栃木県北東部を走る東野鉄道の廃線を訪る
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写真を拡大 国土地理院「地理院地図」に書き込み。図は平成29年(2017)6月21日現在

 栃木県の北部、東北本線西那須野駅から東へ分岐し、大田原(おおたわら)を経て黒羽(くろばね)方面を結んでいたのが東野(とうや)鉄道である。

野州(やしゅう)の東部を走るからで、野州とは下野国(しもつけのくに)のことだ。

 なぜ下野で「しもつけ」と読むのかといえば、説明は少し長くなる。かつて上野国(こうづけのくに・ほぼ群馬県)と、この下野国(ほぼ栃木県)はまとめて毛野国(けぬのくに)と呼ばれていた。

 それを5世紀までに上下に分けたのであるが、当時は国名や郡名、郷名は必ず2字で表記する決まりがあり、上毛野国・下毛野国とするわけにいかず、「毛を剃って」上野国・下野国としたのである。読み方は「かみつ・けぬのくに」および「しもつ・けぬのくに」のはずだが、後に「こうづけのくに」と「しもつけのくに」に転じた。

 ついでながら毛野国を流れている代表的な大河であることから毛野川(けぬがわ)と呼ばれていた川が、今は鬼怒川(きぬがわ)と呼ばれている(中世~近世には衣川・絹川の表記も)。

 さて、野州の話であった。上野国は上州(じょうしゅう)でいいのだが、下野国を「下州」などとすると、どうも格好が悪いからか、上州で使わなかった野の字を使って野州にしたのではないだろうか。

「人車鉄道」の走った大田原街道踏切

 橋上駅である西那須野駅を降りて東口へ向かった。首都圏の駅と同様にスイカの使える自動改札機がある。かつて東野鉄道が発着していたのはこちら側だが、昭和43年(1968)の廃止からほぼ半世紀経っているので、さすがに目立った痕跡はない。

 少しの間は東北本線の東側を並走し、大田原街道の踏切を過ぎた後で徐々に右カーブしていくのだが、大田原までの線路跡はずいぶん以前から遊歩道になっている。

西那須野から大田原へ・東野鉄道【前編】
東北本線の西那須野駅。東野鉄道はここを起点としていた。今は立派な橋上駅となっている。

  西那須野駅を過ぎてすぐ渡っていたのが第二大田原街道踏切で、並走する東北本線の方はもちろん現役の踏切だ。東野鉄道が大正7年(1918)に開通する以前は、この付近を起点に、街道上を大田原まで那須軌道の線路が敷かれていた。

西那須野から大田原へ・東野鉄道【前編】
第二大田原街道踏切。この手前側から大田原まで人車、後に馬車鉄道が走っていた。上に見える高架は東北新幹線。

  軌間(2本のレールの内法)は762ミリで、当初はミニサイズの客車を人が押すものだったが、大正7年(1918)から馬車鉄道に変更されている。「大正2年(1913)部分修正」の地形図を見ると、この軌道の南側ほど近い所に「大山邸」と記されているが、これは明治の元勲として知られる大山巌の別邸で、その墓所はすぐ近くだ。近所には乃木希典(まれすけ)も別邸を構えていて、近くには夫妻を祀った乃木神社が大正5年(1916)に創建されている。

廃線跡をイメージさせる「ぽっぽ通り」

 踏切のすぐ先から、廃線跡を利用した「ぽっぽ通り」が始まった。

歩行者と自転車のレーンが別々になっている。新緑なので木々の緑が美しく、さすが栃木県でトチノキも植えられている。栃木県という名称は当初県庁が置かれた栃木の町に由来するが、当初はこの木そのものの「橡木」という表記だった。

