チームみらいが違和感を抱かれる理由「感情的反発を超えた相違が存在」…消費減税をディスる「管理社会」の先にある自由の行方
チームみらいが違和感を抱かれる理由「感情的反発を超えた相違が存在」…消費減税をディスる「管理社会」の先にある自由の行方

先の衆院選で躍進したチームみらいに関して様々な情報が飛び交っている。例えば経済学者・竹中平蔵氏のバックにいるというもの。

これに関しては党首・安野貴博氏らが公式に否定したが、もとを辿れば竹中氏がみんかぶマガジンにて安野氏のデジタル相就任について勧めたという事実しかないところに、SNSで尾ひれがついた形だ。他にも「中国の影響下にある」といった真偽不明のポストもみられる。なぜ、こんな事態になっているのか?

単なる感情的な反発を超えた、社会のあり方をめぐる視点の違い

新しい政治の形を提示しようとする「チームみらい」という存在は、閉塞感の漂う現代日本において、一筋の鋭い光のように現れた。デジタル技術を自在に操り、複雑な社会問題をデータと論理で解き明かそうとする安野貴博氏の姿は、多くの現役世代に「ようやく自分たちの言葉を話すリーダーが出てきた」という期待を抱かせた。

しかし、その政策が具体的になるにつれて、SNSからは静かな、しかし根深い違和感が寄せられた。なぜ、彼らの合理的で洗練されているはずの提案が、一部の人々に受け入れがたいものとして映るのか。

そこには単なる感情的な反発を超えた、社会のあり方をめぐる深い視点の違いが存在する。チームみらいが掲げる「新しい統治」の姿を、あえてその反対側に立つ人々の目線から、丁寧に読み解いてみたい。

チームみらいが掲げる政策の中で、多くの議論を呼んでいるのが、消費税の減税を避け、社会保険料の引き下げを優先するという方針である。安野氏は「現役世代の負担を減らすには、消費税よりも社会保険料の軽減が効果的だ」と繰り返し述べている。働く世代の手取りを増やすという目的そのものは、多くの人が賛成する方向だろう。

しかし、問題はその「選び方」にある。本来、税金も社会保険料も、国民から強制的に集めるお金であることに変わりはない。

どちらも下げることで、国民が自由に使えるお金を最大化するのが自由主義的な理想だ。

しかし、チームみらいはあえて「消費税は下げない」という主張をした。ここに、「政府によるコントロール」を肯定する姿勢が見て取れる。

社会保障の「選択的な調整」の危うさ

広範な減税と、対象を絞った社会保障調整を比較した先行研究によれば、経済成長に対してより中立的かつポジティブに寄与するのは、消費税や所得税のような広範な減税なのである。

一方で、対象を限定した調整は、行政の複雑化を招き、結果として非効率を生むことが指摘されている。

これに関連して、Asimakopoulos and Karavias(2016)による広範な研究結果は示唆に富んでいる。

彼らは139カ国(1960–2010年)の膨大なパネルデータを用い、「閾値(しきい値)回帰分析」という手法で政府の規模と経済成長の関係を調査した。その結果、政府支出(社会保障支出を含む)の規模がGDP比で約18%前後という明確な境界線を超えると、経済成長に対して統計的に有意な「負の影響」を与え始めることを発見したのである。

特に、彼らが結論づけているのは、社会保障の「選択的な調整」の危うさだ。政府が特定の層や制度を狙い撃ちして手を入れることは、その運用・監視・調整のための管理コストを雪だるま式に増大させる。

これは「賢い管理」を目指したはずが、結果として肥大化した官僚機構と非効率を助長するという皮肉な結末を招くリスクを示している。

消費税の減税は、買い物をした人全員に、政府の個別の判断を介さず平等に恩恵が届く。対して、チームみらいのやり方は、政府が「どの負担を減らすのが正解か」という主導権を握り続けようとする姿勢に映る。

これが、一部の人々に「国家による管理の強まり」を感じさせる原因となっているのだ。

優れたエリートであっても、複雑な社会のすべてを見通すことはできない

チームみらいは、AIなどの先端産業に対して、国が積極的に成長投資を行うべきだと発信している。しかし、この「選択と集中」という考え方もまた、慎重な目で見られている。

本来、どの産業が伸び、どの技術が世界を変えるかは、自由な競争の中で決まっていくものである。政府が「これからはこの分野だ」と決めて多額の税金を注ぎ込めば、その分野だけが不自然に成長し、健全な競争が損なわれてしまう。

