芸能人が著書を発表すると、必ず「ゴーストですか?」とからかう者が出てくる。
3月23日に行われたNEWS・加藤シゲアキの第3長篇『Burn. -バーン-』の発表会における取材でも同じような質問があったらしい。
囲み取材だから、おそらくは冗談だったのだと思うけど。それに対して加藤は「ゴーストがいると聞かれること自体、作品がおもしろいという証拠だと思っています」と答えた。
うむ。いい切り返しである。

本日3月24日あたりから、その『Burn. -バーン-』が書店に並び始めるはずだ。未読の方の興を削がないために、最初の部分のあらすじだけを少し紹介しておこう。


かつて天才子役と称された夏川レイジは、芸歴の絶頂期に突然引退した。それから20年が経ち、現在は舞台劇作家という立場である。仕事を評価されて演劇業界最高峰の賞を授かっただけではなく、妻の望美が第一子を宿すという幸せな出来事もあった。
だが、その幸福の絶頂において不幸な出来事が起きてしまう。望美が運転中に事故を起こしてしまったのだ。レイジは傷こそ負ったものの無事に息を吹き返したが、望美の意識は戻らない。
その状態が長く続けば、二人の子供にも危険が及ぶ可能性があった。絶望に打ちひしがれるレイジの前に現れたのは、思いがけない人物だった。
かつての通り名はローズ、渋谷でJANISというドラッグクイーンが集まるクラブを経営していた。その口から「徳さん」という懐かしい名前を聞かされ、レイジの脳の中で20年前の記憶が徐々に甦り始める。小学4年生、子役として多忙な日々を送っていたころのことを、彼は完全に封印してしまっていたのだ。ようやく目を覚ました望美を見守りながら、レイジは取り戻した記憶を書き留め始める。


このように現代のパートと、レイジが取り戻していく20年前の記憶とが並行して綴られていくのである。
大人のレイジが、自身が出演したドラマのDVDを観る場面がある。その演技は「言われた通りのセリフを言われた通りにやっているだけ」なのに「役柄そのものに染まっている」ものだった。自我が確立された大人は役に「成りきる」ことはできても、「なる」ことはできない。それが当時のレイジにはできたのだった。

───なぜそんなことがあの頃できたのか。
それは、そもそも自分というものがなかったからだ。擦り合わせる作業など必要ない。ハードウェアの自分に「役」というソフトをインストールして取り込めば済んでしまうのだ。
───あの頃の僕はただの機械だった。

こうした虚ろな心の持ち主だったレイジが、渋谷駅前の宮下公園で徳さんと名乗る不思議なホームレスと出会うのである。とらえどころのない性格の徳さんは、時に小学生のレイジに飲み物代をたかるようなこともするが、子供だからといって適当にあしらわず、真摯に向き合う大人でもあった。
彼と、その友人であるローズとの出会いが、空っぽだったレイジの心を変え始めていく。

加藤シゲアキはデビュー作『ピンクとグレー』で兄弟のように近い関係にある二人の少年を主役として採用し、虚構の役柄に自分を落とし込んで生きるしかない役者の業を描いた。続く『閃光スクランブル』は、パパラッチ・カメラマンとスクープ対象のアイドルとの出会いを描いたボーイ・ミーツ・ガール・ストーリーだが、芸能界の光と影の部分を対照させ、なにが嘘でなにが本当かを問おうとした小説でもあった。

そうした形で芸能界を題材とし、また主人公たちが加藤自身もなじみの深い(青山学院大学出身である)渋谷の街を舞台とした〈渋谷サーガ〉の3作目が『Burn. -バーン-』である。
かつての天才子役を主人公とすることで前作までの形式は踏襲しているが、本作では芸能界という要素は不可欠なものではない。夏川レイジが自分自身の心を取り戻す小説だからだ。

むしろ大事なのは彼が失ってしまった人とのつながり、家族の持つ意味を発見する過程のほうなのである。子役という特殊な境遇ゆえに一人になってしまった少年時代と、人の親になる直前で足踏みをしている大人の現在とが並行して書かれていくのは、家族という主題を複数の視点から眺め、作者なりの言葉で語る必要があったからなのだ。

おそらく加藤は、もう〈渋谷と芸能界〉という武器を使わなくても小説が書ける。読者の方も「芸能人が書いた小説」という思い込みは捨て、虚心坦懐に作品に向き合うべき時期がきた。なにしろ、デビュー3年目、長篇3作目だ。これから新人という肩書きがとれて本当の意味での勝負が始まる。入り江から外海に出れば、波は高く、風も強く吹き荒れる。それに負けず、書き続けていってもらいたい。読者は常に勇気ある書き手の味方だ。