1973年夏の甲子園。作新学院の怪物投手・江川卓が、銚子商業との一戦で延長12回169球を投げ抜いた。
高校3年間で100試合以上投げ、連打を浴びたのは7回だけ
1973年8月16日、夏の甲子園大会八日目の第三試合 作新学院対銚子商業戦。
ダグアウト裏の通路で壁を背にして対面になって座って待機している銚子商業と作新学院の両選手。それぞれの顔には緊張の欠片もなく朗らかな笑みさえ浮かべている
「暑くなれば江川は水とかコーラかぶ飲みするからな」
「そうだよな、ハハハハハ」
これから試合を始めるというのに和気あいあいに話をしている。普通なら緊張して押し黙っているのに側にいた関係者たちは「なんだこいつら。練習試合前じゃねえんだぞ」と、この和やかなムードを見て逆に困惑する。
“普通じゃない”、そう始まる前からすでに普通ではなかったのだ。
「プレイボール」
どんよりとした曇空の下、球審の高らかな声がかかり、サイレンと同時に試合は始まった。作新はチャンスを作るがことごとく得点に結びつかずに試合は進み、五回が終わって両軍とも無得点。江川は被安打2、奪三振がなんと1個しかない。江川は、長丁場になることを見越して完全に省エネ投法に徹している。
試合が動いたのは七回裏、銚子商業攻撃。四番木川博史、五番青野達也が連続安打、送りバントで一死二、三塁。
五番レフト青野は江川キラーとして全国に名を轟かせていた。この試合でも5打数3安打と大当たりで計14打数8安打。全国でこれほど江川をカモにした男はいない。
「不思議と相性がよかったですね。なぜ打てたかはわからないです。ただ気持ちで負けたことはありませんでしたね。江川はテイクバックが小さいから余計に速く感じましたね。どんなピッチャーにあたっても江川以上に速いピッチャーは見たことがありません」
銚子商業は絶好の得点チャンス。江川は、これを含めて連打されたのは7回しかない。1年時に2回、2年時に3回、3年時に2回の計7回。
中盤あたりから気にも留めないほどの小雨が時折パラパラしていたが、七回あたりから雨粒が肉眼でも見えるくらいの本降りになってきた。江川はしきりに右手を後ろポケットに入れて指先を湿らせないようにしている。
八、九回とも二死からヒットでランナーを出すが、後続を抑え無得点。もはやヒットを打たれても点を与えなければいいと江川は考えている。
0対0で互いに譲らず延長戦に入る。
サードコーチャーをしていたファースト岩井美樹は、江川と一番仲が良かった。作新と銚子商業は秋の関東大会以来、一年間に4試合も対戦していたためお互い顔見知りとなり、それ以来岩井と江川は旧知の仲となる。
開会式の予行練習後、外野の通路で江川は岩井とふざけ合っているし、この試合も江川が出塁すると冗談ばかり言いあって審判に「私語を慎みなさい」と注意される。
一度、私語をしている隙に牽制が入り、間一髪セーフ。
「プライス(元デビルレイズ)の162キロより江川のほうが早く見えた」
「2006年に全日本の監督になってキューバのハバナで開催された第三回世界野球選手権でデービット・プライス(元デビルレイズ)が101マイル(約162キロ)投げたんですけど、ベンチでみる限り江川のほうが速かったですね。
江川のボールを見たものが監督になったら、やっぱり江川みたいなボールを投げる奴を探し求めます。あの当時、江川と対戦している指導者はみんなそうなんじゃないですか! 僕が世界を見ても江川が基準ですから」
江川のようなピッチャーはいまだ現れていない。あの球を一度でも見た者は麻薬のように虜になり、夢のボールを追い求めてしまうのだろうか
運命の神様は、この試合の決着を決めかねているかのように、ただただ大粒の雨を降らす。
そして運命の延長十二回裏。
この裏から照明が付き、カクテル光線が大きな雨粒をキラキラ反射させながらグラウンドに降り注ぐ。丹念に手にロージンをつけてボールを握る江川だが、雨のせいでボールが手に馴染まないのか先頭打者の磯村を四球で出した。
続く土屋をライトフライに打ち取りワンアウト。少し落ち着いたかに見えたが、次の多部田が執念でセンター前にヒット。これで一死一、二塁。
江川は、六回から毎回安打を打たれている。こんなことは高校に入って初めてのことだった。
作新は当然満塁策を取る。
このとき歩かされたのがトップバッターの宮内。ファーストベース上で、どんなときでも威風堂々としている怪物江川卓が窮地に立たされているのを見て「江川さん、がんばれ」と自然に呟いた。