実証的にも、理論的にも、歴史的にも、政府による市場の先取りは失敗を繰り返してきた。

どれほど優れたエリートであっても、複雑な社会のすべてを見通すことはできない。それにもかかわらず、政府が投資家として主導権を握ろうとすることに、計画的な管理に近い危うさを感じる人々がいる。

彼らにとってチームみらいの政策は、市場の自発性を信じるのではなく、政府による「賢い設計」を信じすぎているように映るのである。

浮かび上がる「極めて深刻な構造的欠陥」

「大きな政府か、小さな政府か」という、近代政治が長年向き合ってきた二元論に対し、チームみらいが提示する「状況に応じて伸縮する政府」という解は、一見するとテクノロジー時代の最適解のように映る。

AIやデータ分析を駆使すれば、危機の際には迅速にリソースを投入し、平時には速やかに身を引くという「機動的な統治」が可能であるかのように思えるからだ。効率性を至上命題とするビジネスの視点から見れば、これは極めて合理的なリソース配分に見えるだろう。

しかし、この「伸縮自在」という理想を、権力の監視という民主主義の根本原則から見直すと、極めて深刻な構造的欠陥が浮かび上がる。政治学や経済学の世界で古くから知られる「ラチェット効果(歯止め効果)」という概念が、その懸念の正体だ。

これは、政府の権限や支出規模は、特定の危機の際、ラチェット(逆回転防止の歯車)が回るように一気に拡大するが、危機が去った後も決して元の水準には戻らないという不可逆的な性質を指す。

この現象の実証的な裏付けとして、経済史家ロバート・ヒッグスの古典的理論「ラチェット効果」が広く引用される。ヒッグスは1987年の著書『Crisis and Leviathan: Critical Episodes in the Growth of American Government』で、危機(戦争、恐慌、テロなど)時に政府の権限・支出が急激に拡大し、危機が去った後も一部しか縮小せず、元の水準に戻らない「歯車のように一段高いレベルで定着する」メカニズムを体系的に説明した。

この枠組みは、20世紀以降の米国政府成長を説明する主要なパラダイムとして、多くの研究で支持されている。

緊急事態の特別権限が、平時移行後も大部分が制度に残存

具体例として、フランクリン・ルーズベルトによるニューディール政策(1930年代の大恐慌対応)、トルーマン時代の冷戦突入(1940–50年代)、9.11後の対テロ戦争(PATRIOT Actなど)において緊急事態ゆえに付与された大統領・行政機構の特別権限(規制強化、歳出拡大、監視権限など)が、平時移行後も大部分が制度に残存し、行政権力の恒久的な肥大化を招いたことが指摘されている。

たとえば、Miller Center(2025)の分析では、各大統領の単独行動がラチェット効果を生み、前政権より低い閾値で権限行使が可能になり、制度信頼の危機を招いていると論じている。

また、Mises Institute(2023)では、9.11対応のPATRIOT Actが20年以上経過してもプライバシー侵害的な権限を残存させ、自由の侵食を恒久化している典型例として挙げられている。

テクノロジーを駆使した「親切で効率的な政府」

このラチェット効果は、危機後の「再縮小」が不完全になる理由として、官僚機構の自己保存論理、イデオロギーの残渣、政治的利害関係を挙げており、チームみらいのような「状況に応じて伸縮する政府」提案に対しても、危機を口実に権限が恒久化するリスクを強く示唆する実証的知見となっている。

チームみらいが一部の人々から違和感や嫌悪感を抱かれる理由は、彼らが目指す「政府と国民の関係性」が、自由を重んじる人々の理想と根本的に異なっている部分があるからだ。

彼らが描くのは、テクノロジーを駆使した「親切で効率的な政府」だが、その前提には、政府が国民を導き、調整するという強い介入の意志がある。

政治の役割は、人々を管理することではなく、一人ひとりが自らの意志で、自由に、そして誇りを持って生きられる場を守ることにある。チームみらいという存在は、私たちに「どのような社会に住みたいのか」という重要な問いを投げかけている。

SNSでの反発は、近代社会が守り続けてきた「自立」という価値観が、新しい技術による管理とどう向き合っていくべきかという、切実な悩みの表れでもあるのだ。

文/小倉健一 写真/shutterstock

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