フランス革命の大きな波にのまれ、国家反逆罪でギロチンにかけられた悲劇の王妃、マリー・アントワネット。「浪費家」「裏切り者」とされフランス国民の憎悪の対象となっていた彼女は、死後、崇拝の対象となっていました。
それはいったいなぜなのか――肖像画から探っていきます。
◆フランス国民に祝福された結婚
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写真を拡大 ゆりかごの中にいるのがアントワネットマッティン・ファン・メインテンス(子) 《1755年の皇帝一家の肖像》 1755年 ヴェルサイユ宮殿美術館 ©RMN-GP (Château de Versailles)/©Daniel Arnaudet

 マリー・アントワネットは、1755年、オーストリア大公マリア・テレジアの娘として生まれました。15番目の子どもということもあり、自由にのびのびと成長した彼女は、オーストリアとフランス両国の同盟のため、14歳のときにルイ15世の孫の王太子(のちのルイ16世)のもとに嫁ぐことになります。
 長年敵対関係にあった二つの国がやっとのことで友好関係を構築したこともあり、アントワネットは新しい平和の象徴としてフランス国民にとても歓迎されたといいます。

 

◆革命の波にのまれ、捕らえられる王妃
なぜ“フランス国民の敵”マリー・アントワネットは、死後崇拝の対象となったのか?
写真を拡大 《マリー・アントワネット》エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画、1783年

 しかし、最初は歓迎ムードだったフランス国民も、徐々にアントワネットに対する不満や憎悪を抱くようになります。当時のフランスは財政危機に直面しており、国民の多くが貧しい生活を強いられていました。

そんな中アントワネットたち王族や一部の貴族が変わらず贅沢な暮らしをしていたことに、反感を持つ者が増えていったのです。
 また、アントワネット個人にまつわるスキャンダルが取りざたされると、国民の怒りはさらに増幅。王室と国民の間の対立はだんだんと強固になっていきました。
 1789年、ついに激昂した群衆が王宮になだれ込み、国王一家をヴェルサイユから追放します。その2年後、国外逃亡をはかった国王一家でしたが、途中で捕らえられ、とうとう幽閉の身となってしまいます。この頃は国王一家、特に王妃であるアントワネットに対する国民の反感は頂点に達しており、無数の版画やパンフレットでもって非難、中傷の的となりました。

◆処刑から数十年後、復古王政で崇拝の対象に

 その後、裁判にかけられたルイ16世は、1793年に処刑されます。アントワネットも同様に裁判にかけられ、誹謗と中傷に満ちた法廷に毅然とした態度で臨むも、国家反逆罪で死刑が確定してしまいます。そして同年10月、断頭台の露と消えたのです。

なぜ“フランス国民の敵”マリー・アントワネットは、死後崇拝の対象となったのか?
写真を拡大 アントワネット最晩年の姿アレクサンドル・クシャルスキ 《タンプル塔のマリー・アントワネット》1793年頃 ヴェルサイユ宮殿美術館 ©RMN-GP (Château de Versailles)/©Gérard Blot

 最晩年に描かれたアントワネットの肖像画は、ヴェルサイユで華やかな暮らしをしていた頃からは想像できないほど厳かな雰囲気に満ちています。これは、ルイ16世の死を悼む喪服姿を表現しています。
 さて、実はこの絵、のちに王党派のいわば「聖母画」として、王政復古期の1814年からブルボン家が断絶する1830年の間、非常に広い範囲で大規模に流布しました。

アントワネットのイメージは、その後、ロマン主義的な崇拝の対象となります。そして19世紀後半には、君主制に殉じた王妃ということで、一種のイコンのような存在になったのです。

 単なる悲劇の王妃というだけでなく、こうした様々な側面を持ち合わせているところも、マリー・アントワネットという人物の魅力なのではないでしょうか。