栃木県の北部、東北本線西那須野駅から東へ分岐し、大田原(おおたわら)を経て黒羽(くろばね)方面を結んでいたのが東野(とうや)鉄道である。
なぜ下野で「しもつけ」と読むのかといえば、説明は少し長くなる。かつて上野国(こうづけのくに・ほぼ群馬県)と、この下野国(ほぼ栃木県)はまとめて毛野国(けぬのくに)と呼ばれていた。
それを5世紀までに上下に分けたのであるが、当時は国名や郡名、郷名は必ず2字で表記する決まりがあり、上毛野国・下毛野国とするわけにいかず、「毛を剃って」上野国・下野国としたのである。読み方は「かみつ・けぬのくに」および「しもつ・けぬのくに」のはずだが、後に「こうづけのくに」と「しもつけのくに」に転じた。
ついでながら毛野国を流れている代表的な大河であることから毛野川(けぬがわ)と呼ばれていた川が、今は鬼怒川(きぬがわ)と呼ばれている(中世~近世には衣川・絹川の表記も)。
さて、野州の話であった。上野国は上州(じょうしゅう)でいいのだが、下野国を「下州」などとすると、どうも格好が悪いからか、上州で使わなかった野の字を使って野州にしたのではないだろうか。
「人車鉄道」の走った大田原街道踏切橋上駅である西那須野駅を降りて東口へ向かった。首都圏の駅と同様にスイカの使える自動改札機がある。かつて東野鉄道が発着していたのはこちら側だが、昭和43年(1968)の廃止からほぼ半世紀経っているので、さすがに目立った痕跡はない。
少しの間は東北本線の東側を並走し、大田原街道の踏切を過ぎた後で徐々に右カーブしていくのだが、大田原までの線路跡はずいぶん以前から遊歩道になっている。

西那須野駅を過ぎてすぐ渡っていたのが第二大田原街道踏切で、並走する東北本線の方はもちろん現役の踏切だ。東野鉄道が大正7年(1918)に開通する以前は、この付近を起点に、街道上を大田原まで那須軌道の線路が敷かれていた。

軌間(2本のレールの内法)は762ミリで、当初はミニサイズの客車を人が押すものだったが、大正7年(1918)から馬車鉄道に変更されている。「大正2年(1913)部分修正」の地形図を見ると、この軌道の南側ほど近い所に「大山邸」と記されているが、これは明治の元勲として知られる大山巌の別邸で、その墓所はすぐ近くだ。近所には乃木希典(まれすけ)も別邸を構えていて、近くには夫妻を祀った乃木神社が大正5年(1916)に創建されている。
廃線跡をイメージさせる「ぽっぽ通り」踏切のすぐ先から、廃線跡を利用した「ぽっぽ通り」が始まった。

東北本線を跨ぐ道路をくぐるが、こちらの天井はだいぶ低いので、東野鉄道の廃止後にできたのだろう。ここを汽車が走っていたことをイメージして地下道内の壁には汽車の絵が描かれている。各地に見られる「落書き防止用」を兼ねたような壁画であるが、こういう絵に必ずきっぱりと7色の虹が描かれているのはなぜだろうか。それより抜けた先の満開のツツジは見事だった。藤棚の白い藤も木陰を作っており、改めて廃止からの年数を感じさせる。
ほどなく郊外に出て田んぼの傍らの道となった。田植えを目前にしてどの田も水を張っている。列車が走っていた頃はその姿を水面に映していたのだろう。


西那須野駅を出てからしばらく右カーブが続いていたが、ほどなく直線区間となる。やがて前述した神社入口にあたる乃木神社前駅の跡地。その参道を横切った先には駅の跡地を示すモニュメントがあった。改めて作ったプラットホームと駅名標、レールも敷かれている。ただし鉄道が現役時代の地形図で確かめると、駅は参道の手前(西那須野寄り)にあったようだ。

その再建プラットホームに大谷石(おおやいし)が積まれているのは、この地域ならでは。
散った八重桜の花びらを踏み、傍らの菜の花を見ながら歩くと、間もなく小さな森に入る。用水を跨ぐ箇所があったので脇へ回ってみると、鉄道時代からと思われる石積みのカルバート(伏樋)が見えたが、さすがに廃止から50年も経っていると、これが鉄道時代のものとは断言できない。

いつの間にか大田原市に入り、再建されたと思われる「駅の跡」が見えてきた。プラットホームへ上がる斜面にイミテーションの「線路状のオブジェ」が貼り付けられているが、ホームの上へ登る線路などあったはずもなく、おそらくイメージだけで作ったものだろう。史跡として整備するなら、線路やホームの位置づけは節度をもって処遇してもらいたい。ホームが模造か本物かの区別も明記すべきだろう。

ここが大高前(だいこうまえ)駅のはずだが、肝心の駅名標は見当たらない。大高は栃木県立大田原高校の略称で、今年の3月27日に起きた雪崩で、訓練中だった山岳部員の生徒7人と引率の教員1人が犠牲になったのはまだ記憶に新しい。痛ましい事故であった。同校は明治35年(1902)創立の伝統ある旧制中学校が前身で、副首相をつとめたミッチーこと渡辺美智雄氏、息子の喜美氏(元みんなの党党首)も共にここの卒業生である。