在大阪中国総領事館は2月15日、大阪市の繁華街・道頓堀で起きた殺傷事件を受け、中国国民に改めて日本への渡航を自粛するよう呼びかけた。中国が治安を理由に訪日を控えるよう促す動きは、これまでも繰り返されてきた。
GDPを0.29%押し下げる可能性…渡航自粛による経済影響
今回の渡航自粛呼びかけが、単なる「注意喚起」にとどまらないことは、数字を見れば明らかだ。日本政府観光局(JNTO)の統計によると、2025年12月の中国人訪日客数は33万400人で、前年同月比45.3%減となった。
一方、全体の訪日客数は361万7700人と3.7%増加しており、中国市場だけが大きく落ち込んでいることが分かる。かつて約30%を占めていた中国人観光客のシェアは、現在21%台まで低下している。
こうした減少が日本経済に与える影響は小さくない。
野村総合研究所の試算によれば、中国・香港からの訪日自粛が1年間続いた場合、日本の消費額は約1兆7900億円減少し、GDPを0.29%押し下げる可能性があるとされている。これは一企業や一地域の問題ではなく、国全体の景気に影響する規模だ。
最近では、春節を前に日本への航空便の減便や無料キャンセル期間の延長も相次いでいる。中国国際航空など複数の航空会社が、2026年秋まで柔軟な対応を続ける方針を示しており、旅行需要の冷え込みは長期化する可能性が高い。
こうした動きは、現場に直接響く。観光地では「予約のキャンセルが相次いでいる」「団体客が戻らない」といった声が上がり、特に中国客への依存度が高かった地域ほど打撃は深刻だ。
コロナ禍からようやく立ち直りつつあった宿泊業や飲食業にとって、今回の動きは追い打ちとなっている。
訪日自粛呼びかけは、決して「今回が初めて」ではない。むしろ、中国政府は10年以上にわたり、同じような手法を繰り返してきた。
象徴的なのが、2010年の尖閣諸島沖中国漁船衝突事件後だ。
当時、北京市の観光当局は旅行会社に対し、事実上の訪日自粛を口頭で要請したと報じられた。その後、中国人観光客は急減し、日本の観光地は大きな打撃を受けた。同時期にはレアアースの輸出制限も行われ、経済面から圧力をかける姿勢が鮮明になった。
国際社会からも批判される「中国の常套手段」
2012年の尖閣諸島国有化後も、状況は同じだ。中国各地で反日デモが発生し、訪日旅行の自粛が広がった。その結果、中国人訪日客が最大で約30%減少した時期もあり、観光地は深刻な影響を受けた。この時期の影響はGDPを約0.3%押し下げる規模だったという試算も出ている(野村総合研究所)。
こうした経済圧力は、日本だけに限らない。2017年には、韓国が米国製のミサイル防衛システムTHAADを配備したことに反発し、中国は団体旅行を事実上禁止した。その結果、訪韓中国人客は約半減し、韓国経済にも大きな打撃を与えた。
このような経済圧力は中国の“いつもの手口”である。国際的にもAustralian Strategic Policy Institute(ASPI)や国際経済連携推進センターの報告書で、中国が政治的な不満を持った相手国に対し、観光や貿易を使って圧力をかける手法を「常套手段」と位置づけている。
「治安」「安全」「国民保護」といったもっともらしい理由を掲げながら、実際には外交カードとして経済を使っている。今回の動きも、過去の延長線上にあることが分かる。
今までとの大きな違い…報復から常態圧力への転換
今回の渡航自粛呼びかけがこれまでと決定的に違うのは、「明確な外交衝突」が直前に存在しない点だ。2010年の尖閣諸島沖衝突事件や2012年の国有化問題の際には、日中間に具体的な対立があり、それに対する“報復”として観光や貿易が揺さぶられた。いわば「日本が何かをした結果としての制裁」という構図だった。
しかし今回は、大阪で起きた民間の治安事件をきっかけにしている。
国家間の大規模な外交摩擦があったわけではなく、日本政府が何らかの強硬措置を取ったわけでもない。それでも渡航自粛が打ち出された。
政治経済学の観点から見ると、中国の対外戦略は近年変質している。従来は「問題発生→報復」という単発型の制裁が中心だったが、現在は小さな出来事を利用し、断続的に圧力をかけ続ける形へと移行している。これは、相手国に長期的な不安定コストを与える戦略だ。
