「論破」から「本質観取」へ…熊本大学・苫野一徳准教授らが語る対話革命の時代とは?
「論破」から「本質観取」へ…熊本大学・苫野一徳准教授らが語る対話革命の時代とは?

「本質観取」という言葉を耳にしたことはあるだろうか。その名のとおり、物事の本質を見極めるための、哲学2500年の叡智と歴史が詰まった思考の方法だ。

参加者たちはさまざまな概念や事柄の本質を、対話を通して言葉に編み上げ合うことで、互いが納得する「共通了解」を見出すコツをつかんでいく。
「論破」が流行した時代から数年が経ち、国際情勢が暴力的なパワーゲームに支配される中で、対話の可能性は本当に残されているのだろうか。『本質観取の教科書』の著者らが語る、真の対話が持つ力とその社会実装への挑戦とは。

──もともと、今回の新書は哲学の知恵をもとにして「対話の教科書」をつくりたい、という数年前のアイデアが原型でした。当時は「論破」が流行し、勢いよく相手を言い負かすのがカッコいい、という空気が広まっていたことを覚えています。それから数年を経て、対話をめぐる状況はどのように変わっていると思いますか?

岩内 マクロな視点で見ると、国際関係ではロシアや中国やアメリカといった大国が、いまや明確に暴力によるパワーゲームに入っています。でも、ある意味でこれは対話について改めて考えるチャンスかな、とも思うんです。

──どういうことですか?

岩内 パワーゲームが支配的になってきた時に、もう対抗手段がなくなってくるんですよ。複数の人間が、あるいは複数の国家が何かを決めようとすると、究極的には手段は「殴り合い」か「話し合い」しかありません。

殴り合い(暴力)がはびこる状況を見せられて、これに対抗しようという時に、何か他の選択肢はあるだろうか。また全員でパワーゲームの中に入っていって、力と力による終わりなき闘争状態に戻るしかないんだろうか、という転換点に私たちは立たされている。

そんな中で、より多くの人々が対話に希望を持つことができれば、状況は変わります。

そう簡単に合意形成やルールメイキングを成し遂げることはできないけれども、その困難さも知ったうえで、対話を継続していくということがパワーゲームの発現を抑止するためのひとつの重要な道になるんだ、いや、それ以外に手はないんだと。そのことを改めて冷静に考えるべき大事な場面にさしかかっているのかなと感じています。理想論だ、甘っちょろいと言われてしまうかもしれませんが……。

稲垣 私、このあいだ留学生たちの日本語クラスで本質観取をやったんですが、大変でした。そのクラスには中国の人も香港の人も台湾の人もいるんですよ。テーマを「平和とは何か」にして、「あなたの国ではどういう状態が平和ですか」ということを議論してもらったら、やっぱりシビアな空気になって。結構コンフリクト(摩擦)も起こりました。互いに緊張関係にある国の出身者の学生同士が、お互いの国を悪く言い合ったりとか。

留学生のクラスって、本当にピリピリしています。さまざまな国から来た人が集まっているので偏見や差別もあるし、あんなヤツとは口も利きたくないと裏で思っている人たちもいる。でも、そういう場でこそ対話をすることに意味があると思っているんです。

苫野 すごいな……。

本当に最前線の現場ですよね。

稲垣 本質観取と日本語教育の現場は相性が良い、と言った裏側にはそういった背景もあります。文字通り、一触即発の世界の中であえて対話の場を持つことにすごく意味があると考えていて。だから私は、もっときわどい世界で本質観取をどんどんやっていきたいなと思っています。

苫野 ちなみに「平和」の本質観取はどんな感じになったんですか?

稲垣 やっぱり「共存」がキーワードになりました。ただ、その前の段階で「生命の安全が保障されていることが一番大事」と。生命の安全が保障されており、対話によって共存できる世界。それが平和だ、という感じになりました。

苫野 素晴らしい。そこまで対話ができたんだ。本当に可能性を感じますね。

本質観取の哲学的な意味

岩内 いま思いついたんですが、本質観取には哲学的な意味もあると思うんです。私が大学の学部生だったのは2000年代でした。

私の出身は国際教養学部で、竹田青嗣先生が所属していたところです。当時は相対主義の全盛期でした。

ポストモダン思想が流行ったのは1960年代後半くらいからですが、1990年代から2000年代にかけてはポストモダンそのものよりも、それを理論的基盤にしたジェンダー論とかカルチュラルスタディーズが大々的に展開されていました。そこでは「人それぞれ」とか「差異」というものが大事にされていたんです。つまり、違いを大切にしよう、というわけです。

