いまも語り継がれる哲学者たちの言葉。自分たちには遠く及ぶことのない天才……そんなイメージがある。
そんな「哲学者」はいかに生き、どのような日常を過ごしたのか?
【怪しげな風貌で親しみを集めたソクラテス】天才? 変人?あの...の画像はこちら >>
紀元前469年頃 - 紀元前399年4月27日

親しみやすい性格と頑健な肉体

 頭の回転が速く、ユーモアとウィットに富んだソクラテスの話は多くの人を魅了した。
 だが、ソクラテスは外見的にかなり醜い特徴を持っていたらしい。

 肉体美を表現した古代ギリシア彫刻に見られるように、当時のギリシア人は人間の外見的な美しさを重視していた。そんな中で、ソクラテスは豚のような鼻で、両目の間が大きく開き、アヒルのような歩き方をしていたと言われている。身なりは、ボロい布切れを一枚纏っただけで、靴を履かずに歩き回っていた。裸足で平然と氷の上を歩いたこともあった。


 しかし、外見が醜い分だけ親しみやすさを感じられ、ユーモラスで愛嬌のある性格が余計に慕われた面があったのかもしれない。

 ソクラテスが生まれたのはギリシアとペルシアが戦った「ペルシア戦争」の戦乱が長引いていた紀元前469年頃である。父親のソプロニコスは石工で彫刻家、母親のパイナレテは産婆だったようだ。少年時代のソクラテスは、父から学問だけでなく体育や音楽の教育を受けていた。この体育教育の影響もあったのか、ソクラテスは若い頃から身体の鍛錬を続け、頑健な肉体を手に入れた。食べ過ぎ、飲み過ぎに注意して健康の維持にも気を配っていた。
その甲斐もあってか、アテネに疫病が蔓延した時でも病気になることがなかったそうだ。

 中年になってからも戦争に兵士として参戦し、70歳で亡くなる時には幼い子供がいた。そもそもソクラテスという名前は「健康な力」を意味する。また、音楽好きな面も終生続いていて、高齢になってから琴を習い始めたり、踊りの練習を続けていたと言われている。

「ソクラテス以上の賢者はいない」神託にソクラテスは

 青年となったソクラテスは、父と同じように石工をしていた。パルテノン神殿にある女神像の中にソクラテスが彫った像があるという言い伝えもある。

その頃から議論好きで、法律について議論したり弁論家を鼻であしらってとぼけている男が石工の中にいたという証言があるほどだ。

 

 20代の頃のソクラテスは自然について関心を持ち、現代でいえば自然科学のような学問に熱中していた。ちょうどその時期、アナクサゴラスが書いた書物を読み大きな影響を受ける。アナクサゴラスとは、第一回で扱った哲学者タレスも住んでいた哲学の発祥地イオニアから、エーゲ海を渡りアテネに移住した哲学者である。彼は、タレスと同じように宇宙について思索し、万物の根源を無数の小さなものに秩序を与える「ヌース(知性)」だと主張した。

 ソクラテスはアナクサゴラスの書物から、物事に「原因」があることを学び、その原因を突き止めることが大事だと学んだ。

しかし、アナクサゴラスの書物は必ずしも「ヌース」を第一の原因として全てが説明されていたわけではなく、やがてソクラテスはアナクサゴラスに幻滅し、自分なりの「哲学」を行っていこうとする決意が生まれた。

 ソクラテスを「哲学」へ向かわせた大きなきっかけはもう一つある。ある時、カイレフォンというソクラテスの友人がデルフォイの神殿へ行き、巫女から神託を聞いてきた。それは「ソクラテス以上の賢者はいない」という神託である。つまり、この世で最も賢い者はソクラテスだという神の言葉が下されたのだ。
 その話を聞いたソクラテスは驚き、戸惑った。
自分が賢い人間ではないことは自覚しているのに、神は何故そのような言葉を下したのだろうかと。そこで彼は神の言葉の意図を知るために、当時のギリシア世界で賢者とされている人たちに直接会って議論をして、本当に自分より賢い者がいないのかどうかを確かめることにした。

 実際に賢者として知られていた人と会い、話してみてわかったのは、ソクラテスにも対話相手にも同じように知らないことやわからないことがあったにも関わらず、賢者とされている相手は何も知らないのに何かを知っていると思い込んでいる一方で、ソクラテスは何も知らないことを自覚していたということである。
 そこでソクラテスは、自分には「知らないことがあると知っている」点で相手よりも賢いと気付いた。 
 他にもたくさんの人と議論を続け、毎回同じことに気付かされるうちに、神託の意味を信じるようになっていった。これがソクラテスの「無知の知」である。

本ではなく対話を重視したワケ

 ただ、対話相手となった人たちからは嫌われ、憎悪を集めたそうだ。対話の際には周囲に人が集まり、その対話を聞いていた。当時、賢者として知られた人に対して怪しげな風貌のソクラテスが議論を挑み、ユーモアと毒舌で相手を散々にコケにした末に「あなたは自分には知らないことがあるということを知らない、だからぼくのほうが賢い」と言って立ち去っていくのだから、さぞかし多くの「アンチ」を生み出したことだろう。
 晩年に訴えられ、多数決で死刑判決が下されたのは、こういった議論を続けている内に熱烈な支持者を生み出す一方で、それ以上に多くの敵を生み出していたからだと考えられる。

 たくさんの人との議論を続けていくうちに、その独特のキャラクターと風貌も相まっていつしかソクラテスはアテネの有名人となっていったようで、喜劇作家のアリストファネスが『雲』という喜劇でソクラテスの姿を風刺している。それによると、ソクラテスは道場を開いて弟子を集め、自然についての学問や文法だけでなく、蚊と蚤の生理学や無力な議論を有力な議論へと変える詭弁の術を教え、雨を降らせ雷を落とすのはゼウスではなく雲だから神よりも雲を崇めよと説いていたと描かれている。
 もちろんこれは喜劇での風刺なのでかなり誇張された姿なのだろう。だが、アテネの一般の人々からは若者たちに怪しげな教えを吹き込む危険人物として見られていた様子もうかがえる。 

 ソクラテスは哲学者の中でも最も有名で最も影響を与えた人物である。しかし、彼は一冊も本を書き残していない。哲学者と言えば難解で分厚い本にその思想を書き残すものだが、ソクラテスは本を書くことなく、街で出会った人と議論をすることで「哲学」を行っていた。 

 文章を書くのではなくいろいろな人と会い議論をすることで「哲学」をしたのは、実際に直接会って話をしなければわからないことがあるという考えが元になっている。 
 文章は、読む人によって解釈が異なる場合がある。だから、何かを書いても自分の真意が伝わらず、誤った考えが広まってしまう可能性も生じる。それに対して、直接会って言葉を交わせば、間違った考えが伝わる危険性はない。そのため、ソクラテスは書かれた言葉としての文章を劣った言葉として考え、話された言葉を優れた言葉だと考えていた。

 ところが、現代までソクラテスの思想が知られているのは、彼の死後に弟子のプラトンがその思想を文章にして書き残したからである。現代の私たちが知っているソクラテスの思想は、本人が書いたものですらなく、プラトンのフィルターを通したものだから、本人からしたら間違いだと感じられるものなのかもしれない。たとえそうだとしても、ソクラテスの思想とプラトンの文章がその後の西洋哲学の出発点となり、脈々と読み続けられてきて人類の文化に大きな影響を与えた価値が褪せることはない。