悩み事はありますか? そう聞かれて「ない!」と胸を張って言える方は少ないだろう。私なぞは若輩者なので、様々な悩みに心を囚われ日々うんうん唸っているちっぽけな人間である。


しかし、人生は「苦」でできていて、すべてが「空(無)」であるとしたら?

私のこの小さな悩みや苦しみは、自分が作り出したこれまた小さなモノサシを基準に他人の意見や世間の尺度を受け入れられず、自分が生み出しているものらしい。

ほほう、と思ったのは悩み多き毎日の最中、本屋で『29歳からはじめるロックンロール般若心経』を手にとって読み始めてからである。ロックと般若心経? まるで正反対の位置にいるようなものがまとまって書籍化されていることに興味を持ったのだ。

「仏陀(釈尊)というお方は、いまでこそ、お仏壇のイメージというか、抹香くさいイメージがありますが、当時はそうとうアバンギャルドな方であったと思います。当時のインド思想史を覆すほど、かなりパンクな人であったと思います。金剛般若経などを読んでも、私はいまでも、血液が逆流するほどの高まりを感じます。
こんなぶっ飛んだ印象が、私の中で、ロック・スピリットと結びついたのでしょう。ロケンロー」

と、著者の二階堂さんは言う。なるほど、当時であれば仏陀はロケンローでアバンギャルドなお方だったのかもしれない。

書籍を読み進めると、今の自分の考え方や生き方がいかに小さくまた、自分の狭い世界を守るのに必死になり、それだからこそ他人とぶつかることや他人の思考や意見に対しイライラすることをよしとしていることに気付いた。

仏教の考え方に全ては「空(無)」である、というのがあるそうだ。この世のすべてのものには実体がない。
超ハッピーな状態は長続きしないし、また、最低で泣き続ける日々も長続きはしない。

だからこそ、心の波を出来るだけ少なくし「凪」の状態を増やし、心がシーンとした状態、つまりニルヴァーナ(涅槃)を求めるために日々小さな悟りを重ねていくことが大切らしい。(あの有名なロックバンドの名前はここから取られているらしいです)

しかし、である。小さいころから他人と比べられ、上を目指すように教育されてきた世代の私なぞは、気づくと自分のモノサシを振りかざしてそれを元に勝手に悩み、落ち込み一人酒を煽る日々である。これでは心の平穏など出来るはずもない。著者の二階堂さんに、こういうときはどうしたらいいのか聞いてみた。


「これは荒療治になりますが、常に自分が思ったことと、真逆な選択をしてみることです。例えば、六本木のキャバクラに行きたくてしょうがないとき、あえで場末のスナックのママに甘えに行くとか、プラダのバッグがほしいとき、景品でもらったECOバッグで外出してみるとか。そういう姿勢が、短絡的なモノサシ思考から離れるための絶好の修行になると思います。ピース」

ピース。いい言葉だ。そして、場末のスナックのママに甘えに行っちゃうところが、二階堂さんのお茶目な発想だなぁと、微笑んでしまった。
そう、この感覚かもしれない。結局のところ、自分のことを完璧に理解してもらうことなど不可能だし、それはまた相手にとっても同じことが言えるだろう。だからこそ、相手のその考え方を自分のモノサシに沿って図って判断するのではなく、そういう考え方もあるのか、とのんびり受け入れるのが大切なのかもしれない。

しかししかし、である。そんなに甘くないのが世の中だ。自分がモノサシをなくしたからといって、周りも同じではない。
生きていれば自分のモノサシを伝家の宝刀のように振りかざし、それにそぐわない意見や回答には真っ向から牙をむいてくる人も世の中にはたくさんいる。そういうとき、二階堂さんはどうしているのだろうか。

「そういうヤツに、『なんだ、このやろー』と牙をむくようでは、まだまだ修行が足りません(笑)。私の場合、そういう勘違いヤローには、勘違いさせたままにして放置します。むしろ、『おまえ、さすがだなー』とほめ殺しにしたりすることもあります。いちばんダメなのは、同じ土俵に乗ってしまうことです。
それはつまり、同じモノサシを共有することになりますから。プンプン」

む、難しい。私はついついムキになってキーッ! となってしまう。これは相手の土俵に立ってしまっているからこその対応なのだと再認識をした。いかんいかん、そうなったときには、自分の土俵に持ち込むくらいの度量がほしい。まだまだ修行が足りないようだ。

思い立って、書籍の末尾に記載されている般若心経を写経してみた。普段はパソコンやスマホを活用しているので、文字を書くということ自体が久しぶりで、また漢字を見ながら写していくうちにその作業に没頭して、いつしか24時間365日、頭を占領している悩み事という雑音が消えていた。

何も考えずただひたすら文字を写し書いていく。その作業を続けるうちに頭がシン、として終わったときに少しすっきりしている自分がいた。写経の効用とはこういうことだろうか。心がとてもピースだった。ぜひ、たくさんの方のこの書籍を読んでいただきたい。そう思ったので、最後に二階堂さんにこの書籍を読んでほしい方を聞いてみた。

「私はこの本を世間から冷や飯を食わされている人に読んでもらいたいです。今では死語ですが、『勝ち組』の読者は想定していません。人から無視され、妨げられている人たちだけのために書きました。自分のホームページやツイッターもそういう思いで書いています。弱い人、悩んでいる人、不安でいっぱいな人、明日、会社に行きたくない人(笑)、ぜひ、遊びにきてくださいね。チャオ」

明日、会社に行きたくない人などこの記事を読んでいる大半の人ではないだろうか(笑)。仕事が死ぬほど辛いわけでもないだろう。でも人は弱いものだ。だから、少し息抜きをして頑張っている自分を認めてもらいたい時もある。

そんなとき、誰かから「人生なんて基本苦しいものだぜ。お前が頑張っているのは分かっているよ。だから肩の力抜いてピースにいこうぜ。」と言われたら、なんだか心が軽くなる気がする。そしてこの書籍は、そういう風に私に言ってくれている気がした。

みんな、この現代で必死に生きている。だからこそ、少し肩の力を抜いて、他人を比べることを止めて深呼吸をして、今いる自分を認めてあげてほしい。どうせ一度の人生だ。この息苦しい時代を、般若心経を片手に爽快に駆け抜けてみてはいかがだろうか。
(梶原みのり/boox)