「とにかく成長のスイッチを押して、押して、押して、押して、押しまくってまいります」2026年2月20日、高市首相が施政方針演説で力強く宣言したこのフレーズは、瞬く間にネット上を駆け巡り、日本社会を二分する議論の火種となっている。火種の中心は、「裁量労働制の見直しと対象拡大」だ。
「時間=評価」という硬直化したルールは、いったい今の私たちの何を守っているのか
裁量労働制とは、実際の労働時間でなく、あらかじめ企業と労働者で規定した時間を働いたものとみなし、その分の賃金を支払う制度のことを言う。
たとえば、労働したとみなす時間(みなし労働時間)を8時間と定めた場合、実際の労働時間が1時間であっても10時間であっても、同じ8時間分の賃金が発生する。
高市政権では、この裁量労働制の拡充を目指す意向を示しているが、これについて連合(日本労働組合総連合会)の芳野友子会長は「拡充ではなく適正な運用こそが先だ」と強い懸念を表明した。
この懸念は決して的外れではない。日本の労働現場には「定時で帰りにくい空気」や「上司の評価を気にしたサービス残業」という根深い構造的な病理があり、裁量労働制が拡充されることで実際の労働時間がみなし時間より長くなったり、企業が残業代逃れに悪用する懸念もある。
しかし高市首相は「働き方改革の総点検においてお聞きした『働く方々のお声』を踏まえたもの」と明言した。この「働く方々のお声」の詳細はまだ不明だ。
日本生産性本部やOECDの統計では、日本の時間あたり労働生産性は主要7カ国で最下位水準が続いている。その背景には産業構造や投資不足など複合的要因があるが、「時間を基準とする評価慣行」が一因と指摘する研究もある。
労働時間を増やせば増やすほど残業代が支払われ、個人の給料が上がる。この仕組みでは、効率を上げて時間を削ろうとする優秀な人材ほど損をし、残業する者が得をする。
この点は、厚生労働省の労働経済白書などで指摘される生産性低下の要因の一つとして議論されている。
深刻な人手不足、上がらない給料、そして停滞する生産性。「時間=評価」という硬直化したルールは、いったい今の私たちの何を守っているのか。
裁量労働制の拡充に対し、最も頻繁に浴びせられる批判が「人件費削減のための定額働かせ放題」となることだ。しかし、この主張は現状の奇妙な逆転現象を見落としている。現在の日本社会を規定する「時間=評価」という古い鎖は、実は「働かない人たち」を構造的に生み出してしまった側面があるからだ。
年功序列と成果主義のミスマッチにより生まれた「働かない人たち」
リクルートワークス研究所の2025年の推計によれば、企業内に留まりながら十分に能力を発揮できていない労働者が一定数存在することが示唆されている。
大妻女子大学の研究では、この現象を年功序列と成果主義のミスマッチによるモチベーション低下と分析している。昇進せずとも勤務年数が長くなれば少しずつ給与が上がり、成果を問われずとも残業した分だけ残業代がもらえる。
一定の「働かないおじさん(おばさん)」を生み出したのは、この仕組みそのものの病理といえる。
働かない人が一定数存在すれば、その分のしわ寄せはそれ以外の周りの労働者や上司、場合によって部下などに向けられる。仕事を真面目にする人に1人分以上の仕事が回されやすくなる構図だ。
効率を上げて無駄な時間を削ろうとする有能な人材ほど損をし、時間を浪費する者が得をする。
「成果」への移行がもたらす「働かないおじさん」の行方
裁量労働制の拡大が真に狙い撃つのは、実は管理職ではない。最も影響を受けるのは、非管理職でありながら年功序列で高い基本給を維持し、さらに「残業単価」というレバレッジをかけて年収を積み上げてきたベテラン層だ。
彼らこそ、前述した「時間=評価」のルール下で、仕事の遅さを報酬へと変換してきた構造的受益者である。
だが、「時間」という尺度が機能しなくなる裁量労働制の土俵では、会社にいた時間の長さは何の価値も持たなくなる。10時間かけて会議資料を整えていたベテランと、1時間で本質的な戦略を練る若手。この二人の報酬が逆転、あるいは適正化されることは、これまでの「時間の切り売り」で生き延びてきた層にとっては厳しい宣告となる。
労働科学の「仕事の要求度・コントロールモデル」によれば、健康リスクの核心は時間の長さだけではなく、進め方を自分で決められない「裁量ゼロ」の状態にあるとされる。
この観点から見れば、自律的に動けず、会社に歩幅を合わせてルーチンワークに安住してきた人たちにとって、自分の歩幅で進むことが求められる裁量労働制は、自由ではなくむしろ過酷な試練となるだろう。