そんな空気の中で「本質」とか「普遍性」なんて言おうものならボロクソに批判されます。いまだに覚えているんですが、私が授業内で普遍性ということを言ったら、「お前が言う普遍性って何なんだ!」と、クラスメイトや先生から厳しく突っ込まれたこともありました。

いま『本質観取の教科書』がこれほど一般に広く受け入れられている背景には、単に「対話が大事だよね」という関心以上のものがあると私は思っています。やっぱり「人それぞれ」とか「多様性」と言っているだけでは限界があるということを、みんな感じ始めているんじゃないでしょうか。

それは決して学問の世界だけに限った話じゃなくて、普通の人たちが生きている中で、単に多様なだけじゃダメだよね、多様性って何のためにあるんだっけ、ということを悩んでいる結果だと思うんです。

──「人それぞれ」を突き詰めていくと、究極的には「なんでもアリ」になってしまう。そうではなくて、誰もが納得できるような「普遍的な」正義や善といったものを模索すべきなのではないか、という議論ですね。

岩内さんは『新しい哲学の教科書』(講談社選書メチエ)や『<普遍性>をつくる哲学』(NHKブックス)などのご著書で普遍性の問題を論じられていますが、『本質観取の教科書』もその延長上にあるのですね。

岩内 この間も東京の高校で講演をしたんですが、「多様性って何なんですかね?」という質問が出ました。やっぱり中高生も肌感覚として、そういうことについてちゃんと考えたいと思っているんだな、と。そういう文脈の中で『本質観取の教科書』が一般向けの新書として世に出たことには時代的な意味があると思うんです。その重要性はこれから先も、まだまだ伸びていくんじゃないでしょうか。

本質観取はファシリテーションが命

──今回の新書に対するSNS上の意見や感想を見ていると、どれだけ深い本質観取ができるかはファシリテーターの腕前に依存してしまうのでは? との声が見られました。実際はどうなのでしょうか。

苫野 ファシリテーターの力量はとても重要です。だからこそ、『本質観取の教科書』ではファシリテーションのコツをかなり詳しく書きました。これを読んで、たくさん経験を積んで、ぜひ習熟していただきたいなと願っています。

かつて350人で本質観取をやったことがあります。

──そんな大人数で!

苫野 これほどの大人数でも、結構うまく行くんですよ。グループ対話と全体対話を交互に進めていくんです。

グループで対話する人たちは、みんな本質観取もそのファシリも初めてでした。その場合も、経験豊富なファシリテーターが全体対話のファシリをすれば、ある程度深い本質観取が可能です。

でも、質の高い本質観取の対話をするには、やっぱり各グループでもファシリテーターを決めて、その方々にあらかじめコツを共有しておいたほうがいいな、と最近は考えています。

──事前の準備や勉強はどうすれば良いのか、という声がSNSでは見られました。やはり究極的には、場数をこなして経験を積むしかないのでしょうか。

苫野 本にも書きましたが、知識の量はあまり関係ありません。参加者が自らの経験に基づいて対話するのが本質観取なので。

岩内 経験を積むしかないと思いますね。私も今年度、地域の図書館などでファシリテーター養成講座を開催したんですが、やっぱり関心を持っている方が多いみたいです。地方議員の方も来ていました。皆さん、ファシリテーションは難しいと感じているらしくて。最初に一定程度コツを伝えてあげて、あとは自分たちで試してもらうという形にしました。

稲垣 日本語教育では、ファシリテーションにおいて一番問題になるのは学習者の日本語のレベル、というか習熟度です。それによってファシリテーターの難易度が変わってきます。よく質問されるのは、まだ日本に来て間もない、日本語が初級の人たちにどうやって日本語で対話すれば良いんですか、ということです。

まだあまり複雑なことは言えない。でも、母国語ではすごくレベルの高いことを考えていて……という学習者。そんな人たちの日本語をどのように引き出しながらやっていくのか、というのは日本語教育におけるファシリテーターの最大の課題だし、チャレンジしがいのあるところですよね。

