柴川淳一[著述業]

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筆者がまだ、銀行員だった時、ある支店の顧客でちょっと風変わりなスナックのマスターがいた。わずか数ヶ月の預金取引で彼は店を畳み、どこかに引っ越してしまったが、いつも笑顔で話題豊富な、なかなか憎めない中年男だった。


彼は若い頃、某省庁で元国家公務員としてのサラリーマン経験があったという。国内外各地で勤務している事から、博学で諸事玄人はだしの見識を持っていた。海外でずいぶんと危険な目にあった事もあるらしい。

そのせいか、いろんなトラブルに対する備えとして様々な知識を身に付けていたようだ。

話題が病気に関する事なら応急処置から最新治療方法、薬の種類を述べ、法律の話になると、国内法ばかりでなく外国法の話に詳しくて驚かされる。航空機や船舶や気象の話をしていたかと思うと、各国の武器や格闘技の話をしたりする。オートバイや車が好きで大抵の修理は自分ですると言う。語学が達者で数ヵ国語を話せるらしいが挨拶くらいだと謙遜をするあたり、妙に信ぴょう性があった。

ある時、その彼と銀行の話になった時のことだ。彼は次のようなことを言ってきた。

 「マネーロンダリングって資金洗浄って訳されるけど、田舎じゃあ関係ないよね。そんな事件なんかめったに起こらないし。
例えば、俺の口座に外国から大金が振り込まれたら、銀行としては金融庁か国税庁に報告するのかなぁ」

それに対し、筆者は銀行員として、金額や入金回数にもよるけど一定の額以上だと金融機関は当局への届け出義務があると告げると、彼は真顔になって話題は途絶えた。

しばらくすると彼は姿が見えなくなった。不動産屋に尋ねると、スナックも畳み、店舗の賃貸契約も解消されていた。ちょうど同じ頃、筆者の勤務銀行と競合する地銀の営業マンが消えたマスターを必死になって探しているという話を聞いた。

【参考】<ぞっとする銀行の話>満期になった故人の定期預金を争う醜さ

その営業マンに、なぜマスターを探しているのか、と尋ねたところ、彼は困った問題が起きたと言い、他言無用と釘を刺して顛末を語った。

きけば東南アジア某国から個人名でマスターの口座に大金が振り込まれたというのだ。預金の勧誘を装いマネーロンダリング調査の為に訪問してみると、すでに引っ越してスナックも閉店していた、というわけだ。

速いタイミングで口座からも全額が引き出されている。当局へ報告ができないと、生真面目な営業マンの彼はしきりに嘆いたいた。

結局、マスターの正体はなんだったのか。今となっては知りようもないが、筆者としてはあれこれと空想してしまう。今にして思えば、マスターとは世を忍ぶ仮の姿で、実際は海外を股にかける国際的な機関の諜報活動員のようにも思える。


もちろん、どこまでいっても筆者の想像であり、その真実は永遠に藪の中だ。現実は小説より奇なり、を痛感する出来事だった。

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