連載第96回「幕末の通訳官・ヒュースケンには月極めの妾がいた」では、アメリカ公使館の通訳官ヒュースケンが日本人の女を妾に囲ったことを述べた。
同様のことがイギリス公使館やフランス公使館でもあったことが『藤岡屋日記』に記されている。
イギリス公使館は高輪の東禅寺に置かれた。
公使館の通弁(通訳)のデンキチは日本名を伝吉といい、紀州生まれの船乗りだった。航海中に遭難して漂流し、アメリカ船に助けられた。アメリカで生活するうちに英語を習得し、その後、イギリス公使のオールコックに認められて通弁となって日本に戻った。
デンキチは日本人でありながら、髪形も衣服もすべて洋風で、異人(外国人)を気取っていた。
安政六年(1859)、伝吉は公使館の日本人の奉公人市五郎に、「女を世話してくれ」と頼んだ。依頼を受けた市五郎は、知り合いの米屋の芳蔵に、「適当な女はいないか」と相談した。芳蔵があちこち問い合わせて、高輪北町に住むおます(20歳)と、お三津(16歳)がきまった。
こうして、芳蔵と市五郎の取り持ちで、おますとお三津は東禅寺内のイギリス公使館に出向き、伝吉の宿舎に泊まること数度に及んだ。このことが町奉行所の役人の耳にはいり、十月二十二日、芳蔵、市五郎、おます、お三津の四人は「隠し売女稼業」をしたとして召し捕られた。
江戸時代、吉原などの公許の遊廓で売春をおこなうのは合法だった。
だが、実際には江戸では、非合法の売春街である岡場所が堂々と営業していた。おますとお三津を「隠し売女」として召し捕るのはあまりに杓子定規な気がするが、やはり町奉行所の役人も異人には監視の目をゆるめず、内心でも反発をいだいていたからであろう。判決では、四人は手鎖のうえ町役人あずけとなった。
なお、デンキチは女ふたりを呼んでいる。いわゆる3Pプレイを楽しんでいたのだろうか。
いっぽう、芝車町の海岸で水茶屋をいとなむ勝三郎のもとに、万延元年(1860)四月、かねて知り合いの横浜の港崎遊廓「金石楼」の者が訪ねてきた。
「どうだね、娘のおもんちゃんを金石楼にあずけないか」
このとき、おもんは十四歳だった。
話はまとまり、一年の年季という約束で、おもんは金石楼で遊女になることになった。
ところが、金石楼から遊女に出た途端、フランス公使館員がおもんを気に入り、掛け合いの末、妾にすることになった。公使館員は給金として一カ月に二十両を支払い、そのうち金石楼が諸経費を差し引き、おもんには十一両が渡されたという。