私がいま構想しているのは、色々な日本語学習者のレベル別に「それぞれこういうファシリテーションの仕方があるよ」ということをもっとわかりやすい形で提示できたら、現場で役に立つようなテキストになるだろうな、と。複言語など、皆さんの言語リソースを十二分に活用しながらファシリテーターをどのようにやっていくのか、ということを考えていきたいと思っています。

本質観取を地域に浸透させる

苫野 このあいだFC今治高等学校里山校という、開校2年目の非常に自由な学校に行きました。サッカーの岡田武史監督が学園長を務める、探究の教育に振り切ったようなところです。そこで本質観取をやったんです。

終わった後に、生徒たちが何人も来てくれて、「今日の本質観取とてもおもしろかったです。そこで私たち、哲学対話部をつくりたいです!」って言ってくれて。「ついては学外顧問をお願いします」と頼まれ、あれよあれよといううちに手続きも進み、新しい部ができました。

それこそ“論破”でも“言いっぱなし”でもなくて、真に本質に迫る対話を体験したうえで、ああ、こういう可能性があるんだと知って、それに希望を抱いてくれる若い人たちが現れたことは、嬉しいですね。

日本人に限らないかもしれませんが、これまで大人が真に建設的な対話をしてこなかったし、学んでこなかったと思うんです。論破芸のような、一見すると派手でマウントを取れるようなやり方に惹かれてしまうのも、多くの日本人が質の高い対話を経験したことがないからではないかと思います。本当に建設的でよい対話が存在するんだと知ることができれば、そこを目指せるはずです。

真に優れた対話を経験すると、その良さは必ず広がっていくんじゃないかと私は思っています。楽観的すぎるかもしれませんけれども、そういう良い対話をちゃんと体験できるような場をたくさんつくっていくのも我々の仕事のひとつと考えています。

岩内 私はとある地区の保育園の園長会で哲学対話の研修を開いたんですが、まずは園長に哲学対話のやり方を知ってもらい、それから保育士の皆さんの間にもそれを広めてもらって、という二段構えにしました。そういう形で、少しずつ知見を広げていくしかないですね。

大学でも、まずは学生ファシリテーターを育てています。来年度からは学生ファシリテーターを連れて地域の人のところに行ってもらう予定です。ただ単に本を読んでください、だけでは難しいところがあるんじゃないでしょうか。核になる人を育てないと。

そういえば、苫野さんはもう熊本を“拠点”化しているんですよね。

苫野 拠点(笑)。

岩内 これは結構大事で。つまり、「この地域に行けば本質観取が広まっている、根づいているという地域をどれぐらいつくることができるか。私のいる愛知県豊橋市は人口38万人ほどの街ですが、いつかは本質観取を浸透させたいと思っています。

地域の中に本質観取が根づいていて、あちこちで常時やっている。色々なファシリテーターがいる、というのが理想ですね。そういう「拠点」を日本全国に少しずつ増やしていきたいです。東京には稲垣さんも、西研先生も竹田青嗣先生もいます。各地でそういう場所が出てくると、「熊本詣で」じゃないですけれども、とにかく本質観取を学びたければ熊本に行こう、みたいな流れができる。それぐらいのことが起こってくれば面白いですね。

稲垣 私は今度、日本語教育の教員養成課程で本質観取を始めます。日本語教育の現場に広げることも大事だけど、教員養成の人たちにまで広げていきたい。そうすると、ファシリテーターが色々なところに生まれていくことになるわけです。

苫野 昨年、一般社団法人ホンシツカンシュという団体を設立しました。稲垣さんも岩内くんもメンバーになってくれています。今度、4月からファシリテーター養成講座を始めます。ふたりにはその講師も務めていただくことになっています。

もともと熊本では、本質観取の可能性を感じてくれた経営者の方とか、私のゼミの卒業生たちなんかと、いろんな場で本質観取をずっとやっていたんですね。その経営者の方は、「本質観取Bar底板」というのもつくって、私のゼミの学生たちがバーテンダーとしてファシリテーターを務めながら、お客さんと一緒に本質観取をやる、なんていうことも続けていました。

こういう地道な活動が少しずつ広がって、一般社団法人ホンシツカンシュの設立に至りました。本質観取が、そしてそのファシリテーションができる人たちが草の根的に広がっていけばいいですよね。

本質観取の時代をもう一度!

――最後に、『本質観取の教科書』出版以降の目標や展望についても伺えますか?

