのだとしたら、それは伊藤監督に差し替えたいという強い意思がなかったのではないでしょうか」(前同)
筆者は、監督による差し替え意向の公表後、海外の映画祭で同作品を見たという視聴者らにも取材を行ったが、日本修正版で施されたような大々的なモザイク処理(日本公開版では、西廣陽子弁護士の顔が映画全編に渡りモザイク処理がかかっている)の入ったバージョンの上映を見たという証言は得られなかった。
「差し替えたくないのであれば、最初からそのように宣言すべきだったと思います。差し替えるといって差し替えなければ『約束が違う』ということになり、問題が生じます。西廣弁護士側の主なフラストレーションも、そこにあるのではないでしょうか。」
「日本公開版だけ」の説明となった10ヶ月後の記者会見
日本公開を目前にした伊藤詩織監督は、25年10月に、ハーバード大などを含む米国大をめぐり、上映会ツアーを開催。そのツアーで使用されたものは、オリジナルとは異なるバージョンであったという。
業界人でなければ、映画祭や上映会と、劇場上映や配信の違いなど知りもしない違いであるため、海外大での上映会を以て、「日本版は修正版を上映」「海外でも対応をした」という結末にも、見えるだろう。
しかし、海外で配信やDVDを通して流通している『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』の差し替えを、実行する予定はあるのだろうか。
それらについて、記者会見で質問できる機会はなかった。プロデューサーであるエリック・ニアリ氏に、「海外の劇場上映・配信・DVDについては、どのような状態になっていますか」と質問を送ったが、期日までに回答はなかった。
2月の記者会見で、元弁護団は、以下のように冒頭に発言をした。
「今日の会見は決して日本での上映に向けた作品の再編集だけを求めているものではありません。(中略)現在世界中で流通していて米国のアカデミー賞にノミネートされている『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』、それが議論の対象です。その事を念頭においてこれからの話を聞いていただきたいと思います」
その記者会見では、他人を踏み躙って商品を作ることは許されず、「海外版」と「日本版」を分けて語ることは無意味であるという思想が伝えられた。
しかし、10ヶ月遅れで実現された伊藤詩織監督らの記者会見では、「世界中で流通しているブラック・ボックス・ダイアリーズ」が議論の対象になることはなかった。
寄せられた質問らは、日本版についていかなる修正がなされたのか、ついに国内公開にこぎつけた気持ちは……などであり、「日本版」と「日本公開」に焦点が向けられるものとなった。
映画制作チームは、10ヶ月という時間を置くことで、結局は「日本版についてだけの記者会見」をすることに成功し、海外興行は、その規模に関わらず、議論のテーブルで透明化されたものように感じられた。
世界的な興行をしながら、「もう終わった話」として、現在進行形の物事だけに目を向けさせ、論点を日本版だけとすることに成功したのだから、結局はその稚拙に見える「言い訳」もまた、巧みだったのだろうか。
文/蓮実里菜

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