いまから75年前のきょう、1941(昭和16)年12月8日未明(日本時間)、日本陸軍がイギリス領マレー半島に上陸したのに続き、日本海軍がハワイ真珠湾を攻撃した。こうして日本はアメリカやイギリスなどを相手とする太平洋戦争へと突入する。


アメリカと日本が戦争をする可能性は低かった


日本はなぜアメリカと戦争するにいたったのか? これについてきちんと説明できる人は、はたしてどのぐらいいるだろうか。恥ずかしながら私も、アメリカによる石油輸出禁止など戦争にいたった原因を断片的に覚えている程度で、ちゃんと理解していたとはいいがたい。
日米開戦は回避できた。なぜ日本は真珠湾を攻撃したのか
井上寿一『教養としての「昭和史」集中講義』(SB新書)。戦後日本の枠組みについての解説では、映画「シン・ゴジラ」への言及もある

そんな大人のために打ってつけの本が最近出た。井上寿一『教養としての「昭和史」集中講義』(SB新書)がそれである。著者は日本政治外交史の研究者で、現在学習院大学の学長を務める。

サブタイトルに「教科書では語られていない現代への教訓」とあるが、本書の趣旨は教科書に出てこない新事実をあきらかにしようというものではない。むしろ逆で、内容的には現在多くの高校で使われている日本史教科書の戦前昭和史の部分に依拠している。
ただし教科書は情報量が重視されるゆえ、どうしても事実の羅列になりがちだ。そこで本書は、教科書では端折られがちな、個々の事実をつなぐさまざまなできごとをとりあげながら、戦争にいたるまでの経緯をたどっていく。

太平洋戦争については「避けることのできた日米開戦」と題して1章が割かれている(第4章)。「避けることのできた」というのがポイントだろう。現在から振り返ると、アメリカの戦争は起こるべくして起きたとどうしても考えてしまいがちだ。しかしその過程をつぶさに検証してみると、真珠湾攻撃までには戦争回避できる場面がいくつかあった。
それどころか、ヨーロッパで第二次世界大戦が起こってからもしばらくのあいだは、日本とアメリカが戦争をする可能性はきわめて低かったと、本書には書かれている。どういうことか?

そもそもアメリカでは孤立主義のムードが支配的で、当初はヨーロッパでの戦争にも、日中戦争にも介入しなかった。さすがにドイツとイタリアが短期間のうちにヨーロッパの各地を占領してからは、ヨーロッパからの移民国家であるがゆえアメリカも重い腰を上げようとしたものの、欧州戦線に加わる以上、よけいにアジアには手を出したくないと考えるようになる。日本と戦争する可能性が低かったというのは、そういうことである。

海軍大臣が開戦に反対したくてもできなかった理由


一方でこのころ、日中戦争は泥沼化していた。蒋介石率いる国民政府は本来は敵対する共産党と協力して、日本に対して粘り強く抗戦を続けたからだ。国民政府はまた、アメリカ、イギリスなどから東南アジアを介して軍事物資の援助を受けていた。
そこで日本は、この援助ルート(援蒋ルート)を遮断するため、北部仏印(フランス領インドシナ北部)に進駐し、南進政策を開始する。

日中戦争を解決するためのこうした南進政策が、アメリカを刺激することになる。アメリカは日本に対して段階的に経済制裁を行なった。もしここで日本が中国から手を引いていれば、アメリカと戦争する必要はなかったことになる。

だが、ヨーロッパでは先述のとおりドイツとイタリアが快進撃を続けていた。日本は北部仏印進駐の直後、両国と三国同盟を結んでいる。
ここから、もしかしたらヨーロッパにドイツ・イタリアを中心とする国際秩序ができるのではないかとの期待もあり、それと連動して、アジアで日本中心の新しい国際秩序をつくろうという機運が高まっていく。

他方、1941年4月には当時の近衛文麿内閣がアメリカとの戦争回避のため日米交渉を始める。しかし、そこへ来て、松岡洋右外相が日ソ中立条約を調印、ソ連との中立関係をちらつかせてアメリカに圧力をかけようとしたことで、ますますアメリカを刺激することになった。加えて同年7月、日本は南部仏印(フランス領インドシナ南部)に進駐を開始、アメリカはこれに対抗して、対米日本資産の凍結と対日石油輸出の禁止を断行する。結局このことが日本がアメリカとの戦争に大きく舵を切るきっかけとなった。

この間、日米交渉も行きづまりを見せる。
近衛首相は外相の豊田貞次郎、海軍大臣の及川古志郎らの後援を得てアメリカに対する譲歩案をまとめようとしたが、陸軍大臣の東条英機は頑なに拒否する。このとき及川海相が「対米戦争はできない」と明言していたのなら、開戦は回避されたとの見方も強い。

