江戸時代、僧侶は女と性的に交わることを禁じられていた。
こうしたきびしい罰則があったものの、女犯僧はあとを絶たなかった。各種史料には、吉原や各地の岡場所で遊んでいた僧侶が町奉行所の役人に召し捕られ、晒し場で晒されたことが多数記録されている。
さて、滝沢馬琴の『馬琴日記』に、次のような女犯が記されている。
滝沢家の菩提寺は小石川茗荷谷の深光寺だった(現在も東京都文京区小日向にあり、滝沢馬琴の墓も現存)。文政十二年(1829)七月二十七日、馬琴の妻のお百が深光寺に墓参りに出かけ、驚くべきことを聞かされた。帰宅したお百はさっそく馬琴に報告する。それによると――
今月十七日、深光寺の住職は女犯破戒の罪が露見し、住職と、長年同居していた比丘尼、それに妾の三人が寺社奉行所に召し捕られた。住職はいま、牢屋に入れられている。
妾は当初、住職との関係を否定していたが、きびしい尋問を受けるにおよび、ついに白状した。この妾はもともと小日向あたりに屋敷がある御家人の後家で、つい最近になって深光寺で住職と同居するようになった。
いっぽう、比丘尼はもともとは大橋の岡場所の遊女で、住職が深川霊巖寺にいたころからの馴染みだった。女の年季が明けたあと、住職が引き取り、髪をそって比丘尼のかっこうにして、寺で同居を始めた。以来、十数年にわたって同居していたという。
馬琴は『日記』には妻から聞かされた事実を記したのみで、とくに感想は述べていないが、憤懣(ふんまん)やるかたない気分だったであろう。というのも、馬琴は謹厳実直であり、吉原などの遊里で遊ぶこともきらった。当時の文人としては珍しい存在である。
そんな馬琴の菩提寺が女犯の場となっていたのだから、なんとも皮肉といおうか。当時、多くの寺の風儀がいかに乱れていたかの証左でもあろう。
ともあれ、深光寺の住職はなんともすさまじい女犯である。遊女上がりの女を比丘尼に仕立てていわば本妻とし、さらにあらたに妾を求めて寺に同居させていたことになろう。
住職はまず遠島はまぬかれなかったはずだが、九月十八日、入牢中に死亡した。
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