1945年生まれ。8歳の時に、父親から二胡の手ほどきを受けた。13歳で上海音楽学院付属中学に入学。続いて上海音楽学院本科(大学)で学び、1978年で、中国でも最もレベルが高い伝統音楽団体として知られる上海民族楽団に入団した。
中国では、共産党政権の中華人民共和国成立後も、「旧支配階級のもの」と決めつけた一部の楽器(古琴など)を除き、伝統楽器の演奏法の技術革新が続けられた。閔さんは曲目などについて制限の多い中で、古い伝統と新たに獲得された技術を融合させた、「前代未聞」の芸風を確立させた。閔さんの演奏は、続く世代の演奏家にとっても「まねのできない、標準的な演奏」として、大きな影響を与えた。
80年代には乳癌(にゅうがん)を発症。一時は、音楽関係者からも死亡説が流れるほどの危険な状態にたったが復活した。
新華社報道によると、閔さんはしばらく前に脳出血の発作を起こし、手術を受けたが昏睡状態が続いていた。
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◆解説◆
1980年初頭ごろから、中国の伝統音楽の実情が、国外にも知られるようになった。中国が文化大革命という、「鎖国状態」を脱した後、閔さんの演奏は、音楽芸術を通じて世界に「中国を知らせる」という役割を果たしたと言える。
二胡については、演奏家として閔さんの後輩である姜建華さんも代表的な存在のひとりで、姜さんの演奏する二胡独奏の代表曲「江河水」に、日本の指揮者である小沢征爾さんが涙を流し、日本を活動の基盤にすることの手助けしたとの逸話がある(小沢さんが涙を流して感動したのは、閔恵芬さんの演奏との説もある)。
どちらかと言えば、閔さんの演奏はどっしりとした安定感の中にも、精神面におけるデリケートさを強く感じさせ、姜さんの演奏は――特に若い時代は――超人的な集中力で聴く者を圧倒させる風格が目立ったが、いずれにせよ、閔さんや姜さんの演奏は中国の伝統音楽の演奏のレベルの高さを国外にも示し、中国の芸術文化に対する“リスペクト”を改めて獲得することになった。
もちろん、その他の演奏家についても国外で知られるにつれ、世界的に「精神性」と「技術力」が大いに評価されるようになった。
閔さんが音楽家として大成するまでのキャリアを見ると、社会主義独特の「才能育成システム」が理想的に機能したという面がある。社会体制側が認めれば、飛びぬけた才能を持つ若者を全力で養成する方式だ。
現在の中国で、社会主義方式の才能育成システムもなお機能しているが、「世に出る」ためには経済効率も重視されるようになった。今後、中国社会として閔さんのような不世出の音楽家をどれだけ出せるかは、不明な面もある。
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