第二次世界大戦の戦犯を裁く東京裁判は1948年11月12日に判決が下された。11人の判事のうち唯一の国際法の専門家であるインドのラーダービノード・パール判事は「ある国が他国と戦争をすること自体が犯罪とされたことは史上かつてなかった」という結論に達し、裁判そのものの論理的根拠に異議を唱えた。
このことはよく知られている事実だ。では現存する中では日本最古のインド料理店である「ナイルレストラン」の創業者A・M・ナイルが、戦前戦中の日本・満州国の事情に詳しいインド人としてパール判事を助けたことはどのくらい知られているだろうか。
A・M・ナイルは最初から料理店を経営するために来日したわけではない。彼は祖国インドをイギリスの帝国主義支配から解放しようとした革命家だった。当時のインドには非暴力主義を主張するマハトマ・ガンジーらのほかに、武力や経済力によってインドの独立を勝ち取ろうとする団体(後のインド独立連盟)が存在した。A・M・ナイルはその一員だったのである。
1928年に京都帝国大学に留学するために来日したナイルは、大学卒業後も帰国せずに壮士として日本に止まり祖国独立を支援する活動を続けた。しかしそれが災いした。1945年に戦争にやぶれて大日本帝国が崩壊し、1947年にインドが独立を果たした後も彼は母国に帰ることができなかった。ガンジーらとは違う道をいったナイルは異端児であり、新興インドには居場所がなかったのである。やむをえず日本に留まったナイルは1949年、東京都・東銀座にインド料理店を開く。それが「ナイルレストラン」である。
革命家が料理店の親父になるのかといわれたナイルは胸を張ってこう言ったという。
「インドが独立したんだ。次は私自身が店を通した道端の外交をしながら、自分を独立させるんだ」
『銀座ナイルレストラン物語』は、A・M・ナイルの長男でありレストランの二代目経営者であるG・M・ナイルに著者の水野仁輔が聞き取りを行い、日本最古のインド料理店の歴史を綴った本である。インド料理が日本に定着するまでを綴った食文化史の本であると同時に、ゼロから立ち上がった一家が富と名声をつかむ創業の記である。そしてA・M・ナイル、G・M・ナイルという無類におもしろい人物の評伝でもある。

G・M・ナイルによれば「ラース・ビハリ・ボースとA・M・ナイルが日本におけるインド料理の開祖である」という言説は大きな嘘だという。
2人は革命家であって料理家ではないからだ。少なくともA・M・ナイルは自身が店の厨房に立ったことは一度もないのである。彼は憂国の士であり、前出のパール博士と親しく交わった。共に広島を訪れたこともあり、「再び過ちは犯しません」と刻まれた碑文を見てパール判事が「いったい、誰が繰り返さないというのかね? 日本かねそれともアメリカかね? この町に原爆を落として破壊したのは、アメリカだったではないか」と激怒した逸話が伝わっている(A・M・ナイル『知られざるインド独立闘争』。冒頭の記述も同書に拠っている)。
では、誰が実際に店を取り仕切ったか。
彼の妻である由久子だ。由久子は開店後わずか3年で経営を軌道に乗せ、夫のA・M・ナイルに跡を引き継いだのである。実質的には彼女が初代経営者だったというべきだろう。息子であるG・M・ナイルは言う。
「当時の日本人にとってインドは遠いお釈迦様の国。洋食ならまだしも専門店などほとんど無かった時代でしょ?(中略)うちのお客さん、最初の頃はカレーにベイリーフが入ってるのを観て『ごみだ!』って騒いだ。
野菜カレーを出したときは、『肉も入ってないのかよ! こんなに水っぽくて』って言われたこともあった。(中略)母は店を立ち上げて三年間でもうそれこそ寝る間も惜しんで働いた。完全に基礎を作って従業員をぴしっと配置して、親戚から借りてきたお金も全部返して、パッと店から手を引いちゃったの。『女がこれ以上、口を出すもんじゃない』って。全部親父に渡して、お店に出るのも止めちゃったわけ。完全に家庭の主婦になった」
妻から経営を引き継いだA・M・ナイルは筋金入りの頑固者だった(元は革命家なのだから当然だ)。
店の一番奥の席を定位置として待機し、強面の風貌で客を出迎える。常連客でも「怖い」というような接客態度で、ガムを噛んでいる客や食べ残しをする客は叱られたという。敗戦後の荒れた時期に出来た建物はバラックと紙一重で、テーブルはがたがた、水を流せば一方向に流れていくほど床も傾いていた。それでも裏表のない性格に惹かれてリピーターとなる客は増えていく。革命家としての人脈から旧陸軍の人々が来店してくれたことも宣伝のためには大きかっただろう。ナイル監修のインデラカレー粉は百貨店などに卸され、日本におけるインド料理の普及に貢献することになった。
二代目であるG・M・ナイルは、唐突なきっかけで店の経営に関わることになる。1964年に彼が大学に進学すると、A・M・ナイルは宣言する。自分は1年のうち5ヶ月はインドに住む(1958年に30年ぶりに帰国が叶っていた)、その間はお前が店をやれと。一番遊びたい盛りである大学時代に、G・M・ナイルは若主人として店を切り盛りする義務を担わされたのだ。