ライバルチームだけれども誰よりも江川ファンと自認し、江川卓を甲子園でまだまだ見ていたい思いから出た純粋な言葉。江川を中心に、ランナー、バッター、守備陣のそれぞれ去来する思いが錯綜する場面でもあり、フィナーレが近づいている証拠でもある。
二番の伏兵長谷川が打席に入る。この試合、珍しくタイミングがバッチリ合い、二本ヒットを放っている。ベンチのサインは「打て」だ。斉藤一之監督、最後まで強気の姿勢を崩さない。不調だろうと江川に少しでも隙を見せたらヤラれる、江川を最大限にリスクペクしている斉藤だからこそ気迫をより奮い立たせる。
初球ストレートでストライク。二球、三球目はボールとなり、四球目の外よりのストレートをファウル。
ここで江川はタイムをかけ、内野陣を集めた。試合の機微を察知したからこそ、江川は自らの意思を尊重しタイムを要求した。内野陣が小走りで走ってくる。皆、雨でグショグショすぎて顔色なんてわからない。江川はどやされる覚悟で訊く。
「次の球、好きな球を投げていいか」
頼りなさそうな顔を浮かべる江川。初めて見る顔だ。
「ここまで来たのはおまえのおかげだから好きなとこ投げろ!!」
江川が投じた169球目が無情にも…
誰ともなく返ってきた。このとき初めて江川はみんなの顔をまともに見れた。甲子園に来てから、いや県予選のときから江川はずっと俯いた顔をしていた。
ノーヒットノーランをいくらやろうが、江川はバツが悪そうにナインとなるべく目が合わないようにしていた。センバツ以降心のスタンスが明らかに変わったのは肌身で感じている。
返事を聞いたせいか、雨でぼや~としていた視界が開け、照明がついていることもようやく気付いた感じだ。江川が生き返った。
「よし、行こうぜ」
キャッチャーの亀岡がみんなに声をかけ、各々持ち場へと戻った。
あのとき、同じ場所で同じ雨に打たれてみんなずぶ濡れだった。そして皆が同じ思いとなった。マウンドに集まったのは後にも先にもこれ一度きりだった。
打席にいる小柄の長谷川は、3年夏前にレギュラーに抜擢された。1、2年のときは対戦相手の試合を偵察に行くマネージャーだった。三年になると、入ってきたばかりの一年生篠塚和典(元巨人)がすぐレギュラーとして起用されたため、長谷川は三塁コーチャーを担当する。あるときレギュラー組の走塁練習でショートに入っていた長谷川が、ランナーで走ってきた篠塚の肘にカウンター気味にタッチし骨折させてしまう。
「ええ、意図的にやりました」
長谷川は平然とした顔で言った。悪気がどうこうの問題ではない。名門校の食うか食われるかのレギュラー争いは綺麗事でどうなるものではない。
その後、長谷川は篠塚に代わってレギュラーを獲得する。とにかく長谷川は1年時から誰よりも江川を見てきている。高校3年の江川の球は高1、高2のときと比べると格段に球威もスピードも落ちていた。
銚子商業ナインは試合前から勝つんだという意識は高かったが、調子が悪いといえども江川は江川、ナイン全員警戒は怠らなかった。ただ長谷川だけが江川を必要以上に意識しなかった。
「こういう場面でも“打て”のサインを出してくる斉藤先生はやっぱり凄い。僕自身そうだろうなと思ってましたけど。ツースリーになって作新がタイムを取ったのでベンチに呼ばれてストライクスクイズのサインが初めて出ました。もしストライクがきてたらわかんなかったです」
長谷川は、県予選から不思議と重要な場面に回ってくるラッキーボーイ的存在だった。俺がこの場面でストライクスクイズを決められなかったら、俺を入れる意味があるのか。長谷川は多大なプレッシャーよりも男冥利というか男意気を感じる。
「さあ、来いや!」
延長十二回、一死満塁の最終打席、全国2660高校の球児たちのなかで長谷川だけが唯一江川を同等に見ていた。いやむしろ格下に見た瞬間だった。
「ボール!」
江川が投じた169球目が無情にもボールの判定。土砂降りの雨のなか、決着がついた。
試合が終わった瞬間、江川は悔しさよりもあ~終わったんだという気持ちになった。満足感、安堵感とも違う。終わったんだ~という、ただそれだけの気持ちになった。
文/松永多佳倫 写真/shutterstock
怪物 江川卓伝
松永 多佳倫

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