岩内 今後10年で「本質観取の時代」を実現させたいですね。いわゆる社会実装をしたいです。いつか竹田青嗣先生が言っていたんですが、独りじゃできないけれども、何人か優秀な若手が出てきたら実現可能だと。いまは稲垣さんがいて、苫野さんがいて、下の世代にも本質観取の重要性を認めてくれる若い人たちがいるので。その世代で本質観取や普遍性というものを、単に理屈だけに留まらせず、実際に社会実装していくのが目標です。

稲垣 私は理念と実践の両面でそれぞれやりたいことがあります。まずは今回、力及ばず書けなかった「ことばにとって本質観取とは何か」というテーマについて、きちんと哲学的に書いて、それを日本語教育学の礎にしたいと思っています。現象学的には言語の本質とは何か、言語教育で本質観取をやることにはどういう意味があるのかを文章として形にしたいです。

実践面では先ほども言いましたが、本質観取は日本語教育の色々なレベルで扱えるということを伝えられるように、大きなワークシートのようなものをつくりたいですね。初級のこのレベルだったらこんなトピックはどうだろうか、このレベルだったらどうするか、というのを事例も豊富に入れて書きたいと考えています。

苫野 昨年、竹田青嗣先生との対談で『伝授! 哲学の極意』(河出新書)という本を出版しました。その書き出しは、“哲学は瀕死の状態である”で始まっています。

実際、この数十年で哲学はほとんど死にかかっています。目指すべき指針や価値を打ち出せなくなり、細かな実証研究のような形で哲学者たちのことを扱うか、あるいはちょっと斜め上から物事を見て、「こんな考え方も面白いでしょ」と言うような、単なる知的遊戯みたいなものが多くなってしまった気もします。

今回の本では、「哲学の本質は本質観取である」という主張を正面から打ち出しています。真の意味で哲学が蘇るためには、本質観取の時代をもう一度再興する必要があると思うんですよね。「これこそが哲学の本当の意義なんだ」ということを改めて強く訴えていきたいです。

また、今回の本ではあまり書かなかったんですが、科学も本質観取をベースにする必要がある場合が結構多いんです。特に社会科学がそうですね。

いまはエビデンス全盛時代で、EBPM(エビデンス・ベースド・ポリシー・メイキング=根拠に基づいた政策立案)ということが喧伝されています。ちゃんとエビデンスに基づいて政策や実践をやるんだ、と。でもそのエビデンスは、果たして本当に良い社会に資するものなのか。そういうものをちゃんと測定できているんですか? 良い教育に資するようなものを測定しているんですか? という部分はほとんど問われていません。

つまり根底に哲学が無いので、とりあえず手近なものを測定してエビデンスだと言ってしまう。「それを測定することに何の意味があるんですか?」と思うような研究も多い。そんな時にこそ、やっぱり本質観取が必要になってきます。

よい教育に資するエビデンスとは何か。そもそもよい教育とは何なのか。よい社会とは何か。本質観取をベースにすることで、より本質的な研究や政策立案ができるようになるはずです。そして改めて、平和は最後の最後、対話によってしかつくり出せません。そのために微力ながら、できることを全力でやっていきたいなあという思いを新たにしました。

取材・構成/集英社新書編集部

本質観取の教科書 みんなの納得を生み出す対話

苫野 一徳、岩内 章太郎、稲垣 みどり
「論破」から「本質観取」へ…熊本大学・苫野一徳准教授らが語る対話革命の時代とは?
本質観取の教科書 みんなの納得を生み出す対話
2025年11月17日1,056円(税込)新書判/256ページISBN: 978-4-08-721389-8

自分とは異なる立場や考えの人と、いかに対話し、合意形成していけばよいのか分からない。
それどころか、深刻な信念対立を目の当たりにし、対話への希望を失ってしまう。そんな人は多いのではないだろうか。
本書は、「本質観取」と呼ばれる哲学の思考法・対話法を、誰もが実践できるようになるための入門書である。
分断をのりこえ、民主主義を成熟させるための対話の極意とは?
実践で活用できるワークシートや、ファシリテーションのコツなども収録。

社会学者 橋爪大三郎氏
とにかくわかりやすくて面白い。実例が豊富なので、
本質観取の哲学対話が、これで誰でもすぐできる。

独立研究者・著作家 山口周氏
対話を通じて、多様な他者と相互承認・共通了解へと至る「本質観取」の方法は、
多数の関係者を束ねるビジネスリーダーにこそ求められます。

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