野口英世と言えば、日本が誇る世界的な細菌学者で「偉人」として語り継がれている人物です。
「黄熱病」や「梅毒」の研究で知られ、2004年からは千円札の肖像画となったため、現在日本でその顔と名前を知らない人はほとんどいないと言っても、過言ではないでしょう。
そんな野口英世は、元々は「野口清作」という名前でした。「英世」に改名したのは、彼が21歳の時のことです。そのきっかけは、当時ベストセラーとなっていた坪内逍遥の小説『当世書生気質』でした。
この小説に「野々口精作」という人物が登場しています。彼は田舎出身の学生で、遊里に女を買いに行くなど、立場や行動が野口英世(清作)と似ていました。
更に名前まで似ているということで、野口英世(清作)は「これはマズい!」と思ったようです。中山茂氏(科学史)は、野口英世について、以下のように書いています。
『清作には我が身をかえりみて、思い当たるふしが多分にある、(中略)この小説はかなり広く読まれているので、まわりから実際のモデルだと誤解されはしまいかと彼は考えた』
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■手間暇かけてついに改名!しかし…
とは言っても、当時も現在も、改名はそう簡単に認められることではありません。「小説の登場人物に名前が似ていて嫌だから」という理由では、到底認められることはないでしょう。
そこで野口から相談された彼の恩師の小林栄は、村長に相談の上、「同姓同名の人物がいて紛らわしいから」という理由をでっち上げることにし、よその村で「佐藤清作」という男性を見付け出しました。
佐藤清作氏とその親に依頼して、彼には三ツ和村の「野口家」へ籍を移し「野口清作」という名前になってもらうことになりました。そうすると「野口清作」が2人になるため、晴れて「野口英世(清作)」は役所に改名願いを提出し、「野口英世」となったのでした。
画像出典:pro.foto
ちなみに、『当世出世気質』は明治17年に起稿、翌18年に出版されたもので、改名の相談をされた小林栄が英世の死後に作者・坪内逍遥に問い合わせた手紙の返事からも、それは明らかです。
野口英世は明治9年11月9日生まれですから、この小説が出版された当時はまだ8歳か9歳ということになり、「野々口精作」とは本当に偶然名前が似てしまっただけだったようです。
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