「給料が同じなら会社は限界まで働かせるはずだ」という批判
「時間」という古い鎖を断ち、個々人が生み出した価値で勝負する新たな世界は、有能な労働者が報われる健全な競争社会への入り口だ。しかしそれは同時に、スキルを磨かず時間管理という「優しい壁」に寄りかかってきた層に対し、冷徹に「プロとしての成果」を問い直すプロセスでもある。
彼らが長年培った経験を「成果」に変換できないのであれば、組織内での存在意義は、制度の転換とともに急速に霧散していくことになるだろう。
たしかに「給料が同じなら会社は限界まで働かせるはずだ」という批判は、極めて切実で外せない懸念だ。はたして、裁量労働制の拡大は、こうした懸念を払しょくし、「働かないおじさん」を淘汰する仕組みとして機能できるのだろうか。
政府は「DXによる監視」を掲げ、不適切な運用を防ぐと豪語するが…
制度面を見ると、2024年の法改正で裁量労働制の適用には「労働者本人の個別同意」が厳格に義務付けられている。会社が一方的に押し付けることは違法であり、同意しなかったことによる不利益な取り扱いも禁じられている。
しかし、問題は制度の美しさではなく、それを支える「国家の実務能力」と「企業の評価能力」だ。
政府は「DX(デジタルトランスフォーメーション)による監視」を掲げ、不適切な運用を防ぐと豪語する。
しかし、過去に起きた接触確認アプリの機能停止やマイナンバー連携トラブル、IT事業への会計検査院の度重なる是正や改善の求めを見れば、「監視のDX」に不安が向けられるのは当然だ。
「形だけのデジタル化」は、ブラック企業の巧妙なデータ改ざんを見抜くどころか、無実の企業にまで無意味な事務負担を強いる恐れがある。
裁量労働制の拡大は実際に運用する企業側に大きな壁が存在する。多くの企業で「形だけの成果主義の形」が導入され、評価基準が曖昧だったり目標が高すぎたり、業務量・期限が上司主導のままだったりするためだ。
これらがプレッシャーとなり、効率化しても仕事が減らず、長時間労働が常態化する。厚生労働省の実態調査でも、こうした運用不備が長時間化の主因と分析されている。これを放置すれば本末転倒であり、課題は根深い。
裁量労働制を拡充した結果、「24時間365日、仕事のことが頭から離れない状態」になってしまっても、それは真の自由とは呼べない。
週55時間以上の労働が健康リスクを高めるという研究は無視できず、会社に預けていた時間の主導権を、真に労働者の手に取り戻せるかという一点に、この議論の成否はかかっている。
制度の悪用を防ぐには、行政による監視以上に、労働者が不当な職場を即座に見限れる「労働移動の円滑化」が不可欠だ。
日本で裁量労働制が「働かせ放題になる」と恐れられる真の理由は、一度入社すると他社へ移りにくい労働市場の「硬直性」にある。
もし、解雇規制の見直しや労働実態の透明化が進み、不当な扱いを受ける労働者が「リスクなく、いつでも他社へ逃げられる」環境が整えば、状況は一変する。
労働者に選ばれなくなったブラック企業は、人手不足によって市場から自然に淘汰されるからだ。つまり、労働者の「自由に会社を去る権利」こそが、制度の悪用を抑止する最大の防護壁となる。
政府の監視か、市場による淘汰か
裁量労働制が本当の意味で広がれば、働かないおじさんは三つの選択肢を突きつけられることになる。
まずは専門性を磨き直し、成果で評価される存在へ「変わる」道。次に、最低限の目標のみを達成し組織に「居残る」道。この場合、評価の透明化が進めば昇給停止や降格は免れない。最後は適応を断念して組織を「去る」道だ。いずれにせよ「何もしない」という選択肢は消滅する。
市場原理が導入され、居場所が失われることは、裏を返せば、自らのスキルを見つめなおし、働きたいと思えるような新たなやりがいや場所を見出す好機でもある。
しかし、これは決してベテラン層の切り捨てを意味しない。JILPT(労働政策研究・研修機構)の研究が示す通り、肝要なのは単なる淘汰ではなく、自発的なリスキリングを通じたスキルの現代化と、円滑な労働移動の支援である。
高市首相が押して、押して、押しまくる「成長のスイッチ」が吉と出るか、凶と出るか。それは、労働者自身が「時間の切り売り」という鎖を捨て、自らの価値で生き抜く覚悟を持てるかどうかにもかかっている。
改革の痛みを超えた先に待つのは、世代を問わず誰もが自律的に働き、価値を正しく評価される、風通しの良い日本社会の姿であるはずだ。
文/村上ゆかり 写真/shutterstock

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