日経平均6万円目前に国際的投資家が警告「市場は冷酷、必ず請求書は届く」株高でも進む日本の“構造的窒息”
日経平均6万円目前に国際的投資家が警告「市場は冷酷、必ず請求書は届く」株高でも進む日本の“構造的窒息”

高市政権下で日経平均が5万9000円を突破し、6万円に迫っている。国際的投資家の木戸次郎氏は「投資をする人、つまり生活に一定の余白がある人々にとって、これほど都合の良い政権はない」と指摘する一方で「市場は冷酷だ。

じきに必ず請求書が送られてくる」と語る。いったいどういうことなのか?

投資をする人にとって、高市政権ほど都合の良い政権はない

今の高市政権は支持率が高い。選挙でも圧勝し、国会運営は盤石だ。税収は過去最高を更新し、株価も歴史的高値圏にある。

数字だけを並べれば、「うまくいっている国」といえるだろう。しかし政治において最も重要なのは支持率ではない。誰が、その政策の主語に含まれているのかである。

高市総理が繰り返す「国民の皆様のために」という言葉。その国民とは誰か。現在の政策設計を冷静に眺めれば、その中心にいるのは、投資余力を持ち、貯蓄ができ、資産形成が可能な約6割の層であるように見える。

NISAを拡充し、株式市場を活性化させ、「国民の資産を増やす」と豪語する––––投資をする人、つまり生活に一定の余白がある人々にとって、これほど都合の良い政権はない。物語は分かりやすく、美しく、安心感がある。

だがこの物語を続けるには条件がある。

円安を容認し続けること。円の価値を守るより、資産価格を守ること。ここに、この政権の経済運営の軸があるように見える。円安は株価と企業収益には追い風になる。

その一方で、「主語」から外される人がいる。それが年収300万円以下の約4割の人々だ。さらにその中でも、貯蓄ゼロの世帯は推計で1000万~1500万世帯、日本の総世帯の2~3割に達する。これは一部の不運な人々ではない。資産形成以前に、日々の生活で精一杯という層が、すでに社会の土台部分に広く存在しているという現実である。

いま日本で起きている多くの混乱は、政策の是非以前の、もっと根源的なところに原因がある。

政治は常に未来を語る。物価高対策、少子化対策、賃上げ、そして高市総理が声高に掲げる裁量労働制、さらには「責任ある積極財政」。

どれも理念としては理解できる。だが、その言葉が発せられる速度に、現場はついていけていない。というより、ついていける余白が最初から残されていない。

日本を覆う「構造的な窒息」

日本の大半を占める中小零細企業は、すでに最少人数で今日を回すことに疲れきっている。そこには、高市総理が声高に掲げる裁量労働制の前提となるような「裁量」も、「選択肢」も存在しない。

制度としては用意されていても、使えば現場が崩れる。育休も産休も、働き方改革も、すべて同じ構図の中で静かに形骸化してきた。それでも政治は前に進んでいるように見える。

制度は更新され、スローガンは洗練され、数字は整えられる。一方で生活は、変化しているのではなく、ただ消耗している。

現場は正直だ。外食産業は悲鳴を上げている。政府は米価ばかりを語るが、調味料、生鮮品、燃料費、家賃、設備費なども右肩上がりだ。

そこへさらに人件費がのってくる。

値上げすれば客足は遠のく。値上げしなければ赤字が広がる。これは努力不足ではない。構造的な窒息である。

「円安の日本では稼げない」という外国人労働者

医療も同じ構図にある。診療報酬は低く、大学病院では教授に至るまでアルバイトの掛け持ちが常態化している。看護師免許を持ちながら、激務と低賃金で現場を去る人が後を絶たない。

団塊ジュニア世代が本格的に高齢期へ入ったとき、この医療現場は本当に持ちこたえられるのだろうか。

コンビニですら、いまや技能実習生や外国人労働者なしでは回らない。しかし最近は、その彼らから「円安の日本では稼げない」という声が聞こえ始めている。

移民を受け入れなければ機能しない社会を作り、その移民にとってすら割に合わない国にしてしまった。もし彼らが日本に見切りをつければ、人手不足はさらに深刻化し、サービスの劣化と価格上昇が同時に進む。

二極化は、もはや統計ではなく、日常の実感として露わになっていく。

そもそも円安を容認したまま物価高対策を行うという発想そのものに矛盾があるのだ。輸入依存の日本にとって、円安と物価対策は本来対極にある。

それでも「責任ある積極財政」の名の下で補助金や給付金を積み上げる。それはブラックホールに資金を投げ込むようなものだ。為替と輸入物価の重力に吸い込まれ、手応えを感じる間もなく消えていく。残るのは財政の空洞化と「やった感」だけである。

円はやがて「価値の物差し」としての信頼を失っていく

円の国際的価値は、この8年で4割以上棄損した。通貨とは国家の信用そのものだ。その信用が削られ続けている状態で掲げられる「責任ある積極財政」。ここでいう「責任」が何を指すのか、問われるべきだろう。

円はやがて「価値の物差し」としての信頼を失っていく。それはハイパーインフレではない。

もっと静かで、しかし深刻な変化だ。

市場では別の現象が進んでいる。東証売買代金の約7割は外国人投資家だ。多くのヘッジファンドや投資銀行は、日本の金融機関から円建てで資金を調達し、その円で日本の株式を買い漁り、不動産を買い漁る。

株で儲け、資産価格で儲け、円安で為替差益を得る。三重取りだ。しかもその土俵は、日本の低金利と超緩和が用意したものだ。拍手を送る裏で、果実は静かに海外へ移転していく。

そもそも市場というものは、構造上、常に少数派が勝利するようにできている。多数派が安心し、同じ方向を向いた瞬間、その期待はすでに価格に織り込まれている。勝者は集中し、敗者は静かに広がる。

市場は冷酷だ。
時間は必ず請求書を持ってやってくる

本来、長期の積立投資とは、10年、20年という時間で波をならすものだ。数カ月で10ポイント上昇するような状況を「順調」と受け止めるのは、本来数年かけて得るはずのリターンを前借りしているに過ぎない。ここで必ず聞こえてくる言葉がある。「今回は違う」。バブルはいつもそう言われてきた。

社会の空気も荒れてきた。凶悪事件、詐欺、闇バイト…余白を失った社会では、自由は自由として機能しない。最も残酷なのは、この乖離が「自己責任」という言葉で処理されてしまうことだ。

最後に問わねばならない。高市政権が言う「責任ある積極財政」とは何か。責任とは、成功したときに成果を誇ることではない。失敗したとき、誰が矢面に立ち、その結果を引き受けるのかを示すことだ。

市場は冷酷だ。そして、時間は必ず請求書を持ってやってくる。

問題は、いつか、ではない。どの瞬間にその請求が回ってくるのか、である。

文/木戸次郎 写真/shutterstock

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