今回の自粛は、まさにその「常態圧力型」に近い。つまり、明確な報復というより、「いつでも圧力をかけられる」というメッセージを送る行為だ。
明確な火種がない中で、民間の小さな火種を増幅させ、蛇口を閉めるように観光客をコントロールする。これは日本経済の弱みを握り続ける「管理型の圧力」へのシフトだ。
「いつでも止められるぞ」という不確実性を突きつけることで、日本の投資意欲を削ぎ、外交的な譲歩を迫る。我々はこの「新段階の揺さぶり」の中にいることを自覚すべきだ。
米中対立での焦りと「国際ルールへの配慮」
なぜ中国は繰り返し日本を標的にするのか。その背景にあるのは、近年ますます深刻化している米中対立と台湾問題だろう。
現在、日本は日米同盟を軸に、安全保障や経済政策の面で米国との連携を強めている。半導体の輸出規制への協力や、台湾海峡の安定を重視する姿勢など、中国から見れば「明確に米国側に立つ国」になりつつある。
その結果、中国にとって日本は「圧力をかけることで政治的メッセージを送りやすい相手」となった。軍事的な対立は避けたいが、何もしなければ影響力は低下する。そこで選ばれるのが、観光や経済を使った間接的な圧力だ。
近年の制裁手法が巧妙化している背景には、国際ルールへの配慮が推測される。
露骨な禁輸や制限は、世界貿易機関の枠組み上、問題視されやすい。そのため現在は、「注意喚起」「安全配慮」「自粛要請」といった形で、法的に追及されにくいグレーゾーンの圧力が多用されている。今回の訪日自粛は、その典型だろう。
中国自身の経済状況も無視できない。不動産不況、若者失業率の高止まり、成長率の低下などにより、国内経済は不安定さを増している。
かつてのように、大規模な経済制裁で相手国を圧迫する余裕はなくなっている。そのため、観光分野などの「低コストで効果を出せる圧力」に依存する傾向が強くなっている。
中国人観光客の存在感はまだ大きい
日本にとってみれば、インバウンド市場の多角化は進んでいるものの、中国人観光客の存在感はまだ大きい。今回の自粛は、偶然でも感情的な反応でもない。中国の対米戦略の中で、日本経済の対中依存が外交カードとして活用されている。
中国による渡航自粛が「管理型の圧力」として常態化しつつある中で、日本にとって最大の課題は、こうした揺さぶりに振り回されない体制を築けるかどうかが正念場だ。
近年、日本は市場の分散化を進めている。
しかし、地域や業種によって依存度の差はいまだに大きい。とくに中国人観光客を主要な顧客としてきた観光地は、需要の変動が経営に直撃する状況が続いている。今回の自粛によって予約キャンセルや客足減少が起きれば、雇用や資金繰りにまで影響が及ぶ。こうした不安定さが常態化すると、長期的な投資は厳しくなる。
渡航自粛は、日本にとって一つの警告
管理型圧力が続けば、観光需要は「戻るかもしれないが、また止まるかもしれない」。企業にとって最も避けたい環境であり、地域経済の体力をじわじわと削っていく。
いま最も日本に求められているのは、単なる市場分散にとどまらない構造転換だ。特定国への依存を抑えるだけではなく、高付加価値型観光の育成や長期滞在型需要の開拓、国内観光との連携強化など、安定性を重視した戦略へと軸足を移す必要がある。
政府や自治体も、インバウンドを「外部環境に左右されやすい産業」という事実を踏まえて安全保障の観点でリスクと対策を検証していくことが求められる。訪日客は増えれば良いという短絡的な政策では、同じ問題が何度でも生まれる。
今回の渡航自粛は、日本にとって一つの警告でもある。便利さや市場規模だけに依存してきた構造を速やかに見直さなければ、今後も“訪日自粛”という圧力カードに振り回されるだろう。
日米同盟が国防の中核でありながら、経済は中国に依存するという板挟みを解消できるかどうか。その分岐点に、今の日本は立っているのである。
文/村上ゆかり 写真/shutterstock

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