だが、G・M・ナイルは父親以上にこの商売が水に合っていた。幼いころから生活の大部分をナイルレストランで過ごした彼にとって、店は家そのものであり、経営をすることはごく当たり前のことだったのだ。もともと料理人ではないA・M・ナイルは、息子が本格的に飲食業者になることを嫌がる。たがG・M・ナイルは、大学を卒業すると父を説得して二代目経営者に収まってしまった。なにしろ1年間のうち5ヶ月間は自分が切り盛りしていた店なのだから移行はスムーズだ。やがて彼は、父親を上回る才で店を発展させていくことになる。
G・M・ナイルが行った改革の1つが、インド人コックの雇用だ。彼を軽視して言うことを聞かない日本人従業員をすべて解雇し、ナイル一族の故郷であるトリヴァンドラムから腕利きのコックを連れてきた。だが出稼ぎ根性で日本に来られたのではたまらない。店に愛着を持たせ、経営者に敬意を払わせる必要がある。そのためG・M・ナイルは高給と良い住環境を持って彼らを遇した。年に2ヶ月間店を閉め、里帰りもさせる。旅費は当然ナイル持ちだ。従業員は喜んで働き、ナイルに絶対服従を誓った。1970年、G・M・ナイル25歳のときには大阪万博が開催された。そのときにはインド政府から依頼があり、パビリオンに出店したレストランの取り仕切りを任されたのである。貪欲なナイルはインドの一流ホテルから派遣された料理人たちに近づき、その料理法を盗んだ。

二代目経営者の豪腕によって店が繁栄していく過程が実に楽しい。G・M・ナイルのおもしろいところは、自身が技術を仕入れ、最先端のインド料理にも詳しくなっておきながら、創業以来のメニュー、ナイルレストランの味を守り続けたことである。
「遠い将来を見据えたときに、何がこの店の生き残り策か、何が儲かるか、何が何がを突き詰めていったら、現状維持が一番いいって結論になった。それをできるかできないかが、よき経営者になるか、単なるフロンティアに終わっちゃうかの分かれ道なの。僕もタンドーリチキンやってみたいと思ったことがあった。でもそれをやってたら『ナイルレストラン』なんてもうなくなってるわ。いいじゃない、タンドーリチキンがなくてもバターチキンがなくても。うちのムルギランチ(引用者註:骨付き鶏肉の乗ったカレーライス)があればいいじゃない。うちのチキンカレー、ベジタブルカレーがあればいいじゃない。それで充分!」
ナイルレストランを訪れる人の多くはメニューを見ない。当たり前のように看板メニューのムルギランチを食べるからだ。G・M・ナイルはその味に万全の自信を持っているのだ。
そんなナイルレストランにも経営の危機が訪れたことがある。1997年5月28日、隣接するビルが出した火事が建物にも燃え移り、レストランの大半が焼失したのだ。G・M・ナイルの人生そのものというべき場所が無くなってしまった。東銀座といえば日本でも有数の土地価の場所であり、不動産の権利が高価格で取引される地である。この火事によってナイルレストランが閉店に追い込まれてしまう可能性もあっただろう。しかしG・M・ナイルは、友人の助力もあって立ち直る。逆に店のあった土地を買収し、ナイルレストランの経営を磐石のものにしたのだ。それができた背景には、彼が名うての警察マニアであり、地元警察署とも太いパイプがあったことがある。火事の翌日、ナイルの元には地上げ屋の暴力団が訪ねてきた。しかし……。
「(前略)二万円だか三万円持って、『いよいよナイルもおしまいだな』って感じで嬉しそうにやってくるの。仕方がないから話し相手をしていたら、店の前に黒塗りの車が停まった。そこからバンバンバンって出てきたのがね、警視庁の防犯課長と築地警察の署長。『お見舞いでございます』って、皆お見舞いを持って来てくれた。(中略)それを見たヤクザが目を丸くしてね。僕と警察とが親しいのは彼も知ってた。でもまさかここまでだとは思ってなかったみたい。だからそれで尻尾まいて帰ったわ」
G・M・ナイルは雑誌「BRUTUS」で日本各地のカレーを食べ歩く企画をやったことがあり『ナイルさんのカレー天国!!』(構成:佐藤朗)という本にまとめられている。連載が始まろうとする直前に和歌山毒入りカレー事件が起き、やむなく半年開始が延びたといういわくつきの連載だ。ここでのナイルは美しい女性が好きで自慢も大好きな変なオジサンだ(警察の話も頻繁に出てきて『警視庁のなかでカレー屋やりたいですね』なんて言っている)。マスコミへの露出も多い人であるだけに、彼に敬意を抱いているという読者はそう多くないはずだ。本書を読めばその印象は間違いなく変わる。1年365日のうち、正月を除く毎日を働きづめに働き、店では従業員と一緒に清掃などの下働きもこなす勤勉な男だ。自分を慕って来てくれる者を受け止め、信義を大事にする好漢である(あと水野晴郎以上の警察マニア)。
本書を読んで関心を持った人は機会があればぜひ店を訪れ、看板のムルギランチを食べてもらいたい。店員は料理を運んだときに必ず鶏肉を骨から外し、すべてを「混ぜて食べる」ように言うはずだ。言われたとおりにしないと哀しそうな顔になるから、絶対に混ぜるんだぜ。G・M・ナイルとの約束だ。(杉江松恋)