しかし、海軍はそれまでアメリカを仮想敵国として軍備拡張を行なってきた。それが、いざ戦争という段になって、回避するのであれば、海軍は腰抜けだとのそしりを受けかねない。それゆえ、及川個人は対米戦争を望まなかったにもかかわらず、海軍自体として戦争に反対であるとは言えなかったのである(五百旗頭真『日本の近代6 戦争・占領・講和』)。

日米交渉の不調から政権を投げ出した近衛のあと、日米開戦を強く主張していた東条英機が組閣の大命を拝す。
その東条だが、思いがけず首相となった途端に及び腰となる。その大きな理由は、昭和天皇が開戦回避を望んでいたことだ。天皇を絶対視していた東条は、戦争回避の可能性も最後まで模索しつつ、戦争準備も並行して行なうことになる。そこで交渉のひとつの区切りとして設定されたのが、1941年12月初旬であった。

結局、アメリカが最終段階で日本に対し、ハル・ノートと呼ばれる非公式提案において日本の中国・仏印からの撤兵などとうてい飲めない条件をつけてきたこともあり、開戦は不可避の状態へと追い込まれることになる。

真珠湾攻撃は「ありえない作戦」だった


ところで、『教養としての「昭和史」集中講義』によれば、真珠湾攻撃は日本の軍事戦略上、あきらかに得策ではなかったという。著者の井上はその理由について次のように述べている。

《なぜならばもしアメリカの領土であるハワイを攻撃するのではなく、東南アジアにあるイギリスやオランダなどの植民地に兵を進めるにとどめておけば、アメリカが日本に宣戦布告することは難しかったと思われるからです》

実際、井上は、アメリカ人の軍事史研究者に、「もしも日本が真珠湾ではなく、イギリスやオランダの植民地を攻撃していたらどうなったか?」と質問したところ、「それはアメリカにとって悪夢だ」との答えが返ってきたという。

軍事戦略上ありえないと考えられていた真珠湾攻撃を日本が仕掛けたのは、《奇襲攻撃で打撃を与え、アメリカが立ち上がる前に出鼻を挫き、早めに和平を結んで本格的な戦争を避けるのが一番いい》という海軍の考えによるものだった。だが、実際には早期和平はならず、戦争は足掛け5年も続いたのである。

もし日本が真珠湾を攻撃しなければ、どうなっていたか? これについて井上は《アメリカは第二次欧州大戦のみに専念し、一方でアジア・太平洋ではイギリスやオランダと日本が植民地をめぐって戦争を繰り広げる状態が続いていたのではないかと思われます》と推測する。もっとも、それはそれで泥沼化したのではないかという気もしないでもないが。

もし日米開戦が回避されていたのなら……


日米開戦が回避されていたらどうなっていたかについては、研究者のあいだでも意見が分かれるところだ。「仮にハル・ノートを受け入れて戦争を回避したとして、日本は増上慢きわまりない国家となり、世界の鼻つまみになっていたはずだ」とは保坂正康の言である(『さまざまなる戦後』)。これに対し真っ向から異を唱えるのが、大杉一雄『日米開戦への道 避戦への九つの選択肢(下)』だ。同書によれば、第二次大戦でドイツが壊滅したあと、日本は国際的に孤立せざるをえないはずで、ゆえに《軍部勢力は衰退せざるを得ず、親英米勢力が復活し、政権は文民の手に復帰することになるだろう》という。

ここで著者の大杉は参考例として、かつてドイツとイタリアと手を組みながら第二次大戦には参戦しなかったスペインをあげている。フランコによる独裁体制が1975年まで続いたとはいえ、スペインは戦争の犠牲、敗戦による外国からの強制を受けることなくして、ファシズムから民主国家へと転換に成功した。

もちろん、アメリカを中心とする連合軍に占領されたおかげで、日本ではごく短期間で新憲法の制定をはじめ諸改革が実現できたことは間違いない。だが、『教養としての「昭和史」集中講義』でもとりあげられているとおり、農地改革や婦人参政権の獲得など戦後改革のなかには、じつは戦前から準備されていたものも少なくない。だとすればなおさら、日米開戦が回避できていたのなら、多少時間は遅くなっても、日本人だけで民主化を達成できた可能性は高いはずだ。

歴史に「もしも」はないとはよく言われるところである。だが、歴史がさまざまな可能性のなかから一つひとつ選択をしていった結果だとするなら、その可能性を問うことは、いまを生きる私たちの教訓となりうるのではないか。それが日米開戦という国の命運を大きく左右したできごとについてであれば、なおさらだろう。
(近藤正高)