西那須野から大田原へ・東野鉄道【前編】
東野鉄道の廃線跡を遊歩道化した「ぽっぽ通り」は西那須野駅付近から大田原まで続いている。

  東北本線を跨ぐ道路をくぐるが、こちらの天井はだいぶ低いので、東野鉄道の廃止後にできたのだろう。ここを汽車が走っていたことをイメージして地下道内の壁には汽車の絵が描かれている。各地に見られる「落書き防止用」を兼ねたような壁画であるが、こういう絵に必ずきっぱりと7色の虹が描かれているのはなぜだろうか。それより抜けた先の満開のツツジは見事だった。藤棚の白い藤も木陰を作っており、改めて廃止からの年数を感じさせる。

 ほどなく郊外に出て田んぼの傍らの道となった。田植えを目前にしてどの田も水を張っている。列車が走っていた頃はその姿を水面に映していたのだろう。

廃止3年前の昭和40年(1965)の時刻表で確かめたら1日15本の黒羽方面行き列車(1本は大田原止まり)があった。片道ほぼ60~90分おきの発車で、本数は意外に多い。

西那須野から大田原へ・東野鉄道【前編】
田植え直前の田んぼの中をゆく廃線跡。
西那須野から大田原へ・東野鉄道【前編】
廃線跡をイメージして蒸気機関車を模した遊具も置かれていた。乃木神社前駅のモニュメント

 西那須野駅を出てからしばらく右カーブが続いていたが、ほどなく直線区間となる。やがて前述した神社入口にあたる乃木神社前駅の跡地。その参道を横切った先には駅の跡地を示すモニュメントがあった。改めて作ったプラットホームと駅名標、レールも敷かれている。ただし鉄道が現役時代の地形図で確かめると、駅は参道の手前(西那須野寄り)にあったようだ。

西那須野から大田原へ・東野鉄道【前編】
乃木神社前駅跡の近くに設けられた駅のモニュメント。本物のレールと大谷石のプラットホームが再現されている。

  その再建プラットホームに大谷石(おおやいし)が積まれているのは、この地域ならでは。

大谷石は宇都宮市の大谷町を主産地とする建材で、火砕流などが積もって固まった軽石凝灰岩である。栃木県や埼玉県を歩いていると、特に民家の土蔵や塀などに目立つし、このあたりの鉄道ではプラットホームに積まれていることも多い。東武鉄道春日部(かすかべ)駅もそうだ。乃木神社への参道はまさに一直線で、人車軌道の走っていた大田原街道からまっすぐ900メートルほど続いている。さすがに100年経った神社の参道は落ち着いた並木道になっていた。

 散った八重桜の花びらを踏み、傍らの菜の花を見ながら歩くと、間もなく小さな森に入る。用水を跨ぐ箇所があったので脇へ回ってみると、鉄道時代からと思われる石積みのカルバート(伏樋)が見えたが、さすがに廃止から50年も経っていると、これが鉄道時代のものとは断言できない。 

西那須野から大田原へ・東野鉄道【前編】
東野鉄道時代の伏樋(ふせび)だろうか。ホームか、線路か、

 いつの間にか大田原市に入り、再建されたと思われる「駅の跡」が見えてきた。プラットホームへ上がる斜面にイミテーションの「線路状のオブジェ」が貼り付けられているが、ホームの上へ登る線路などあったはずもなく、おそらくイメージだけで作ったものだろう。史跡として整備するなら、線路やホームの位置づけは節度をもって処遇してもらいたい。ホームが模造か本物かの区別も明記すべきだろう。

軽い気持ちで作ったオブジェも、半世紀も経てば本物と区別できない人も出てくる。

西那須野から大田原へ・東野鉄道【前編】
大田原高校の最寄り駅だった大高前駅跡のモニュメント。プラットホームに登るかのようなレールのオブジェには違和感も。

 ここが大高前(だいこうまえ)駅のはずだが、肝心の駅名標は見当たらない。大高は栃木県立大田原高校の略称で、今年の3月27日に起きた雪崩で、訓練中だった山岳部員の生徒7人と引率の教員1人が犠牲になったのはまだ記憶に新しい。痛ましい事故であった。同校は明治35年(1902)創立の伝統ある旧制中学校が前身で、副首相をつとめたミッチーこと渡辺美智雄氏、息子の喜美氏(元みんなの党党首)も共にここの卒業生である。
 

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