織田信長を天下統一目前まで押し上げたのは、身分を問わず才能ある者を抜擢する徹底した実力主義だったといえる。だが、豊臣秀吉や明智光秀がその恩恵を享受した一方で、容赦なく切り捨てられた人たちもいた。
河合敦氏の書籍『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』より一部を抜粋・再構成し、超合理主義者・信長が貫いた組織マネジメントについて迫る。
織田信長の恐怖の人事
もし豊臣秀吉が織田信長の家臣になっていなければ、秀吉が天下人になることはなかった。そう断言できる。
信長の型破りな抜擢が、出自が農民(諸説あり)の秀吉を天下人にまで押し上げたのである。おそらく秀吉のような有能な家来は、どの大名家にもいただろう。
しかし、いくら主君がお気に入りだからといっても、序列を大きく超えて重臣たちをごぼう抜きにしてまで栄達させるのは、ためらいがあったはず。
もちろん、三好長慶が配下の松永久秀に対して行った“抜擢人事”など、過去に例がなかったわけではない。それにしても、信長はよくぞ秀吉を長浜城主に据えたものだ。
織田家が強大になれた理由の一つは、信長が実力主義を重んじ、身分や門閥にかかわらず積極的に異能者を取り立てたことだと思う。それは秀吉だけではない。明智光秀は牢人だったうえに、室町幕府第十五代将軍・足利義昭の家臣でもあった。
なのに光秀の名が一次史料(当時の手紙や日記、公文書など)に登場してわずか数年後、信長は近江坂本城(大津市)を光秀に築かせ、城主としているのだ。
死刑に等しい仕打ち
ただ、取り立てるのは良いことだが、織田信長のコワさは、実力のない者や用をなさなくなった部下には、容赦なく降格させたことだ。それは宿老であっても例外ではない。
天正8年(1580)、11年続いた石山本願寺との戦い(石山戦争)が和睦というかたちで終結した。同年、信長は本願寺跡(現在の大阪城公園内)を訪れることになった。このとき、本願寺攻めの総指揮官だった佐久間信盛は、主君を迎える準備を居城の天王寺城(大阪市天王寺区)で整えた。
しかし信長は天王寺城に現れず、使者が信長の書状を信盛のもとにもたらした。そこに記されていたのは、なんと19条にも及ぶ信盛・信栄親子への折檻状(りの手紙)だった。
次に、主な条文を要約する。
「お前たちは、5年も天王寺城にいる間、一つも良い働きをしなかった。石山本願寺を大敵と恐れて武力も策略も用いず、ただ寺を包囲して数年過ごしていれば、敵は坊主のことだから、やがて信長の威光を恐れ退去すると考えたのか。勝機を見定めて一戦もせず、このように持久戦に持ち込んだことは、まったく分別のない行動だ。
明智光秀や羽柴秀吉の活躍は見事である。
武力がふがいないのであれば調略(巧妙な交渉や策略)に励み、それもうまくいかなければ俺の意見を聞くなりすべきなのに、5年の間一度でもそれがあったか。お前たちには、7カ国もの与力の者(加勢する武将)たちをつけたのだ。それに自分の家臣団を加えたら、どんな戦いでも負けることなどなかったはずだ」
このように、信盛・信栄父子の怠慢を手厳しく追及し、「お前たちは、けちくさく金ばかり貯め込み、新しい家臣を召し抱えようとしない」と非難し、さらに筆はエスカレートしてゆく。
「かつて三方ヶ原の戦いで、家康の援軍にお前と平手汎秀を遣わしたところ、武田軍を前に平手を見殺しにして逃げ帰ったうえ平気な顔をしていた。越前の朝倉氏と戦った際、お前の非を責めたところ、恐縮せずに言い訳をし、座を蹴って退出した。このような行為は前代未聞だ!」
と、遠い過去のことをほじくり返し、さらに、「信栄のことも、書き並べることができないほどだが、おおまかに言えば、この者も第一に欲が深く、気難しく、良い人材を抱えず、そのうえ油断していると取り沙汰されている。つまり父子ともども、武士道が足りていないから、こんなことになるのだ」
と、さんざん愚弄したうえ、だめ押しに「お前が俺に仕えた30年間、優れた働きなど一度もなかった」と言い切ったのだ。
疲れてしまった信盛
しかし、信長の言い分はまったく正しくない。
信盛は、桶狭間の戦いでは善照寺砦(名古屋市緑区)を守って今川勢二百を撃退したし、長篠の戦いでは織田軍の先鋒として鉄砲隊を率いて、武田軍の大敗に大きく貢献している。
さらに、信長が息子の信忠に岐阜城を与えたおり、信長は一時信盛の館に身を置くほど信頼していた。織田家中でも「退き佐久間」とうたわれ、信盛に退き(殿=退却戦で最後尾に位置して敵の追撃を阻止する部隊)を任せたら右に並ぶ者なしといわれた。
まさしく百戦錬磨の武将であり、織田家の宿老であった。愚将であろうはずがない。
なのに、折檻状の最後に信長は、「この上は、どこかの敵を平らげ汚名を返上するか、剃髪して高野山に上り赦しを乞うか」の選択を迫ったのである。
信盛はもう疲れてしまったのだろう、後者を選んだ。
こうして取るものも取りあえず、信盛は高野山へ上った。しかし、そこにも「居てはならぬ」という命令が出たので、紀伊の熊野(和歌山県)のほうへと、足の向くままさ迷い歩いた。
その間、譜代や家来たちにも見捨てられ、裸足で歩くなど、見るも哀れな姿となった。その後どうやら大和との十津川(奈良県吉野郡)に隠棲したらしいが、この地で失意の日々を送り、天正9年(1581)7月24日、湯治中に亡くなったという。
追放から一年もたっていなかった。信盛にとっては死刑に等しい仕打ちであった。
容赦なく捨てられた老臣
佐久間信盛父子に続いて筆頭家老の林秀貞も、25年近く前に造反したことを理由に織田信長から所領を奪われ、追放された。
石山本願寺が陥落して畿内が平定され、「狡兎死して走狗烹らる」の故事のごとく、利用価値のなくなった老臣たちは、容赦なく捨て去られたのである。
この過酷な処分の背景には、信長の政策の変更もあったようだ。
信長は天正10年(1582)3月に武田氏を滅亡させたが、伊勢(現在の三重県)の滝川一益も上野の厩橋城(前橋市)に入れている。そして2カ月後、明智光秀は秀吉の中国平定の援軍を命じられたが、このおり「中国地方はお前の切り取り次第(攻め取った土地を自身の領地にすること)なので、元の領地である丹波国(現在の京都府中部、兵庫県北東部)と近江国(現在の滋賀県)の一部は没収する」と、信長から伝えられたという説がある。
これが超合理主義者の信長のやり方であり、そのため、失領のショックを受けた光秀によって信長は謀殺されたのかもしれない。あくまで想像だが……。
戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか
河合敦
戦うだけが仕事じゃない!
戦国武将も、現代人と同じ悩みを抱えていた。武田信玄は浮気を弁解、織田信長は正倉院の宝物である香木を切り取り、伊達政宗は恋に泣き、高山右近は地位よりも信仰を優先し、茶の湯で政治を操り、南蛮料理に夢中になり、人身売買で財力を築く。戦場以上に熱い、濃厚なドラマを暴く。
・伊達政宗は教育パパ
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