「火葬炉が足りない」東日本大震災で東京都唯一の公営火葬場が担った“知られざる支援”…被災地と東京を結んだ追悼のリレー
「火葬炉が足りない」東日本大震災で東京都唯一の公営火葬場が担った“知られざる支援”…被災地と東京を結んだ追悼のリレー

日本人の99.9%は火葬され、骨になり最後を迎える。近年、東京都の火葬料金高騰が大きな注目を浴びるなど日本の葬送は転換期を迎えているが、まもなく発生から15年を迎える東日本大震災当時も、“弔いの現場”で奮闘する人々がいた。

2011年3月24日、東日本大震災後の火葬炉不足に協力を表明したのは石原慎太郎都知事(当時)。宮城県の村井嘉浩知事の要請に応える形で「火葬支援」を表明し、都内唯一の公営瑞江葬儀所で3月28日から4月3日までの7日間、一般火葬業務を中止して宮城県からの遺体を火葬することになった。


新刊『火葬秘史 骨になるまで』(小学館)より一部抜粋・再構成してお届けする。

被災地の遺体を引き受けた東京の火葬場

東京23区には九つの火葬場があり、瑞江は東京都が運営する唯一の火葬場だ。火葬炉は20基で、1日の火葬件数は25件だったが、緊急時ということで扱い体数を増やし、受け入れ時63の手配や手順を簡略化し、扱い時間と作業人員を増やすことで、1日最大80体の火葬を取り扱う態勢を整えた。

結果的に東京都は、4月3日までを第1回とし5月2日までの最終第5回までに165体を引き受けて火葬にした。当初の引き受け予定数500体を下回ったのは、遺体選別時の混乱に加え、遺体搬送車を手配できなかったことが大きかった。瑞江葬儀所に少し遅れたものの、搬送車を確保することで扱い遺体数を増やしたのが東京博善である。

東京博善は全国の1400カ所あまりの火葬場の大半が公営であるのに対し、23区内の6カ所に火葬場を持つ民間大手だ。明治20(1887)年創業で、日本の火葬史を語るに欠かせない企業である。

東京博善では六つの火葬場に最新鋭の火葬炉を数多く備えて稼働に余裕もあることから、浅岡眞知子社長(当時)以下、経営幹部から一般社員に至るまで、「我々の火葬炉で被災地支援はできないか」という声があがっていた。その思いは、宮城県警本部から四ツ木斎場(葛飾区)にかかってきた一本の電話で具体化する。

3月21日の深夜だった。

対応に当たったのは元常務の川田明。入社以来、火葬業務のあらゆる部署を経験し、全火葬場の斎場化に向けたリニューアルも担当した。2020年6月に退任し、現在は火葬コンサルタント「川田事務所」を経営する。川田が振り返る。

「電話を受けたのは、夜勤に入っていた宿直担当者でした。翌日報告を受けて、私が県警に連絡したんです。すると『遺体がたくさんあるが、現地の火葬場はひどい損傷を受けている。そちらで火葬できるか』ということでした。中には『検死して遺族と連絡を取ろうにも身元不明で連絡が取れない遺体』もあるという。

火葬炉に余力があったので火葬すること自体に問題はなかったのですが『搬送をどうするのか』と聞くと、『生存者の捜索などで車両も燃料もままならない。遺体を引き取りに来てもらえないか』という要請でした」

交通網が至るところで寸断され、燃料供給もままならない地に遺体を引き取りに行くというのだから難題である。金銭的・物理的な負担も決して少なくない。
そこで社内で論議を重ね、東京都とも協議をし、東京博善が遺体搬送車両の製作と搬送業務を東京都から委託受注するスキームとなった。

被災地から都内の火葬場までの遺体搬送

まず行ったのは遺体を搬送する運送会社の確保である。東京博善は廣済堂に属しており、かつてグループ会社だった日本運輸機構(現・凌雲物流)の田口典彦社長に浅岡社長が直談判した。「被災地のご遺体の搬送にお力を貸していただきたい」。田口もまた支援への思いがあり快諾した。

ただ搬送手段は確保しても、遺体をそのままトラックに積み込むことはできない。そこで、大型トラックを調達して多くの遺体を運搬できる仕様に造り替えねばならなかった。その結果、4tロングのトラックなら24体、普通型なら18体の遺体を運ぶことが可能になった。

4tロング1台の改修と陸運局への届け出が完了し、宮城県に出発したのが4月11日、続いて2日後に普通型2台が出発した。

引取先は石巻市の遺体安置所となっている旧石巻青果市場。3台のトラックで1日最大60体の遺体が運ばれ、四ツ木斎場の敷地内にあるお花茶屋会館に安置された。棺は内部で水を含み、砂が混じって相当な重量があった。底抜けや液体漏れの恐れがあるため、積み下ろしや運搬は慎重に行われた。



「ご遺体は収容された時と同じく裸です。泥は落としていますが清拭までには至らず、白布がかけられていました。ヘドロ状の海水を飲んでおられますので、炉床と呼ばれる炉の下の方からお骨と一緒にたくさん砂が出てくる状態でした。ご遺体は傷み、激しい臭気もありましたが、燃焼時に煙や臭気を取り除く装置やノウハウを持っていたので、それらの問題が出ないのは幸いでした」(川田)

遺体の運送は4月24日まで行われ、翌25日までに579体が火葬された。拾骨は現地の市町村職員が立ち会って遺骨は桐箱に納められ、6個単位で江戸藍染めの風呂敷に包んで安置。

4月27日、トラックに遺骨を積み込み、浅岡が伴走車に乗り込んで東北に向かった。同日夕方、2カ所の安置所に432柱はしら(遺骨の単位)、翌28日の2カ所の安置所に222柱が返骨された。

文/伊藤博敏

『火葬秘史 骨になるまで』(小学館)

伊藤博俊
「火葬炉が足りない」東日本大震災で東京都唯一の公営火葬場が担った“知られざる支援”…被災地と東京を結んだ追悼のリレー
『火葬秘史 骨になるまで』(小学館)
2026年1月15日1,980円(税込)320ページISBN: 978-4093965583

語られざる「火葬」のタブーに迫る渾身作

日本中が将来の右肩上がりの成長を信じていた昭和の時代、葬儀は、参列者の数を競うような壮大なスタイルで行われていた。しかしバブル経済の崩壊、そしてそこから続く「失われた30年」を経て、人の尊厳を守り、生きてきた証を残すはずの弔いは、急速に簡素化が進んでいる。

《そんな傾向に抗する気持ちが、私は年々、強くなった。人間だけが行う「葬送」という文化が失われていいのか。皆で弔い両親や先祖に畏敬の念を持って接する場所(墓)を確保する習俗は、後世に残すべきではないのか――》(「はじめに」より)

筆者の問いは、ここから始まる。



本書では日本人が「死」と「弔い」にどう向き合ってきたのか、その歴史と変遷を振り返る。さらに、そのダイナミックな時代の動きの中で暗躍した人々の生き様をたどる。

古代から続く「ケガレ」の思想と、「キヨメ」を担った人々。
「肉」と「火葬」という二大タブーを逆手に取って富と権力を手にした、明治の政商。
戦後の混乱と復興を象徴する、昭和の怪商。
争奪戦を制した、中国人経営者――

圧倒的な取材力を持つ筆者が、語られざる“タブー”に迫る。

編集部おすすめ